言葉の能力、言葉の可能性

2022年6月11日

俳句的生活 長谷川櫂 中公新書

この本も、SNS上で推著されている記事を見かけて、すぐさま購入した本の一つです。

たとえばTwitterであれば140字という字数制限があります。もちろん繋げるように連続して投稿することもできるようですが、原則は140字です。

その字数内でいかに、自分の伝えたいことを表現するか。そこには、言葉の持つ能力、性質を最大限に活かす工夫が必要です。

こういったブログなどで文章を書くには、だらだらと書いてしまっても問題ないのですが(読むほうにとっては問題ですよね。すいません)、まとめることも重要です。

仕事の文章でも、報告書や会議資料などとともに、学会発表や論文の要旨など、字数制限のある文章も書く機会があります。

うまくまとめる能力が、欲しいところです。

様々な文章の中でも「詩」というものは、言葉の能力を最大限に抽出して作られたものだと思います。

我が国には、さらに字数制限の厳しい「短歌」「俳句」という文化があります。

これらは字数制限があるから伝えたいことも伝えられず、使いにくい文章というわけではありません。大昔からずっと続いて、人の心をつかんでいます。

そこには、言葉の能力を最大限に引き出す工夫がちりばめられているのでした。

この本では、俳人である著者が、芭蕉といった著名な俳人や、著者も含めた近現代の俳人の作品を豊富に載せながら、俳句を丁寧に味わわせてくださるとともに、言葉の持つ能力、可能性を語ってくださっています。

俳句に興味のある方はもちろん、言葉の可能性について興味をお持ちの方には、ぜひとも読んでいただきたい一冊です。

言語の左半球とは言葉の意味であり、花という言葉が花を指し示すようにものごとを指し示し説明する働きをする。

・・・それに対して言葉の右半球とは言葉の風味であり、花という言葉が花を描き出すようにものごとをそのまま浮かび上がらせる働きをする。この言葉の意味を左脳が、言葉の風味を右悩が司っている。(P35)

言葉の役割はいろいろあります。その中でも相手に意味を伝えることが主な役割だと思います。相手に、自分が頭で考えていることを、伝えること。

それが“言語の左半球”であり、ほとんどの人が言語中枢を有している大脳の左半球になぞらえているのだと思います。

そして、意味を示して伝えることを担っているのが、言葉の左半球的側面というわけです。

しかし、言葉が示す意味以上のことを、我々は言葉から感じ取ります。ここで述べられている“言葉の風味”といったところでしょうか。

たとえば「夏」という言葉を聞いただけで、あるいは見ただけで、青い空や白い雲、砂浜の波音やセミの声など、さまざまな風景が浮んできます。

あるいは、スイカやかき氷の味や冷たさ、花火の匂いが思い浮かぶかもしれません。まさに言葉が感じさせる“風味”です。

こういったものが“言葉の右半球”であり、一般的に言葉や計算を担う左半球に対して、絵画や音楽に関わるとされる大脳の右半球、つまり右脳が担っている言葉の側面ということです。

俳句は、この“言葉の風味”を最大限に活かした文章だと思います。

17字と限られた字数で、風味豊かな言葉を配し、言葉の示す意味以上のことを、読者に感じてもらうのです。

・・・つくづく俳句は個々の言葉に語らせるというよりは言葉と言葉の関係に語らせる文芸であると思う。たしかに十七音で使える言葉の量は微々たるものであるが、言葉と言葉の関係となるとまさに千変万化といってもいい。むしろ言葉の量が制約されていればこそ、かえって言葉と言葉の関係が際立つ。(P61)

もう一つの言葉の能力は、「言葉と言葉の関係が語るもの」を生み出すという点です。

17字と限られた字数で、数少ない言葉を並べるわけですが、並べられた言葉動詞の関係が、そこに書かれていないものを語ってくれます。

  廃校や 今も花咲く 門(かど)桜

たとえばこの句では、どこかの廃校になった学校の建物の校門のところで、さびれた校舎と対照的に桜の木が咲いているという意味をとることができます。

しかし、それだけではなく、往時はこの満開の桜の下で卒業式や入学式が行われたり、子供たちが遊んだりしていたのだということも、偲ばれてきます。

もちろん、先ほどの「言葉の風味」もそうですが、この「言葉と読者の関係が語るもの」も、読者の想像力や経験、知識などによるでしょう。

小説についてもそうですが、詩や短歌、俳句などの解釈には読者の力量も必要です。

さらにこういった言葉が少ない文章であればあるほど、一つ一つの言葉からいかに「言葉の風味」を味わうか、「言葉と言葉の関係が語るもの」をいかに感じるかが、文章をどれだけ味わえるかの決め手となってくるでしょう。

『忠度』の作者世阿弥は『風姿花伝』の中で「秘スレバ花ナリ。秘セズバ花ナルベカラズ」といっている。花を隠すからこそ花が現れる。隠さなければ花は消えてしまう。(P77)

では花とは何か。考えてみると不思議なことに桜の花、朝顔の花という個々の木や草の花はあっても花という名の花はどこにもない。それでは花はどこにあるのかといえば、それは人の心の中にある。(P78)

「花」は抽象性の高い言葉です。桜の花、朝顔の花、チューリップの花など様々な植物が一時的につける、おそらく昆虫を呼び込むためのキレイな構造です。

でも、「花」はそういう色々なカタチや色をしたものの総称であり、現実世界にはこれが「花」です、という代表的な花があるわけではありません。

まさに、“人の心の中にある”のです。そして、心の中つまり頭の中にあるものは、様々な解釈の嵐にまきこまれます。

「花」という言葉は植物の花を示すだけでなく、比喩としても用いられます。人生の花、職場の花、花を持たせる、などなど。美しさを援用して使われます。

また一方で、咲くのが一時的なこと、はかないことを強調して、「朝顔の花一時」「花と散る」などのことわざ、言い回しもあります。

言葉の奥底、言葉と言葉の間から、隠されている「花」を見つけ出すこと。ここが「花」だ、と感じられるかどうか。

また、文章や、詩、短歌、俳句を作る側、あるいはここで述べられた能などの表現を作る側としても、文章や振る舞いの中に、読者や観客の心の中に花を出現させる、あるいは心の中の花を開かせる、増やすことができるようにしたいものです。

言葉もまた草木の花と同じように面影を残す。日本語の「言葉」がもとは「言の葉」であり、言語もまた草木の葉のようなものであるという認識を秘めているのは決して偶然ではないだろう。(P83)

一度花を見ると、花は散っても、その面影を残します。花だけではなく葉も、青々と茂った夏緑樹の葉が、秋になり散ってしまっても、葉の面影が残ります。

冬を越えて再び若葉が芽吹き成長するさまを見ると、かつての森々たる面影が復活するような気がして、心が湧きたつのかもしれません。

言葉は“言の葉”であり、口から空気の振動として発した次の瞬間には、落葉するように消え失せてしまいます。

でも、次の言葉や文章に、面影を落とすことにより影響します。これには我々の記憶システムも大きく関わっています。

ここにも一つ、言葉の能力が垣間見えます。つまり、「面影を残す」ということです。

この面影により、同時並行的な言葉と言葉の並び以上に、時間差による言葉動詞の影響が、文章に深みを与えてくれます。

  廃校や 今も花咲く 門桜

「廃校」という言葉は、かつての子供たちで賑わっていた学校の様子を、面影として感じさせます。

そのためには、少子化である現在より昔の、子供が多かった時代のことを知識や経験として備えておく必要があるでしょう。

音読・朗読は、自分で声を出して、その声が自分の耳に入ってきます。これは、最も確実な言葉の面影を増強する方法ではないでしょうか。

言葉を発するそばから次々と入ってくる言葉、残る面影で、かなり頭の中で言葉同士の反応が起こると思います。

そういった意味でも、音読・朗読は効果的な読書法でしょう。

俳句は十七音しかないからいうべきことの大半は捨て去らなければならない。いつの世も俳人が庵という極小の住まいに親しみを覚えるのは庵が俳句に似ているからである。(P122)

世を捨てて庵を結ぶということは、庵の中の小さな空間に閉じこもることではなく、逆に小さな世界を捨てて宇宙全体を自分の庭とすることである。俳句がそうであるように微小なものの中にこそ果てしなく広大な宇宙が宿っている。(P124)

捨て去ってこそ、見える境地もある、と思います。

モノが多いと、物理的な視界の妨げになるかもしれません。それだけでなく、モノは目に写した人の心にも刺入し、気を使わせます。

かえってモノが多いことによって、備えているモノ以外のことに気を向けることができなくなってしまいます。

“断捨離”や“片づけ”、あるいは“ミニマリスト”という言葉もあります。そういった行為の先には、見通しの良い世界が待っているのでしょう。

さて、俳句は17字しか使用することができません。俳句の作り方というのを存じ上げないので、どのように作るのか、決まっているのか分かりません。

でも、なんとなく言いたいことを考えて、それを17字にまとめるような順序なのかと思います。

その過程で、“いうべきことの大半は捨て去らなければならない”のです。でも、やはり捨て去ってこそ、見える境地もあると思います。

読者も、シンプルだからこそ、広がる想像力、解釈が得られるでしょう。

自分の足場はしっかりしていながらも必要最小限にして、小回りの利く展望良好な足場から、宇宙全体を見渡すことができるような印象でしょうか。

こうして、ある言語はその言語を話す人々が見た宇宙の姿を形作る。もしその言語が滅んでしまえば、その宇宙は古代の遺跡のように砂に埋もれて入口のありかさえもわからなくなってしまうだろう。(P214)

最初に藤原正彦先生の『祖国とは国語』を読んだときは、いまいちピンときませんでした。でも、ここで述べられていることも併せて、しだいに腹落ちしてきました。

我々はこの世界、宇宙を言葉で表しています。空に光るものは星や月や太陽か、飛行機など。地面には植物や石があり、人や虫が歩いています。

言葉はものを分けます。ただウデと呼んでもよい、よく使う体の一部に対して、肩、二の腕、肘、拳、指、手のひらなど名前をつけて、分けます。

言葉を使って日常を編み出し、生活しています。挨拶、声がけ、相談、助言、対話、会話、ケンカ。人間同士のやり取りに用いられます。

色々な場面で、色々な用途に言葉は使われています。これは、電気のようなものに感じます。あるいは貨幣のようなもの。

電気は色々なモノに使用され、様々な効果を発揮しています。電気は一様ですが、言葉は地域や国によって異なります。言語というものです。

そんな言葉だから、人々の世界や日常を創り出していると言えるでしょう。まさに、“ある言語はその言語を話す人々が見た宇宙の姿を形作る”ということです。

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俳句や短歌は、我が国が世界に誇る定型詩であります。

そこには、言葉少なながらも、それゆえに奥深く、幅広い世界が感じられます。

言葉はそこで、自分の能力、あるいは他の言葉と協働しての能力を発揮させられます。ま、発揮できるように作る必要があります。

Twitterも、140字という字数制限があり、使っている皆さんもちょっと言葉の使用について難しさを感じられたかもしれません。

さらにもしかして、言葉の能力、可能性、面白さを感じられた方も、いらっしゃるかもしれません。

上手い俳句を作るのは修行が必要と思いますが、上手くなくても俳句や短歌の形式に自分の考えや思いをまとめてみることは、言葉の使い方を磨く一手となるのではないかと思います。

「言葉の風味」、「言葉と言葉の関係が語るもの」、「言葉の面影」。読者に「花」を感じさせること。

こういったことを気にして、文章を作ることができれば、と思いました。

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