深みを知るからこその響き

ラブカは静かに弓を持つ 安壇美緒 集英社

さて、図書館で予約していたけれども一向に順番が回ってこないこの本。この夏のどこぞの読書感想文課題図書(高校生の部)に選ばれていることも知って、しびれを切らして購入してしまいました。

私も、もともと楽器(フルート)をしているので、こういった楽器が出てくる小説には親近感を覚えます。音楽関係の内容も理解しやすいという利もあるでしょう。

しかしこのチェロという楽器については、正直なところあまりパッとした印象は持っておりませんでした。むしろ、「何がいいのかなー」という感じでした。

楽器を使うのであればメロディをバンバン演奏できるようなものがいい、メロディを楽しみたい。ということでフルートを選んだということもあります。うーん、楽器使いにしては邪な考えかもしれません。

まあ、若かりし往時の軽薄な考えでありますし、またそういうチャラい考えから突入しても良いのが趣味の世界だと思います。

だから、パーカッション(打楽器類)や、エレキギターのベース、あるいはコントラバスなどといった、おもにリズムや低音伴奏を担当し、メロディに登ってくることが少ない楽器はイヤだなー、と思っていたのです。

今ではそういった考えは否定いたします。それぞれの良さがあるものです。また、リズムや低音があってこそ輝くメロディもあるものです。

それはともかく、このチェロという楽器、この小説を読んだ機会にと演奏を聴きまくってみました。すると、なかなか素敵な楽器だったのです。

まず、この楽器は人の声に音域が近いと言われています。だから世に存在するような歌のメロディは可能なわけです。

また、バイオリンまでは行かなくとも、ふくよかな高音を奏でることもできますし、しっかりした低音を出すこともできます。

音域が人に近いだけではありません。その大きさも120㎝前後と、椅子に座った大人と同じくらいの高さです。

似たような構造の楽器としてはバイオイン、ビオラ、コントラバスが有名です。バイオリン、ビオラはチョイと肩に載せて軽妙に演奏する印象です。

コントラバスは170-200cmと大人の背丈より大きいこともあり、立って楽器を支えながら演奏することが多いようです。

バイオリン、ビオラは座ってでも立ってでも演奏することができます。一方でチェロは、ほとんどの場合椅子に座って演奏します。

背後から優しく抱きかかえるようにチェロを構える奏者は、大切な人の背中を撫でながらその訴えをウンウンと聞いてあげるようにチェロを奏でます。

奏でられるチェロもまた、奏者に訴えるのでしょう。その振動は密接に触れあった奏者の脚や胸・肩、あるいは手に感じ取られます。

楽器そのものの振動は、奏者の体幹や呼吸器、循環器をふるわせ、ついには奏者の心をもふるわせるかもしれません。

そのようにして奏者と楽器の共同により奏でられた音楽は、聴いている者をもまた、ふるわせるのでしょう。

この小説は、登場人物や詳細な音楽関係の記載も相俟って、一人の過去ある青年が深海から浮上してくるような変化をみせる物語としても、面白い作品でした。

さらに、登場するチェロや深海魚であるラブカについても、そのイメージや誘発される印象、想像から考えを巡らすのも、楽しい作品でした。

楽曲の持つイメージによって、おのずと弾き方も変わってくるよって話。だから運指がどうとか考え過ぎずに、あくまでイメージを最優先に(P111)

主人公と講師の師弟関係がうらやましいシーンですね。

音符や休符など記号を用いて楽譜に書かれていることは、かなりデジタルです。つまり、楽譜通りに演奏すれば、だれが見てもだれが演奏しても同じような曲を演奏することができます。感情の込め方でさえも、発想記号として記載されています。

そこから曲想を膨らませ、自分の感情や想いを吹き込み、聴いている人にもその曲想や感情を伝えることができるものが、音楽という芸術です。

芸術は、単に額面通りの情報を伝えるだけでなく、作成者の感情や想いをも見た人聴いた人に伝えることができる表現手段です。

文学や小説などは、言葉を用いて同様のことをやってのける、言葉による芸術と呼ぶことができるでしょう。

ただ、芸術に触れてその作者や表現者の感情や想いがそっくりそのまま見る人聴く人読む人に伝わるかどうかは、受け手次第でもあります。ある程度の知識や経験、解釈が必要かと思われます。

楽曲の持つイメージというものも、演奏者さえも楽譜から引き出すものだと思います。そこは、運指を気にしなくてもできた上での、さらなる段階と言えるでしょう。

運指が重要なことはもちろんですが、その運指の妙もまた、イメージによって引き出されるところがあるでしょう。

デジタルな運指と、アナログでファジーなイメージが、互いに影響しあいながら止揚して、楽譜から芸術を生み出すのですね。

このあたり、まさに“暗黙知”の世界です。どうすればそうできる、と言葉で伝えられるものでもありません。そこに大切なのは教えようとする師匠と、学びとろうとする弟子の姿です。

そういった師弟関係こそが、芸術や職人技を伝承し、豊かな人間の文化を育み伝えてきました。そこには金銭関係や利害関係の入る隙は乏しいでしょう。

しかし現在の資本主義。共有財産である水など自然資源でさえも商品となるばかりか、人類共通の財産ともいえる音楽についても、使用料のような考えが出て来ます。

もちろん、膨大な努力を払った作者に対する著作権の考え方は大切です。

しかし、音楽は人類共有の財産として、使用に応じて国あたりが資金を出して芸術家の活動を支え、人々は音楽作品を自由に使うことができる、という感じでも良いかもしれません。

おまえにかかれば、天気も、災害も、伝統あるコンクールの結果すらも、この世のすべてはおまえのせいか。神様みたいにすべてのことが、おまえに掛かっているとでも?(P286)

ラブカは見た目に醜い深海魚。しかしその醜い目やエラ、口や姿かたちは深海という過酷な環境で生きるために必要なものです。それを醜いと評しているのは傍から見ている他人の我々であります。

自意識があるかどうか分かりませんし、鏡を見たこともないかもしれませんが、ラブカ自身は自分が醜いなどとは思っていないでしょう。

醜さとは、主に他人からの見た目が気になるものです。ある程度の個人差や避けられないことはあるかもしれません。でも醜さは特に、本人が他人の目で見てしまうと、強く感じてしまうのではないでしょうか。

何でも自分のせいと考えてしまう主人公。いわゆるHSP(highly sensitive person;とっても繊細な人)の考え方に通じるかもしれません。暗い過去とトラウマが人間関係に影を落としており、その影響もあるのでしょう。

先ほども述べたように、本人も自分を他人の目で見てしまっていると思います。これは、他人にどう見られているか、他人は自分をどう見ているかと考えてしまう性格によるものでしょう。

他人の価値観、視座(見る立ち位置)と視点(着眼点)で自分を見ている。これはある程度は多くの人にも当てはまると思いますし、度を越すとHSPに特徴的な考え方かもしれません。

ただHSPの性質といっても、けして有害な特性だけではないと思います。その考え方や性格というのも、もともとは生存に必要なものだったのではないかと思います。

それが、現代社会にはそぐわなくなったり、過度に反応してしまったりして、人間関係に影響を及ぼしているのでしょう。

本作品での主人公の変化としては、その他人の目から見た自分が、次第に本人の目で見た自分に変化しているような気がします。

あるいは、過去のトラウマから固着してしまった自分への印象を、楽器や音楽活動への復帰を期に、少しずつ氷解しているようにも感じます。

最後にふと自分の姿を見た時に、これまでとは異なり大人になった自分の姿と感じることができたのは、その表れだと思います。

その後の主人公の生き方については、読者もある程度の安心感を抱くことができるのではないでしょうか。

人は自分なりの価値観、視座と視点を得られたときに、独立して自由に世界と対峙していけると思います。他人の意見や周囲の環境を摂り入れつつも、自分の軸を持って適応しながら生きていくのです。

そのためには、日常や仕事から経験を積み、勉強することも必要です。また、他人の言葉や教えに学ぶことも必要です。

さらに、読書などで広く知識や情報を仕入れ、それを自分なりに消化吸収、再構成することによって、自分なりのものの見かた、考えかたを装備していくのだと思います。

そして、軸の補強には、あるいは軸の芯としては「原体験」のようなものも大切かと思います。あるいは、破損した「原体験」を修復すること。

主人公にとってはトラウマとなっているように、音楽の原体験が破損されていました。それが今回のエピソードによって曲がりなりにも修復されてしっかりした軸になったと思います。修復してくれたのもまた、音楽でした。

音楽に復帰した主人公。そこでまた人間関係を損ねるようなエピソードもありましたが、今回は以前とは異なり、ハプニングがあっても自分の意志で行動を起こし、円満な方向へ持っていくことができているのではないでしょうか。

まさに、自分の過去やトラウマにより深海にとどまり戦慄いていたラブカが、深く響く自分本来の声を引き出す弓を手にすることができたのでしょう。

暗い過去はかえって現在において奏でられるチェロの響きに深みと彩りを与え、彼なりの音楽と生き方を与えてくれたのではないかと思います。

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