いかに知識を輝かせるか

教養を磨く 田坂広志 光文社新書

田坂広志氏の著書をご紹介するのも、これで7冊目となりました。

私は『知性を磨く』を最初に読ませていただき、「知性」と「知能」の違いについて深く感銘を受けたことから、氏の著書を読み進めるようになりました。

このブログでご紹介した本は氏の膨大な数にのぼる著書のごく一部ですが、氏の著書は知性、仕事といった実用的なことから、量子論、直感、生き方、宗教といったことまで幅広く考察されたものばかりです。

私の頭の中に用意されている「考え方」や「捉え方」の多くを氏の著書から取り入れさせてもらった気がしますし、また既存の科学観や宗教観を氏の著書によって磨いていただいた気もします。

今回ご紹介する本は『教養を磨く』ということで、氏のこれまでの思想、考察や数々のエピソードが存分に盛り込まれた内容となっています。

むしろ、この本を読むと、著者の思想とその幅広さ深さ、そして確かさが氏の著書を読むのが初めての皆さんにも手に取るように分かる一冊と言ってもいいでしょう。

全部引用したいくらいなのですが、そういうわけにもいきませんので、今回とくに印象に残った部分を引用して紹介いたします。

いま、「人工知能革命によって生き残れる人、生き残れない人」といった議論が世の中に溢れているが、その議論の前に我々が定めるべきは、

「人工知能技術」(AI)の本質は

「知能拡張技術」にほかならない

という認識であろう。(P149)

田坂氏はもともと原子力工学を専門にしておられ、科学はもちろんAIについても鋭い洞察を展開しておられます。氏の著書を読んでいると、AIについても理解と考察が深まります。

ここで述べられているようにAIは、人間の能力の一つである知能を拡張する技術にほかならないものと言えるでしょう。

人間には様々な能力があります。運動、感覚、記憶、計算、言語、感情などなど。そのうち計算や記憶の能力に特化して人工的に作ったものがAIです。

運動の能力に特化して作ったものとしては自動車や電車、飛行機、あるいはショベルカーや種々のロボットなどが当てはまるでしょう。

感覚の能力に特化して作れば、内視鏡や赤外線カメラ、天体望遠鏡や顕微鏡、マイク、アンテナ、重量計、温度計、速度計、糖度計、照度計、圧力計などなど、様々あります。

言語に特化させて作ったものは、何でしょうかね。辞書や電子辞書、本や電子書籍、翻訳機などはその一端を担うのかもしれません。

ともかく、人間が手で掘ったらとても大変な作業をショベルカーで掘ったり、歩いたり走ったらとても大変な距離を新幹線や飛行機でビューンと移動するように、膨大な計算や記憶をしてくれるのがAIなのです。単なる「道具」なのです。

ただし、「道具」はそれを使う人間によるところが大きいものです。一部の人間がAIを仕向ければ、AIはそれに従って人間の仕事を置き換えたり、人間を危険にさらしたりすることもあるでしょう。

道具のみならず、知識や技術についてもそうですが、その使い方は最終的には使う人間にかかっているのですね。

実は、古典と呼ばれるものには、この二つの種類の言葉、「理想的人間像」を語る言葉と、「具体的修行法」を語る言葉が書かれている。(P198)

ある人物の生き方について具体的な話の方が、身に沁みて理解できることもあります。また一方で、理想的な生き方をする人間像が心を打つこともあります。

それら二つを行ったり来たりして読書体験、あるいは実在の人物からの言葉で体験することで、徐々に自分なりの生き方の理想像と具体的方法を獲得していくのではないでしょうか。

孔子の『論語』は、前者の要素が多いかもしれません。まさに孔子が弟子たちに、理想的人間像とはこれこれこうであるとズバズバ曰(のたま)った記録であるわけです。

それを読んで、理想とする人間像の目標が、おぼろげながら自分の中に構築されていくと思います。

目標を立てれば、まっすぐそこに向かうことは難しいとしても、微調整しながらも向かう先が決まります。

一方で、歴史上の様々な偉人についての「伝記」は、後者の「具体的修行法」を語るものに当るのかもしれません。

一人の人物が、生まれてからどんな子供時代で、どのように勉強、仕事、あるいは練習して、今に伝わるような偉業をなしえたか。

その人生をそっくりそのまま自分の人生に取り入れようという読者はいないでしょう。でもその一部を参考にすることはできます。

たとえば学校での勉強のしかたや、仕事や練習で挫折したときにはどのように考えたか、立ち直ったか、といった要素を真似できます。

人はどうしても結果に注目してしまう傾向があります。しかしその結果の影には様々な苦労や挫折、転機があったことを知ることで、自分の人生においても同様であると知ることができます。

様々な古典を読むと、いつの世も現代と同じような苦労があり、悩みや喜びがあったことが分かります。その辺りは1000年2000年を遡る『源氏物語』や『聖書』からさえも伝わってきます。

そこに描かれた人間としての理想像や生き方は、多くの人に理解され、大切だと思われてきたからこそ、現代に残ってきたのでしょう。

「理想的人間像」や「具体的修行法」が書かれた当時のみならず、時を超えて空間を超えて伝えられてきた、いつの時代でも通用する書物が「古典」として残ってくるのです。

自分が目指す理想像があるのであれば、「理想的人間像」についてしっかりと頭の中に固めておき、その理想像に近い人物の言行録や伝記など「具体的修行法」を読む。

この行ったり来たりを重ねることで、自分の理想的な生き方に近づくことができると思います。

我々は、いつも、成功するための普遍的な方法があると思い、

その理想的な方法を、手軽に身につけたいと考えてしまうのである。(P273)

世に出る「自己啓発書」もある意味、その著者が自分の経験から“成功した”と感じた、あるいは実際に成功に導いてくれた方法論が書かれているものであります。その枝葉的な方法が読んだ全ての人に当てはまるわけではないでしょう。

ただ、自己啓発書を読むことに意味が無いのかというとそうではありません。数冊、数十冊とそういった本を読んでいると、その枝葉がたどる幹や根が見えてくると思います。

そしてその枝葉や幹、根に栄養を与える水や光、養分のようなエッセンスも感じとることができてくると思います。

そういった水や光、養分こそが、どんな木でも草でもキノコでも、普遍的に成長をもたらしてくれるものなのです。

さらに考えてみると、そういった水や光、養分というエッセンスをふんだんに含んだものが「古典」なのですね。

自己啓発書を読んでいると、「これは古典で昔から言われてきたことじゃないか」と感じる話がたくさんあります。

成功するための普遍的な方法というものは、“魔法の杖”のようなものはないのです。ただ、各人が読書や日常から得た知識や経験をもとに、それらに普遍的なパターンを見出すことはできます。そして自分なりの“生きる技法”を感じとることがあるのではないでしょうか。

それこそが「教養」というものではないでしょうか。

成功に導いてくれる普遍的な方法はありません。強いて言えば、読書、運動、瞑想、睡眠で身体と心の土台をしっかりさせておくことが、その土台の上に乗っかる様々な活動を下支えしてくれて、成功を助けてくれるとは思います。

「読書は心の栄養です」と森信三先生はおっしゃいました。そこには上に述べたような「物事の根幹的なエッセンスに気付くに導いてくれる最も効率的なものが読書である」という意味も込められているのだと思います。

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「知識は繋がりあって教養となる」と、『本屋を守れ』で藤原正彦先生がおっしゃっていました。

知識が繋がりあって、その繋がりの中に“星座”のように各知識に共通するエッセンスが見えてくるのですね。

多くの知識や経験を積み重ね繋ぎ合わせていくと、自然とそのネットワークが光りだし、新たな知識や経験が加わりやすく繋がりやすくなる。そんなイメージが浮かんできます。

何がどう繋がるかなんて分かりませんから、最初は義務教育でも詰め込みでも何でもいいですから知識を摂り入れていく。さらに自分の興味や関心に合わせて読書などで知識を積み重ねる。

仕事や学校生活、家庭などの日常からも経験を、ときに頭の中の知識や経験と照らし合わせながら積み重ねていく。

と同時に、教養がついてくると、「教養とは何か?」という問いの意識が薄れてくるような気がします。

「教養」という言葉なんて意識しなくても、自然と備わってくる香気や輝きのようなものが「教養」というものなのかもしれません。

教養に対するそのような捉え方、あるいは「教養とは何か?」に対する一つの「答え」もあってもいいのではないかと思います。

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