読書は地球を救う

2023年6月17日

本屋を守れ 藤原正彦 PHP新書

街なかの本屋は減少傾向にあるようです。私もよく行く本屋は、郊外型の大型書店がほとんどです。あとは駅にある書店も機会があれば訪れますね。

昔は、街なかにも本屋がもっとありました。本屋は文房具など学用品も取り扱っていることが多く、そういったものを買いに行くついでに本を見ることもあったと思います。

私が小さい頃住んでいた近所にも、○○書店という小さな書店がありました。そこに本を見に行ったり買いに行ったりする機会は少なかったのですが、自宅に本を配達してもらっていました。

小さいことはマンガ雑誌や学習系の雑誌を配達してもらっていました。私が家を離れた後も、両親や祖母が読む週刊誌の配達をしてもらっていたと思います。

子供の頃は、今とは異なりほとんど読書はしませんでした。私が本格的に読書を始めたのはここ数年のことです。皆さんのご多聞に漏れず、宿題の読書感想文なども苦手でした。

それが、今となっては呼吸するように本を読んだり、子供の読書感想文を率先して手伝ったり、あるいはこういったブログの文章を曲がりなりにも書いているので、どうなるか分からないものですね。

でも、図鑑や自然科学系の本を好んで読んでいたような記憶はあります。そういった本の供給源も、その書店でしたね。

街に本屋があることにより、私の経験のように家や家族と本との間につながりができると思います。

まあ、本屋さんも、もちろん商売ですからコミック雑誌を薦めたり家庭状況に応じて学習系雑誌を、あるいは週刊誌や月刊誌の購読を薦めたりという営業の要素はあったとは思います。

でも、それが本屋さんの仕事であると同時に、必然的に本屋のある地域の読書を盛り立てていたのではないでしょうか。

昔のゲームの『シム・シティ』じゃないですが、警察署があると周辺の治安は安定し、消防署があると周辺の防災意識は高まると思います。

「孟母三遷の教え」よろしく、学校や大学、あるいは図書館のある地域は自然と学究的な雰囲気になるでしょう。

建物の存在、お巡りさんや熱心に訓練する職員、整備された緊急車両、あるいは勉強のために往来する人。そういった存在が、その地域に効果を及ぼしていると思います。

さて、今回ご紹介する本は、以前ご紹介した『祖国とは国語』の著者、藤原正彦氏による本で、やはり国語教育の大切さ、読書の大切さ、紙の本や本屋さんの大切さを伝えてくれます。

紙の本と電子書籍の、物質的・機能的な特徴やメリット・デメリットはいろいろと言われています。この本では、さらに、精神的・教育的な面での紙の本の重要性を感じさせてくれます。

この世の中、ときどき藤原先生の本を読んで、ウトウトしがちな読書と国語教育への思いを呼び起こさなければならないと感じます。また、そうすることで日頃の読書にも気持ちが入ります。

私自身はともかく、これから自分たちの将来を支える力を日々鍛えている子供たちには、とくに国語と読書の大切さを伝え続けたいですね。

この本では対話形式の本文となっており、藤原先生の笑い顔が目に浮かぶような生き生きとした文章が、読者もそばに座って一緒に話を伺っているように感じられる一冊です。

そのとおり。対症療法って効かないんですよ。かえって問題を悪化させたりする。だから、大局的に見て根本を治さなければならない。(P30)

病気の療養においては、対症療法も必要です。がんや糖尿病など生活習慣病については、完治が難しいこともあります。

それでも生じてしまった症状に対しては対症療法で和らげることが、患者さんにとって人間らしく生きるために大切なことです。そのために、鎮痛剤や睡眠導入剤など対症療法的対応をしています。

その一方で、運動や睡眠、食事など体力をつけたり根本的に体質を改善したりする努力も、病気を予防し、治癒力を高めるために大切です。

病気は個人的なものとしても、病んだ社会は多くの人間に悪影響を及ぼします。

今の閉塞した感じの日本社会をなんとかするには、給付だとか構造改革だとかいう対症療法ではなく、国民一人ひとりの根本を変えるような療養を施さなくてはならないというわけです。

情報というのは、それぞれが孤立しています。孤立した情報が組織化されて、初めて知識になる。「情報がつながること」が知識であり、さらに「知識がつながること」が教養。この段階を歩むことが、教養を高めることの意味です。(P58)

その根本療法の一つが読書なのです。そして読書によって一人ひとりに鍛えられる「大局観」です。

大局観を得るために必要なのが教養であり、教養を得るために必要なのがある程度の知識や情報の集まりです。

それは、一部はネットやテレビでも収集できるかもしれませんが、最も効果的なものは読書です。

教養は知識や経験の有機的なつながりです。有機的なつながりはネットなどでの情報のつまみ食いからは生まれません。

しっかりした研究と裏付け、考察がなされた情報を、自らの手で選び取り、自らつなげることで生まれるものです。それを可能にしてくれるのは読書をおいて他にはありません。

人間の判断力は、自分の経験を通じても形成されるけれど、いかんせん一人の人間の経験は限られている。そういうなか、唯一、時空を超えさせてくれるのが読書なのだ、と。(P36)

おっしゃる通りですね。自分の経験はたかが知れています。他人に話を聞いて他人の経験を知ることもいいでしょう。

でも、読書は空間的に離れていて話を聞くことができない人にだって、時間的に離れていて、たとえもうこの世にいない人にだって、その経験や知恵を聞くことができるのです。

そういった知識や経験を多く積むことにより、判断力や思考力もついて、「大局観」も養われるのだと思います。

スマホの最大の罪はまさにこの一点、「読書の時間を奪っていること」に付きます。あるいは「孤独になる時間」を奪っている、といってもよい。(P46)

私も、スマホでとくにSNSを開始してから読書時間が減ったと思います。ただ、SNSによって新たな本との出会いがあり、また自分の本に対する思いや意見を述べることもできています。

だから読書ライフにとってスマホやSNSが一概に害のみとは言えませんが、たしかに読書時間は蝕まれてますね。

『スマホ脳』にも、スマホの様々な害が述べられていました。集中力や注意力を蝕み、SNSなどに対する依存を生み、大切な大切な睡眠時間も削ってしまいます。

また、「孤独になる時間」というのも、現代社会では優良な処方だと思います。マインドフルネスに代表される瞑想や、スマホやネットから離れて一人、沈思黙考する時間こそが、心に落ち着きをもたらし、存分に働かせてくれます。

人間にとってメリットしかないと言われる行動である「運動」「瞑想」「読書」、そしてそれらを下支えする「睡眠」。

スマホの登場はこれらの行動を、ことごとく侵食してしまっているのかもしれません。

でも、そうなってしまうかどうかは使用する人次第です。ときにはスマホを置いて過ごす時間も大切ですね。

詩や小説や伝記を読み、貧しい境遇の人びとに共感し心を痛め、大きな志をもって立つことの素晴らしさに胸を打たれ、強者に立ち向かう勇気や自己犠牲、友情や惻隠の情に感激する。こうした経験こそが、人間を人間たらしめる「情緒」を生むわけです。情緒の育成こそ読書の真骨頂であり、ITや英語のごとき実学が初等教育に入る余地はありません。(P50)

「情緒」こそが、人間特有の機能というか、性質であり、AIには無いものです。共感し、志し、胸を打たれ、勇気を奮い、他人のために自己を投げ出し、友を思い、弱気を憐れむ。

ヒトという動物は、他の多くの動物と異なりかなり未熟な状態で誕生すると言われます。たしかに牛や鹿の赤ちゃんは生まれてすぐに動いたり立ち上がったりしますね。

ヒトの場合は生まれてから1年ちょっとでやっと歩き出しますね。運動機能として成熟するにはさらに数年かかるでしょう。

さらに、運動機能だけの発達では動物と変わりません。ヒトが人間になるには教育が必要ですね。これまで人間が進化過程と歴史で身に付けてきた知識や知恵を、10数年で一気に吹き入れるのです。

しかし、運動と知識だけではまだです。AIでもそのくらいは身に付けられます。そこにプラスされて人間として完成させるのが情緒です。

ではその情緒はどこで習得するのか。学校の教科では「道徳」などに一端は見られるかもしれません。「国語」で文章中の人物の気持ちを推し量ることも役立つかもしれません。

また、授業だけでなく学校での集団行動やイベント、友だち付き合い、あるいは家庭での家族との付き合いや地域の付き合いなどにも依るところがあります。

それに加えて数多くのフィクション、ノンフィクションの人びとの経験、思考、人生を、読書によって知り、我が身に足してゆく作業が、豊かな情緒を育むのです。

紙の本の場合、たとえば部屋に入ってふと本棚に目が留まる。あるいは畳に寝転んで本棚を見上げると「あ、失恋時代に読んだ詩集だ」と気付いて本を手に取る。すると、自分がどんな思いでその詩集を読んだかが、当時の記憶とともにありありと蘇ってくる。(P101)

紙の本とデジタル本、各々にメリット・デメリットはあります。しかし、並べて眺めることができる、という点は紙の本の特徴です。それは同時に、場所を取るというデメリットとも捉えることができます。

そもそも、二項対立のように仕立て上げてメリット・デメリットを天秤にかけることは、考えるだけでも面白いかもしれません。でも、必ずどちらかに軍配を挙げなければならないわけでもありません。

そういった考察によって、それぞれの良さが深く理解されることもありますし、けして他方がダメと感じることもないでしょう。

よくある解決ではありましょうが、利用者が好きなように、それぞれのメリットを生かして利用するのが、道具を使う我々の権利なのでしょう。

それにしても、ここに引用したように、たとえば自分の本棚に並んだ本たちを眺めると色々と思う所が出て来ます。あの本はあの時代に読んだのだとか、本棚の一角を占めるジャンルに、当時の熱中ぶりを感じるだとか。

本棚に並ぶ本が、ときには自分とはどのような者であるのかを気づかせてくれることもあります。小説はこんな感じの作品が好きなのだとか、こういうことに興味を持ってきたのだとか。

音楽も同様に、それを聴いた人生のある時期を思い起こさせてくれます。まさに音楽は「人生の栞」と呼ぶことができるでしょう。

私はこう見えて読書歴は浅い方ですから、これから楽しみですが、本もまた「人生の栞」として、未来にふと振り返った自分を楽しませてくれることと、期待しています。

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