大学とは、研究とは、学問とは

喜嶋先生の静かな世界 森博嗣 講談社文庫

小説を読むことにより、他人の人生を経験することができます。しかし、この小説は私自身が経験しているような要素もかなり多く含まれている気がしました。

私も一地方大学とその附属病院に勤務する身として、勤務医として患者さんを診療しながら、大学教員として教育を行い研究も進めています。なので主人公に親近感を感じます。

本書を読みながら、その紙面はカガミのように「自分はどうなのか」という視線が常に注がれている。そんな感じのする小説でした。

またこの本は、現在とは多少時代の違いはあるものの大学や大学院についてよく書き込まれています。組織の仕組みや、そこで学んだり働いたりしている人々について、理解が深まります。

養老孟司氏による解説も名文です。氏も国立大学医学部の教授として、そして退官後も多くの著書を出しておられます。(『唯脳論』の紹介記事もご覧ください)

今や学問は全ての人がなんらかの形で関わるでしょう。義務教育から高等教育だけでなく、大学も多くの人が入学しています。

ただ、とくに大学などは就職に有利だから、学歴のため、などという本来の意義からは少し遠い動機で過ごす方もおられるかもしれません。

また、大学とは、そしてそこで扱う学問や研究とはどのようなものか、いまいちイメージがつかない方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

この本は、そんな大学、研究、そして学問について、精緻な物語を通して感じることができる一冊です。

さて、この小説は“自伝的小説”と裏表紙にも書かれており、なるほど主人公は著者である森博嗣氏の大学、大学院、あるいは大学勤務時代の姿を映しているのかもしれない、と思いました。

主人公とその周囲の様々な人物が登場します。指導してくれる先輩、指導教官でありタイトルにも挙げられている喜嶋先生、所属研究室の教授や同僚など。

一般的に考えて主人公が著者の自伝的な人物にあたるのかもしれません。しかし読んでいるうちに、もしかして喜嶋先生が著者の大学時代の姿に近いのかもしれない、とも感じました。

著者は国立大学工学部を退官後、推理小説に分類されるような小説を数多く出しておられます。また、ご自身の大学時代の経験やその後の人生から醸し出された様々な思索を、多くの新書や単行本として著しておられます。

私はこれまで、著者の新書など小説以外の著作をいくつか読んできました。ちょっと浮世離れした、かつ合理的な考え方、自分の興味に根ざした仙人のような(?)生き方に、あこがれるところもあります。

『「やりがいのある仕事」という幻想』の紹介記事もご覧ください)

本作を皮切りに、著者の文筆家としての仕事にますます魅力を感じ、まだ手を出していなかった小説についても今後読み進めてみたいと思うような作品でした。

良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するためにいきているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。(P168)

よく言われる話ですが、修士号や博士号といった「学位」は“足の裏にくっついたごはん粒”と例えられます。そのココロは、「とらないと気になるけれど、とっても食えない」ということです。

つまり、取得していないと取得すべきか、取得したほうが今後のために良いのか、そのタイミングは、などと色々と気になってしまいます。

かといって、取得しても給料がグーンとアップするわけでもなく、○○博士などという肩書は増えるかもしれませんが、それだけのことです。

実際に周囲の人達を見ていても、学位取得のため大学院で行った研究がそのままその後の人生で引き続き行われることは少なく、大学院時代だけ研究をして学位をとったら、あとは関係なく一般的な医者として生きていくことが多いようです。

もちろん、学位がないと大学の教職に就いたり、今でいう助教や准教授、教授といったポストに着いたりすることはできないのかもしれません。でも、そういった職業なんて一握りのものですから、必ずしもみんなが学位をとる必要はないのです。

そういう人達にとっては、大学院での研究生活は“良い経験”に過ぎないのでしょうか。良い経験として記憶に残るだけなのでしょうか。

私は違うと思います。直接的にその経験が後に活かされなくても、その経験はその後の人生においてその人の解釈の幅を広げてくれると思います。

思えば中学校、高校などで勉強する、直接的には実生活に役立たなそうな数学や古典なども、解釈の幅を広げ、世界をより豊かにみせてくれるものなのでしょう。

そういった大学院生活もそうですし、例えば浪人生活もそうだと思います。

「学問には王道しかない」という言葉も、僕の心に刻まれ、それから永く僕を導いてくれる道標となった。

この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。(P234)

「学問に王道なし」は、学問の道には楽して進むことができるような道はない、という意味での金言とされています。

でも、楽して進む道が王道というわけではないのです。その先にはあまり良い場所は待っていないのですから。

王道であるからには王様が通る道であり、行き先も誰もが目指したくなるような所なのでしょう。

しかしその道は、歩き方を知っていれば進むことができるのですが、きちんとした歩き方を知らないと、たとえばズルして近道を通ったり、途中をすっ飛ばしたりすると、行き先が変わってしまって当初目指したところとは違ってしまうのです。

もちろん、学問でも人生でも経過が大切です。目指す地点に到達すること、何かを解明することも大切ですが、途中で出逢う人、本、新たな知見などを楽しみながら進むこともまた、王道という道の特徴でしょう。

正統な経過と目標到達点。そういう意味で、「学問の王道」を歩いていたのが喜嶋先生であり、その感化を受けた主人公なのです。

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なにかで読んだフレーズですが、「大学はもはや象牙の塔ではなくなった、むしろ透明化され中身が見えるガラス張りの塔であるべきとされている」とありました。

大学のみならず、企業や組織は情報開示、透明性、見える化、などの言葉に先導され、一般からも内部が見えるような工夫がされています。

運営システム上もそうですが、気のせいか最近は建物自体も壁や仕切りの減少やガラスの多用によって、見通しの良い建築構造になっている気もします。

でも、学問というものはけっして「分かりやすい」ものだけではないと思います。そして全ての人がその内容を理解できる必要があるものでもないと思います。

へんな話ですが、ちょっと考えたことがありました。たとえば医学の知識。誰でも身に付ければ自分の生活に役立つかもしれません。健康に気をつけ、ケガしたときや具合が悪いときにどうすればいいか分かる。

かといって、全ての人が医学部に入って勉強するといいかというと、もちろんお金の面もあると思いますが、他のことが成り立ちません。

世の中は医学の需要もそこそこはありますが、食料生産や工業、製造業などの産業、教育や各種サービス業などのほうが人間の生活にははるかに必要です。そういった仕事に従事する人がいるからこそ、生活は成り立つのです。

社会的な分業といいますか、仕事があって、さらにその仕事をもっと良くするための研究があって、医学もそのうちの一つであり、それぞれに学問があるのです。農水産業であれば農学や生物学などが、工業や製造業であれば工学や物理学などが、そのほか法学、経済学、教育学など、実践的な仕事と、それを発展させより良くするための研究があるのです。

主人公もそうですが喜嶋先生がクールで静かなために、小説の物語全体が静かに流れていく印象です。そこでこのタイトルは相応しいと感じます。

現代の、成果や研究費を奪い合うように加熱しギスギスしがちな研究、学問の世界に、静かな錨を投げかけてくれる本だと思いました。

たしかに大学や行政、司法、教育をはじめ一般企業も、市民から見て分かりやすく目に見える成果を求められています。

そうではあっても、そこで働く個人の内には、守り抜きたい信念や考え方があると思います。「暗黙知」や「職人魂」のような、目に見えるようにすることができないものもあります。

こういった要素を、「象牙の塔」とまでも言わず、ささやかながら守り通したい「象牙のお守り」として大切に持っていても、良いのではないでしょうか。

そんなことを感じさせてくれる喜嶋先生と、その周囲の物語でした。

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