見えないものを、護るため

デジタル・ミニマリスト カル・ニューポート 早川書房

最近「SNSによって読書が妨害されているなー」と感じていました。もちろん、悪いのはSNSではなく、それが読書を妨害するほど見ている自分なんですけどね。

道具や技術は使い方によって良いものにも悪いものにもなります。これはSNSについても同様。それなりの使い方をしていれば、情報源や自己発信の場として役立ちます。

私も本の情報については、SNSから得ているところも大きいと思います。ネット検索はともかく、書店や図書館でも目にしなかったであろう本と、SNS上での出会いをすることもあります。

そんなSNSで本の情報を得たり本を購入したりするに至っても、SNSによってその本を読む時間が蝕まれては本末転倒というものです。このあたり、問題に感じていました。

最近、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』という本を読んで、身の周りにあふれる“目に見えるモノ”が空間を蝕むのみならず、記憶や気持ちといった頭の中にまで影響していることを知りました。

そして、その紹介記事のタイトルを「目に見えるモノを減らせば、目に見えないものが見えてくる」としました。

しかし、その“目に見えないもの”、つまり記憶や感情、心の余裕、あるいは人生の大切な時間であるとか、そういうものさえも蝕んでしまうものの一つがSNSなどデジタルなものです。

目に見えるモノを減らして、目に見えないものを大切にすることは分かりました。それでも現代は、その“目に見えない大切なもの”さえも侵食されています。

今回ご紹介する本は、そんな目に見えないもの大切なもの、つまり心や大切な時間ですね、それをデジタル技術の使い方を見直すことで護ろう、という内容になっています。

デジタル・ミニマリズム

自分が重きを置いていることがらにプラスになるか否かを基準に厳選した一握りのツールの最適化を図り、オンラインで費やす時間をそれだけに集中して、ほかのものは惜しまず手放すようなテクノロジー利用の哲学。(P61)

ここで著者は「デジタル・ミニマリズム」という考え方を述べます。

そう、単にアプリなどを減らす、オンラインで費やす時間を減らすというのではなくて、厳選したツールに集中できるようにするのですね、

今の自分にとって何が必要なのか。それを考えてツールを厳選し、そのツールに時間を費やすことができるように他のツールは手放すということです。

これはツールを減らすことと同時に、利用する時間についても考えると良いでしょう。つまり、今の自分にとってあまり必要ではないツールを使う時間を減らし、必要なものに時間を充てるわけです。

とくにデジタルツールやアプリの場合は、モノと異なり空間を占めたり汚損したりすることもないでしょうから、いくらでもいつまでも増やし蓄えることができてしまいます。

それらは無意識に利用者の集中力や注意力を蝕み、もちろん機器のパフォーマンスも落とすでしょうから、こういった哲学は重要ですね。

デジタル・ミニマリズムの有効性を支えているのは、利用するツール類を意識的に選択する行為そのものが幸福感につながるという事実だ。そしてその幸福感はたいがい、排除したツール類から得られていたであろうメリットよりも大きい。(P97)

自分に必要なツールはこれだ、「君に決めた!」とポケモンばりに利用するツールを厳選しましょう。

そして、他の雑多なツールに充てられて幾ばくかの幸福感もどきを得ていた時間も、大事なツールに注ぎ込むのです。

幸福感というのは、考え出すと色々な方向に行ってしまい収集がつかなくなってしまいますが、その尺度は“濃さ”のような気がします。

そして、薄い幸福がたくさんあっても、あまり幸福感を感じません。普段とのコントラストというか、とびぬけた幸福を感じるような出来事があると、幸福の濃度が上がり、幸福感を得るのではないでしょうかね。

日々幸福そうな暮らし振りでもちっとも幸福ではない一方で、ちょっとした出来事が、人生を一変するような幸福感をもたらすこともあります。その理由は幸福の濃度にあると思います。

薄い幸福しかもたらさない雑多なツールを減らすことで、厳選されたルーツからの幸福感がより一層際立ち、濃度が上昇するのです。

孤独とは、周囲の環境を指すのではない。脳の内側で何が起きているかが問題なのだ。したがって二人の定義によれば、孤独とは、自分の思考が他者の思考のインプットから切り離された意識の状態を指す。(P142)

孤独の欠乏

他者の思考のインプットに気をとられ、自分の思考のみと向き合う時間が限りなくゼロに近づいた状態。(P154)

外なるものを絶つことにより、内なるものが感じられるのだと思います。孤独の時間はまさに外界からのインプットを絶ち、自分の内側と対話する時間です。

もちろん外界の情報や他者との対話によって知識や考え方を収集しアップデートすることは大切です。

しかし、良いアイデアを得るためには知識の仕込みや無意識に任せる発酵時間も必要である一方で、ときどき自分の内側を眺め点検して“かきまぜる”ことも必要です。

うーん、なんとなく“ぬか床”の管理、ぬか漬けの作り方のような話になりました。まさにそういうことだと思います。

アイデアという美味しいぬか漬けを作るためには、米ぬかや具材といった知識を仕込み、無意識のごとく日夜働く乳酸菌にお任せして発酵という神秘の力を使うことが必要です。

そして、味の染みわたり具合や発酵に大切なのことの一つが“かきまぜる”ことだと思います。表面と深部を混ぜたり、奥から引っ張り出したりします。もしかしてそこには“心”も混ぜ込まれるかもしれません。

ともかく、孤独の時間というのは外界からのインプットを絶ち、自分の内側での思考や感情をながめて、必要に応じてかきまぜる時間ですね。

そういったメンテナンスをすることで、発酵ではなく変な腐敗を起こしてしまったり、ガスが溜まって爆発したりすることを避け、自分なりの美味しいぬか漬けを得ることができるのです。

孤独の欠乏。グサリとくる言葉です。孤独というとネガティブなもの、避けたいものと感じるかもしれません。

でも、上に述べたような大切な時間なのです。それが、現代では欠乏しているということです。だから、変に腐敗したり爆発したりするのかもしれません。

モノを減らし、デジタルも減らすことで、多少ボンヤリできる時間も増えてくると思います。そのボンヤリが大事なんです。

これまではそんな時間があればネットを見たり誰かと過ごしたり本を読んだりして有効に利用しなければ、と考えるかもしれません。

もちろん読書は読書で大変良いのですが、それでも敢えて、孤独の時間、積極的にでも確保したいものですね。

オフラインでの交流は驚くほど豊かな経験だ。なぜなら、ボディランゲージや表情の変化、声の調子など、微妙なアナログのヒントから得られる大量の情報を脳内で処理しなくてはならないからだ。(P206)

新型コロナ感染症の蔓延に伴い、一時期は仕事が在宅になったり会議や出張など人と人とが合うことが減ったりしました。そしてオンライン対面システムが広く導入されました。

私も学会や会議の出張が減り、学内会議もオンラインが多くなりました。出張ついでの書店巡りができなくなったという非常に寂しいことはさておき、時間や費用の面ではかなり節減されたと思います。

メールや電話と異なり、オンライン対面では相手の顔も(表示していれば)見えますから、表情やしぐさなどもある程度見ることができます。今後もこれでいいんじゃないか、とも思いました。

ただ、なんでしょう、画面に顔が映って口がパクパクして言葉が聞こえて、それでコミュニケーションは電話などよりはるかにできますが、やはり表情と言葉だけなんですよね。

リアル対面での会話は、私は苦手ですが、多くの情報が二人の間と周囲に満ちあふれているのだと思います。

手足の位置や動き、身体の向きだとか態度、あるいは一緒にいる周囲の環境。場合によってはおいしい料理やお酒。

たしかにこういったアナログなことが、無意識に相手の感情や疲労度などを感じ取り、あるいは無意識に相手に対する記憶やエピソードを呼び起こしてくれているのかもしれません。

視覚と聴覚で表面的、意識的に情報を処理している感じのオンライン対面と異なり、リアル対面では五感をフルに活用しつつ潜在的、無意識的にも膨大な情報を処理しているのだと思います。

そして、そういった五感から無意識までフル活用することこそが、コミュニケーションの大切な要素というものではないでしょうか。

オンラインとかリアルとか書いていたら、なんとなくオンライン書店(ネットで本を探して注文すること)とリアル書店に考えが及びました。

オンライン書店はこちらの需要に合った本を提示してくれます。一方、リアル書店は欲しい本について探したり端末で検索したり店員さんに聞いたりします。

書店を訪れたり、歩きまわったり本を手に取ったりする運動や店内の環境、音楽、匂いなど五感をフル活用した様々な脳内処理が巻き起こりますね。

その辺りもやはり、リアル書店の楽しい所ですし、人と人とのコミュニケーションにおいても楽しさを生み出すポイントなのかもしれません。

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以前ご紹介した『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』とこの作品と、モノやデジタルを減らすことについての本を読んできました。

多いほど、便利なほど良いと誤解(洗脳?)されてしまっている現代において、「減らすこと」は生き方の質と、もしかして幸福度も上げる方法なのかもしれません。

考えてみると、食事についても同様のような気がします。生きていくために必要で、生物が本能的に欲求する「塩」についても、今では容易に入手して使うことができます。

『西夏の青き塩』の紹介記事もご参照ください)

また、様々な人口調味料によって味の濃さも味付けも自在にできてしまいます。

そういった食事に“あふれた”時代には高血圧や糖尿病など生活習慣病が増えていますし、栄養剤などで手軽に栄養を摂取することができ、食事そのものの意味や大切さも失われている気がします。

時と場合にもよりますが、家族などと対面で地のものや旬の食材を取り入れ、心を込めて作られた食事を心を込めていただくことが、“リアル食事”とでも言えるのではないでしょうか。

さらに「本」についてもそうかもしれません。うーん、そう言われてしまうと私も立つ瀬が無いのですが。一度大量に本を売り払ったとは言え、まだまだ増え続ける本に囲まれています。

本についてもある程度「減らすこと」が、本との上手い付き合い方にたどり着くのかもしれません。はい、今後、検討します。

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