英雄の書 黒川伊保子 ポプラ新書
黒川伊保子さんは様々な『○○のトリセツ』という本を出版されており、当ブログでも以前、『人間のトリセツ』を紹介いたしました。
今回ご紹介する本は、自伝的と言ったら言い過ぎかもしれませんが、著者の経験に基づき考察された、生き方の参考になる一冊です。
とくに人工知能時代とも呼ばれ、仕事や日常の様々な場面でAIが台頭してくるであろう今後を生きるにあたり、自分だけでなく子供たちへも伝えたいメッセージがたくさん込められています。
聞きわけのいい子、お片付けをする子、上手に点数を取ってくる子。どうして、そんな子に育てたいのか。私には意味がわからない。そんな機能が欲しいのなら、人工知能で十分だ。(P57)
これまでの教育は、そういう方向だったのでしょう。こういった何事もキチンとできる子共、そして大人を量産するような教育。上に言われるように勉強し、働けばよい。
でも、今はそんな時代ではなくなってきています。そういう勉強のしかたで得られる知識、あるいは仕事はAIに任せてしまって、その先を考える勉強や仕事が人間には必要とされます。
決まり切った知識、予測可能な対応はAIのほうが得意です。しかし今後はVUCAの時代とも言われるように、決まり切った知識は役に立たず、予測も難しい世の中になります。
一人で多くの知識をカバーする、仕事をカバーするというよりも、一人一人の個性を生かして、この人はこの知識がすごい、この人はこの仕事がすごい、といった具合でよいのではないでしょうか。
そして、ときどき何人かでブレーンストーミングみたいなことをすれば、思わぬアイデアが湧いてきたり、問題が解決したりすることもあると思います。
*
とはいえ、人間としての素地ができていないと、AIにあっけなく屈服してしまうかもしれません。人間としての素地の基本は、“しつけ”でしょう。
謙虚に聞く、整理整頓をするといったことは、人工知能時代には非論理的とは思えても身につけるべきだと、私は思います。
若い人たちには、本当に知ってほしい。とやかく言われるのは怖くない。失敗の一つや二つやらかして、大らかに謝れるほうがカッコイイ。人の心に残って、本物の支援者を得られる。世間は、若者たちが思っているよりもずっと寛大なのだ。(P67)
失敗は成功の元などと言われますが、要するに人生にも起伏があったほうが、よいのではないかと思います。
失敗と成功の振れ幅があったほうが、人間的にも幅のある人生、人物を得ることができるのではないでしょうか。
逆に年寄りになってからは、若い人たちにとやかく言うのではなく、失敗をおおいに歓迎して、謝りを適切に還元してあげられるような姿勢を、目指すべきですね。
自分に対しては失敗を恐れないことを、他人に対しては“本物の支援者”となることを、目指すのです。
この話法は、部下や家族にも使える。「なんで、できないんだ」ではなく、「どうした? 何かあったのか?」と聞いてみよう。(P138)
HowではなくWhyで、ということですね。「なんで?」だと、相手を批判しているような感じがします。それに対して「どうして? 何が?」だと、起こった出来事を含めて俯瞰して見ている感じがします。
起こったことを客観的、俯瞰的にみて、じゃあ私とあなたはどういうことが考えられるか、どういうことができるか、一緒に考えましょうという感じですね。
部下は、なにもわざわざ困ったことを起こそうとして起こしたわけではありません。とすれば上司としてできるのは、その出来事に対して部下あるいは自分も何を対応することができるか、何を学ぶことができるかと考えることが建設的です。
家庭でも子供に対して、「なんでそんなことするの」「なんで宿題しないの」などと、Whyを多用してしまうことが多くなりがちです。
やはり、「なんで」というと、相手だけの問題を考え、相手を非難している要素が強く感じられます。
「何があったのか?」という問いかけにより、自分も何かできることがあれば考えますよという支援的な姿勢が、子供にも伝わるのではないかと思います。
母親が、子どもの失敗に対し、「だから言ったじゃないの」ではなくて、「母さんも、もう少し○○してあげたらよかったね」と声をかけることができたら、子どももそうなる。母親の失敗に、「僕も、こうしてあげればよかった」と言うようになる。それは、将来の口癖となり、やがて英雄を創る。(P146)
問題に対して、自分ができることは何だろうと考えることは、さきほどの「なんで?」と対になる考え方だと思います。
このように、「自分も相手に何をしてあげられるか考えるとよかった」「自分も何をできるか考えて、できるだけ支援するよ」という姿勢が、相手に安心感を与えます。
「だから言ったじゃないの」というのは、問題の責任を相手一人に押し付け、相手が間違っていて、自分の言ったことが正しく、それを履行しない相手が悪い、といった印象ですね。
もちろん、そういう要素もあるのかもしれませんし、相手もそうだったと後悔しているのかもしれません。
だからこそ、それに追い打ちをかけるのではなくて、相手の立場や行動を尊重しつつも、自分には何ができるかと、相手中心に考える姿勢が良いのではないでしょうか。
そして、こういった対応に安心感を覚えた、たとえば部下や子供は、自分の子供や部下にも同じように対応できるでしょう。
そこに必要な気持ちは相手のことを考えること。つまり多くの先人が言う「人を思う心」「人間心理の洞察」です。
それがまさに「英雄」の要素なのだと思います。
しかし、父は知っていたのだろう。これが、人生という大きなレンジで見たときの遠き別れになることを。父は、旅立ちの前の晩、正座をして、島崎藤村の詩を使った「惜別の歌」を歌ってくれた。(P159)
親子は、小学校までで人生で一緒にいる期間の半分を過ごすと言われています。その後は部活やら何やらで、一緒に過ごすことは少なくなるのでしょうね。
私自身のことを考えると、旅立ちはどうだったか。おそらく高校をなんとか卒業して予備校に行くときがそうだったのかと思います。寮に入ったので、初めて自宅から離れることになりました。
中学高校と積極的に部活もせず、むしろ不登校や2浪目には自宅で過ごしたことなどを考えると、家族で過ごす時間は人より多めだったのかもしれません。少しは親孝行でしょうか。
(もっと心配かけないようにしなさい、と言われそうでもありますが)
さて、自分が子供の旅立ちに、何をしてあげられるか。考えると楽しみでもあり、寂しい気もしますね。
*****
トリセツシリーズ?として多くの書を世に出しておられる黒川伊保子さんですが、人間学としての総合的なお話が、この本に込められていると感じます。
「失敗すること」こそが、AIにはできない人間の強みです。失敗することによって反省と進展があり、前進があるのです。
AI時代を見据えた、現代の人間学として、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
(引用のページは新書版によります)