葉隠 奈良本辰也 訳編 知的生きかた文庫
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」なんて物騒なことが書いてあるから、この『葉隠』という書物は誤解されやすいのかもしれません。
何かあるとすぐ「切腹」する武士の生き方や、先の大戦での”特攻”などと結びつけられて考えられがちなところがあると思います。
この本の訳編者は歴史家としてユニークな幕末・明治維新論を展開されておられるようですが、氏も若いころはこの『葉隠』に偏狭な印象を抱いておられたようです。
私も、新渡戸稲造の『武士道』や宮本武蔵の『五輪の書』は読んでおりましたが、この『葉隠』については、冒頭で述べたような誤解もあり、まだ読んでおりませんでした。
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そんなときにふと書店で目にしたこの本。冒頭から誤解の解消ととも、実は『葉隠』は現代にも通じる人間の生き方を教えてくれる素晴らしい書物であることを教えてくれました。
この本では、原著『葉隠』の全文を載せるわけではなく、訳編者が現代社会にも通じるような箇所を豊富に取り込んで、分かりやすい言葉で述べておられます。
原著を読むのもいいですが、なかなか骨が折れますし、専門的な知識がないと太刀打ちできないことも多いです。古典の難かしい点はそこにもあります。
この本はそれを乗りこえ、武士道を通して現代社会で生きる我々にも通じる人間の生き方を、分かりやすく学ぶことができる良書です。
道の字はすべてに通じるのだ。それを、儒道・仏道などと求めて、別に武士道があるように思うのは、道を間違えていることである。(P54)
○○道という表現で、技術や思想の一連を表すものとしては柔道や剣道、弓道などといった武道もありますし、茶道や華道、書道などもあります。
武士道という言葉は、武道プラス思想や生き方を含む、武士の生きる道といった感じですね。そういった意味では、儒学や仏教と元に人間の生きる道を考える儒道や仏道という言葉に武士道は近いかもしれません。
しかし、そのように○○道と色々な道があるとしても、目指すところは一所です。いずれも、技術や知識、修業を通して人間の生きる道を考えることが特徴でしょう。
剣道や柔道、弓道もただ敵を打ち負かしたり的当てゲームしたりしているわけではありません。型や姿勢、道具の扱いといった技術、作法を学びながら、礼儀や思い遣りといった人間関係に重要な生きる技術を学ぶことができます。
茶道や華道、書道といった文化系の道も同様です。単なるお茶飲み、フラワーアレンジメント、あるいは実務的に文字を書くのではなく、挨拶や一期一会、おもてなしなど相手を思う心、あるいは自らの心を高める。そういった意味もあると思います。
武士道も同様で、武士として上に仕え下に配慮し、強きに立ち向かい弱きを助けるような、立派な組織人を目指す様な人間学を感じます。
道の理解を間違えることは、道を間違えることです。どの道が良いとか、どの道は劣っているとか言うのではなく、どの道も目指すところは人間としての理想的な生き方であり、その方途は色々ありますよ、ということですね。
これは登山と似ています。目指す頂上は一カ所ですが登山道は何通りもあります。道によって途中の景色や経験も異なります。
それぞれ自分のあった道を見つけ、人間としての生き方を磨いていけるといいですね。
すべて奉公人というものは、何もかも、根本からあますことなく主君に任せてしまえばそれですむものである。隙間をつくるから事が難しくなってゆくのだ。(P89)
たとえば仕事で、上司と部下に挟まれた中間管理職のような立場になると、どうしても自分で考えて下に指示することもあります。
もちろん、それで問題ない場合がほとんどかもしれませんが、その際も上司にその指示を伝えたほうがよいのでしょう。
スムーズに仕事が進んでいればいいのですが、何かトラブルが起きた時に責任を果たすのは上司になりますからね。
そうではなくても報告することで、何かしら新たな考え方を手に入れることができることもあります。他人は往々にして自分とは異なることを考えているものです。
公私ともに上司にベッタリというのもどうかと思いますが、せめて仕事の場では、隙間を作らずに意思疎通ができるといいですね。
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そのためには、部下の積極性とともに上司も上司で部下が話しやすい雰囲気を作っておくことが大切でしょう。
上司はそれだけでも部下にとっては相談しにくい存在、変なこと、単純なことを聞いてはいけない存在のように感じることもあります。
“報連相”とよく言われます。これは部下の立場で報告、連絡、相談を積極的に行いましょう、ということで使われる言葉です。
一方で上司としても、部下の報告、連絡、相談を受け容れる姿勢が必要です。謙虚、受容、感謝といったところでしょうか。
そして、上司も、あるいは教師や親なども同じような立場かもしれませんが、ただ受けるだけではなく、部下や学生、子供がどうすれば考え方を深め広めていくことができるかを示唆できればいいですね。
智とは、人と相談するだけのことである。これが計りしれない智なのだ。仁は、人のためになることをすればよい。自分と他人を比較して、いつも他人がよいと思うようにしてやりさえすればそれですむ。勇は、歯をくいしばることだ。前後のことを考えないで、ただ歯をくいしばって突き進んでゆくまでのことである。これ以上立派なことは考えられない。(P97)
武士としての生き方で大切な徳は3つ。智・仁・勇であると言います。徳というとなんだか大層なことに感じますが、ここで述べられているような心がけでいいのです。
「智」とは、たんに知識が豊富であるだけでなく、それを道徳的に活かすことができることです。知識や技術は上手く使えば多くの科学技術や文化のように自他に恩恵を与えてくれますが、マズく使えば犯罪や戦争に加担することになります。
そのためにはどうしたらいいか、森信三先生の「人間心理の洞察」や、西田幾多郎先生の「善」、そして孔子が最も重要視した「仁」という考えが大切です。
さらに、ここで述べられているように、人と相談してみることも一手でしょう。独断ではなく、他人に相談してみると、より良い知識の使い方が得られるかもしれません。
「集合知」や「衆知を集める」という言葉もあります。また、先ほども述べたように必ずと言っていいほど、他人は自分とは違うことを考えているものです。
人間はそれぞれ生い立ちや生活歴などベースが違います。知識や経験が違うから自分とは違った世の中の見方をしているのです。
「仁」はまさに、他人を思う心ですね。どうすれば相手のためになるか、どうすれば相手が心地よいか。
どんな行動でも、仕事でも、これを考えてすればまず間違いはないでしょう。
そして、つらいこともあるのが人生です。そんなときは「勇」を発揮するときだと考えて、グッと歯を食いしばって少しでも進んでいくことが大切ですね。
歩いていれば、いずれ光も見えてきます。
知恵のある人間は、真実の行ないも、真実でない行ないも、知恵で組み立てるから、すべて理屈をつけて通用すると思っている。これが知恵の害になるところだ。何事も真実でなければ値打ちがない。(P109)
「真実」には、ある程度“腹落ち”の要素があるのではないかと思っています。「事実」と違う点はそこではないかと。心から納得できるかどうか。
知識、知恵がついてくると、何でも理論・理屈で通用すると思ってしまいます。もちろん理論的には正しいのかもしれませんが、納得できないということは多々あります。
さらに、理論詰めで相手を追い詰めてしまうと、逆に相手の感情を爆発させてしまうこともあります。相手も理論的には正しいと思ってはいても、心から納得できないのですね。
相手にとっての真実は何か。それを考えるためには、相手の立場や境遇、考え方をよく思い巡らしてみるのが大切ですね。
自分の直感や“腹”に聞いてみるのもいいでしょう。そのためには、日頃からそういう習慣をつけておくこと、気にしておくことが大切です。
さらに自分の心の動きに鋭敏になるような、たとえば瞑想やマインドフルネスのような習慣も、いいかもしれません。
姿・形をよくする心がけは、つねに鏡に映して治すことだ。これが秘訣である。人々は鏡をよく見ないから姿・形がよくないのだ。ものを言うときの練習は自宅でのしゃべり方で直せばよい。文章を書くための修業は、一行の手紙を書くときでもそれを練ることである。(P169)
昔の人はスベスベに磨かれた鏡を見つめ、そこに映る自分の姿だけを見て考えていました。自分はどういう人間なのか、自分は周囲の人間に対して、あるいは社会に対してどういうことをできるのか。
あるいは瞑想で自分の心を見つめて考えもしたでしょう。意識下にある自分の心の動きだけではなく、無意識からの情報を汲み取っていたと思います。
現代人も同様に、スベスベしたものを見つめていますが、それはスマホという鏡です。スマホが映すのは自分ではなく多くの他人の姿や活動です。現代人は自分ではなく他人だけを見ているのです。
すると、どうしても他人と比較して、自分を見てしまいます、評価してしまいます。他人をうらやんだり、他人に対して劣等感を抱いたりもします。こちらの“鏡”の見過ぎには注意が必要ですね。
数値も客観的に自身を映してくれる鏡です。日々の体重や体温、血圧、健康診断での様々な検査値の結果など。日頃の食事や運動、ストレスの具合をまざまざと映してくれます。
自分の心については、いわゆるストレスチェックなどもありますが、あまり上手く反映できているとも思えないな、と自分で受けてみて感じます。
では、どうするか。瞑想やマインドフルネスで自分の心を注視してみるのもいいですし、日記などに日々の気持ちを書き連ねて、見返したり思い返したりするのもいいでしょう。
しゃべり方を直すにはしゃべってみることが一番です。文章を書く修行も、書いてみることが一番です。
一行でも練って推敲するような文章作り、言葉選びができれば、文章も次第に上手になっていくでしょう。
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最初に書いた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という言葉について、捉え方によっては「何かあったら死ぬ気でがんばる」と考えることもできます。実際に切腹までしなくていいですが、仕事でも遊びでも死ぬ気で全力を尽くすわけですね。
さらに考えるとこれは、「死を想う」つまりmemento moriと捉えることもできるかもしれません。ヒトは必ず死にます。老います。それは避けられません。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」はマハトマ・ガンディーの有名な言葉です。
けして体質的に剛健というわけではなかった『葉隠』の口述者である山本常朝。彼は「明日死んでも悔いが無いように今日を生きること」を、我々に伝えてくれたのかもしれませんね。
彼が生きている間に学び紡ぎ上げたメッセージは、『葉隠』という名著として永遠に生き続けるでしょう。