再読という道

再読だけが創造的な読書である 永田希 筑摩書房

私は77冊の読書法、読書術に関わる本を読んできました。しかしこの本は、私の読書に一つの区切りをもたらしそうです。

これまでも何冊読んだ、たくさん読んだという数に恃む読書を見直し、良かった本の再読をしたり積読を解消したりしようと考えてから2,3年はたっていたかもしれません。

でもやはり、新たな本との出会いがあればその本を入手し読んでしまいます。今は書店やネットのみならず、SNSでも多くの書物が紹介されており、次々に読みたい本と出会います。

そもそも出会いというものが、良い出会いであったかそうでもない出会いであったかは後々に決まるものだと思います。

人も出会ってから、日々を重ねることでその人の良し悪しが分かってくるものです。ザイオンス効果などといって合う頻度が高ければ高いほど、仲良くなるという話もあります。

「本は人なり」。本も同様に繰り返し読むことにより、その本の良し悪しというか、どのようなことが書かれているのか、著者は何を言いたかったのか、あるいはその本が自分にどう影響するかなど、深く本と付き合うことができると思います。

そうしてこそ、その人や本との出会いが良いものとなるのでしょう。もしかして本を一度読んだだけで済ますことは、人と一回会っただけでその人のことを分かった気になり、判断していると同じことなのかもしれません。

さて、この本は、そんな本との出会いを素晴らしいものに仕立て上げてくれるものだと思います。本との出会いを高めてくれる方法論の一つとしての再読です。

人と付き合う頻度を高めて仲良くなるように、本と付き合う頻度を高めて本と仲良くなるということだと思います。

著者は『積読こそが完全な読書術である』という、これまた我々読書家諸子・諸氏にとって心強いタイトルの本を出しておられます。

恥ずかしながらその本は未読ですが、ぜひ読んで見たいと思います。というか今日の帰りに書店に寄って探します。

私はこの本を読んで、自分の読書軸を少し見直させてもらったと感じます。つまり、今後も本と仲良く付き合うために、再読をしてみようかな、と。

一点集中もよし、多読もよし、スローリーディングもよし、速読もよし、積読上等のバラエティ豊かな読書界。皆さんの読書に一石を投じること間違いなしの一冊です。

再読が初読に対してどこか億劫なのは、初読時の鮮烈なはずの、信仰対象とされるべき印象が薄れていることを認めることを無意識に避けているからなのではないか、とわたしは考えています。再読とは、初読時の印象の鮮烈さを相対化し、書かれていることにフラットに向き合う行為なのです。(P89)

この記事を書いていて、「しょどく」を変換しても「初読」が出て来ませんでした。それほど私のPCでは使われていなかった単語、もちろん私も使っていなかった言葉なのでしょう。

「初」がつく言葉でこれからの時期に実感・再認されるのは「初心」かもしれません。進学、就職、異動など様々な場面で、この言葉は掘り起こされます。

初心の考え方はいろいろあると思いますが、一つは「これからどんなことでも学ぶぞ」という意欲に満ちた謙虚な心もあるでしょう。

ただ、初心にはある程度の不安や恐れも含まれると思います。これもまた謙虚につながる面では良いのでしょうが、過度の不安や怖れはインプットを妨げます。

初読としてある程度内容に慣れたころに再読することで、初心ゆえの過度のインプットを慣らすように、あるいはインプット不足を補うように読み進めることができるのかもしれません。

話は変わりますが、たとえば数学の勉強などで何冊も問題集をこなすよりも一冊を何度も繰り返したほうがいいと言われたような気がします。

もちろん数多くの問題集を解いて経験を積むことも効果的ではあると思います。一方で、たとえ一冊の問題集であっても、2周目、3周目ではまた新たに気付くこともあるでしょうし、解説を繰り返し読むことで覚えることもあると思います。

そういえば医師などの国家試験合格発表も最近ありました。医師国家試験の問題集なんぞは、そうたくさんあるものではなく、メジャーなところでは2種類くらいでしょうか。

私も医学生たちには、一つ(とはいっても何分冊もあり大量なんですが)の問題集を繰り替えし解いて、2、3周すれば大丈夫だよ、と言っております。

そして、いずれにしても解説はよくよく読むようにして、解説で分からなかったことを調べたり、正解以外の選択肢はなぜ不正解なのか、どんな場合に当てはまるのかなど考えたりするようにと伝えています。

その際も1周目と2周目では知識量や経験も異なりますし、繰り返し当たっていると問題の内容だけではなく、試験全体のメタ的な情報、つまり問題のパターンや雰囲気、出題傾向もつかむことができてくるのかもしれません。

本の再読も同様に、本のメタな情報を感じ取り、自分と本との関係、これは次に引用する「ネットワーク」にも関係すると思いますが、これを俯瞰的に眺めることにつながるのかもしれませんね。

このように、ひとつの小説作品には「言葉どうしのネットワーク/登場人物の社会的ネットワーク/登場人物の内的ネットワーク」というように、複数のレイヤーのネットワークがあります。

・・・読者の側が知っている言語のネットワーク、読者じしんが属している社会的ネットワーク、感情を構成する心的なネットワークがそれぞれ作品に重ねられ、都度、刺激し合うという状態です。(P105)

私も以前から、とくに小説に対してはその“読め方”が大切だと感じておりました。小説というのは、いわば他人の人生や別世界の出来事を経験させてくれるものです。その物語からどのくらい自分が経験できるかどうかは、自分の、なんというか“力量”にかかっていると思うのです。

その力量は小説を数多く読み込むことで付くこともあるでしょうし、現実の実体験から身に付くものでもあるでしょう。

それ以外にも、小説以外の様々な読書、学校での勉強などで得た知識や経験が、小説を読む力量を鍛えてくれると思います。そして同じ小説でも人によって異なる“読め方”が得られるのだと思います。

そういった私の浅い考えを深化し拡充してくださるのがこの「ネットワーク」という考え方だと思います。小説そのものにも、使われている言葉、登場人物と登場人物の外的世界、そして登場人物の内的世界といったたくさんの要素が含まれます。

そしてそれぞれがネットワークを形成しています。言葉であれば意味や連想、類義語や言葉どうしの関係性といったネットワークが瞬時に思い浮かびます。

登場人物についてはそれこそ小説の醍醐味である人間関係や社会的な立場関係などが、そして各登場人物自身の中には、心的な世界があります。

それらがさらに、読者ともネットワークを形成するのです。言葉については、作中で使われている用法だけではなく、読者の知識や経験の中にある同じ言葉、それらが読者にとってどのような印象を持っているか、言葉が読者に与える影響などが。

さらに読者も外的世界として家族や仕事の同僚など様々な社会的関係を持っています。そして内的世界としても、性格や考え方、過去や経験、感情の動きやすさと方向、信念などを持ち、それらが小説の登場人物が有する内的世界と呼応します。共感や抵抗などの反応も起きるでしょう。

視点を変えれば、そういった小説内のネットワーク同士の関係性と運動性が小説の面白いところですし、かつ読者が有するネットワークと小説内ネットワークの関係性、読者に対する影響の与え方もまた、小説の楽しみというところでしょう。

古典を読むということは、カルヴィーノのいうとおり、先人たちが通ってきた道(線)を辿り直すことです。それは山のなかで、誰かが踏み固めて出来上がった道を、その見知らぬ、いつの時代のどんなひとなのかも知らない誰かとともに踏みしめて歩くようなものです。(P164)

思えば教育も、人類が何万年もかかって培ってきた知識や技術を、すべてではないにしてもたった10数年や一生のうちに身に付けようということなのです。その間、多くの人間が歩いてきた道のりをかなり高速度ではありますが、辿っているのです。

道といえば、たとえば熊野古道など古くから多くの人に歩かれていた道があります。これは単に目的地である熊野本宮大社までの交通路というだけではなく、そこを歩くことが修業の一つであり、辿ることによって先人や開祖者の思想を感じようという意義もあるのではないかと思います。

読書は、身体的にはそれほど動かずにすることができる行動ですが、頭のなかでは人類の辿ってきた道や、登場人物の辿る道を縦横無尽に辿る作業です。いわば頭のストレッチとも言えるでしょう。

人間が実施してメリットしかない行動として運動、瞑想、読書が言われています。

運動はまさに身体を動かし(ひいては心にも良い影響を与える)行動、瞑想は自身の心の深さを増してくれる行動、そして読書は自身の心の幅を広げてくれる行動だと感じます。

*****

さあ、いかがでしょうか。みなさんも自分の読書スタイルに「再読」という道を取り入れてみたくなったのではないでしょうか。

私はもちろん、まずはこの本から再読してみようかと思い立ったのでした。(とか言って、結局書店から数冊買ってはきたのですが)

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。