スピッツの音楽を考える

スピッツ論 伏見瞬 イースト・プレス社

私はゲーム音楽から音楽に突入したかもしれないが、いわゆるポップ・ミュージックへの突入はスピッツからだと思う。

はじめて聴いたのは高校生のときか。その時期は私の人生の中で、現時点で比較的暗い時代だったと思っている。

ふと書店で目にしたこの本。自分のスピッツ好きはどういうところから来ているのか、手掛りを求める気持ちもあり、読ませていただいた。

この本は、もちろんスピッツ好きの批評家/ライターである著者が、「分裂」をキーワードに二項対立を用いて様々な視点からスピッツを語り尽くしている。

「分裂」というと、ネガティブな印象ではある。そう、人が生きているうえでは誰もが感じて避けられないネガティブさを汲み取ってくれているのもまた、スピッツの音楽なのかもしれない。

本の紹介というよりは、この本の記述を借りて私自身の”スピッツ論”を展開するような流れになってしまっているが、ご海容願いたい。

そもそも読書というのは、他人の頭を借りて考えることである(ショーペンハウエル)、などと都合よく引用しておく。

著者の考え方をお借りして、あるいは刺激を受けて、ちょっと自分の頭の中のスピッツをまとめさせていただいた。

鳴らされた音の集合体である音楽に対して、言葉を取り出して論じる手法は、音の性質を無視した的外れの論評になりうる可能性が高い。しかしながら、スピッツの音楽において歌詞の役割は大きい。(P6)

音楽は、言葉でつづる文章よりも、ある面では効果的な表現だと思う。“効果的”というのは、受け手の頭の中に想起されるものが、表現者の伝えたかったものによりそのまま伝えることができるという意味である。

言葉はかなり、発する側の頭の中を整理して、かいつまんで発せられている。それを受けとる側も、受け取った言葉を自分の頭の中の状態に応じて解釈する。

解釈にはその人の知識や経験が加味される。そこにはしばしば、誤解や曲解が生じる。

しかし音楽は、さらに原始的というか、言葉ほど抽象化、シンボル化されていない表現手段だと思う。

そしてむしろ、感情や情動を伝える面で、言葉よりも秀でている。

たとえば、「私は悲しい」という言葉を伝えても、相手には語り手の“悲しさ”が伝わるかもしれない。でもそれは、相手が悲しんでいることへの理解や、自分もいつか感じた“悲しさ”を、相手も感じているんだなあという共感程度かもしれない。

実際に自分の心が“シュン”となるような情動は得られないかもしれない。

しかし、音楽でもって“短調”のメロディや悲痛な和音を受けとれば、受け手にも不思議なことに“悲しさ”という情動が生じる。

言葉の場合は“悲しさ”という言葉を受けて、それを頭の中で自分なりに相手のことを考えて再現する必要がある。情動までをも発生させるのは、やや難しい。

一方で、音楽はストレートに聴き手に情動を起こすことも容易だと思う。

歌は音楽と言葉の総合芸術である。さらにスピッツの音楽は、その言葉つまり歌詞に特徴があると感じる。

だから、著者の言うように歌詞を詩として捉え、音楽との総合的な作品と捉えるのが良いと思う。

もちろん、他の歌手の歌も、音楽と歌詞の作品である。ただ、歌詞にメロディを付けて歌っている印象、音楽になんとか歌詞を載せている印象といった、バランスの悪い作品も散見される。

そういった中で、スピッツは歌詞にやや重点を置くにしても、絶妙なバランスをとっている優れた表現作品を輩出しているのではないかと思う。

そもそも、音楽は客観的な観照や外部の材料(絵画における対象観察や小説における客観描写、あるいは映画や写真における撮影対象)を伴わずに何らかの情感、フィーリングをつくり出せるという点で、主観性の強い表現形態だ。(P18)

先ほども述べたように音楽は、言葉のような媒介とするシンボルや、絵、カタチ、動作といった観てもらう対象物ではなく、特殊な音声の組み合わせで相手に直接訴えかけることができる。

これは、匂いや味に近いのではないか。

言ってみれば音楽は、動物の遠吠えや鳴き声、人の啼泣や叫び、笑い声といった感情表現と同じ類いの、主観性の強いものなのかもしれない。

そういったストレートな表現手段だからこそ、相手に何らかの情感、フィーリングを創り出ることができるのだろう。

草野マサムネは1994年に<空も飛べるはず>を発売した頃、ヒットチャートで流れる曲に比べて音がスカスカな点がスピッツらしいと感じたという。(P95)

かなり抽象度が高くメタファー豊かな歌詞と、ともすればファミコン音源(そこまででもないが)のようなシンプルな伴奏編成が、“スカスカ”とも感じ取れる必要最小限の音楽を編成している。

なにごとも、多ければ、豪華であればいいというものではない。最近はすぐに弦楽などを並べて豪華な伴奏をつけているポップ・ミュージックの演奏を、テレビの音楽番組などで目にする。

しかし、シンプルなものは、聴き手の創造性が入り込む余地を用意してくれる、

これはゲームと同じだと私は思っている。かつてのゲームはグラフィックも音楽もシンプルであった。もちろん、ゲーム機の性能によるとことが大きいだろう。

しかし、シンプルだからこそ、こちらの想像力も発揮され、頭を広範囲によく使っていた気がする。

最近のゲームはグラフィックと音楽が素晴らしく、映画のような一面もある。ときにはボタンを押して映画を進めているようなRPGもあるかもしれない。

そこには自らの脳みそによる想像の余地は乏しく、映画やテレビドラマを受動的に見るに近いものとなっているのではないか。

ともかく、シンプルなスピッツの音楽は、聴き手の脳みそを最大限に稼働させて、刺激して、いろいろな記憶や経験、解釈を生み出させてくれてのではないだろうか。

それにしても、なぜスピッツの曲ではこんなに「情けなさ」が描かれるのだろう。平穏な爽やかさに終始することなく、情けない感覚を招きいれてしまうのだろう。(P126)

・・・スピッツの歌は、ポップソングにおける「男性」の規範的なイメージを揺らしている。つまり、肉体的な強靭さや庇護者の立場を示すことがなく、むしろその逆、弱々しさや守られる立場を歌にしている。(P201)

彼らのライブは、非日常としての体験を与えるというより、日常と地続きの体験として感受される。通常の日々を続けることへの肯定が、その音響空間からは伝わってくる。その肯定は、言語的メッセージとして表現されるのではなく、演奏とパフォーマンスにおける気配によって表現されるのだ。(P255)

このあたり、スピッツ音楽の芯の部分ではないかと思う。私もこれを感じている。スピッツの音楽は、「なんだか色々大変だけどがんばろう」という印象があると昔から感じていた。

高校生のとき、平穏な高校生活を過ごしていたわけではなかった私は、ふと何かの折に聞いた『チェリー』に惹かれた。

たんたんと進むドラムスの、まるで電車がガタンゴトンと規則的に線路の継ぎ目の音を続けるような流れに、けして華々しくも目出たくもない歌詞が載っている。

「今の生活は大変で、いつまで続くか分からないけど、あるいはずっと続くのかもしれないけど、とりあえず足もと見て歩いていくか」というメッセージ。

あるいは、「“愛してる~の響き“じゃないかもしれないけど、自分に声をかけて支えてくれる人もいるし(家族など)、なんとかがんばろうかな」といった印象だった。

もちろん、自分の心情に合わせた曲解かもしれないし、解釈はそれこそ聴き手の数だけある。

バンドとしては男性4人のグループであるが、決して男性的な強さを歌っていない。むしろ周囲にほんろうされる人のほんろう具合、あるいは助けてくれる人のありがたさを歌っていると感じる。

次に出逢ったのは『空も飛べるはず』である。高校生活をテーマとした某人気テレビドラマの主題歌にもなっており、そちらとの紐づき感も素晴らしい印象だった。

それこそ、高校時代というのは勉強や恋やいろいろあって、大変だけど、そこを過ぎてみな飛び立っていく、という印象。

スタンダードならぬ自分の高校時代とは直接的には結び付かないかもしれない。そんなに立派な高校時代ではなかった。

でも、高校生の勉強や周囲との折り合いにくさを、なんとか折り合いをつけ、それらから抜け出し“空へ飛び出そう”という気持ちを表現、擁護してくれた気がする。

つまり、ここでライブについても述べられているように、スピッツの音楽は“日常と地続き”の触感を有する音楽だと思う。

けして圧倒的一方的な励まし、突拍子もない運命の出会い、あるいはハッピーイベントを歌うのではなく。

人はたいていそういった日常的な生活をしている。そこをうまく歌い上げているから、惹かれるところもあるだろう。

スピッツの曲は、学校の合唱会という公的教育の場にもふさわしいものとみなされている。そのことは、スピッツにある種の“日本”性があるという感覚と関係している。(P133)

西洋の音楽にまったく馴染みのない日本人の音感を、身体的に改造するためにつくられた音楽が「唱歌」だった。ここでの唱歌とは、要するに学校で歌いためにつくられた音楽のことだ。(P135)

野口雨情の詞は、生物や物体の運動を記述しながら、同時に喪失感や寂しさの情感を漂わせるものが多い。こうした特徴は、草野マサムネの詞にも通じている。(P143)

このあたりも、スピッツの音楽に感じる“はかなさ”を醸し出している要素だと思う。

日本を代表する?歌である演歌は、人生の機微やはかなさ、うまくいかなさを歌いあげることが多いと思う。

そもそも日本古来の詩や歌、能などの芸能は、男女のうまくいかなさや、仕事のうまくいかなさ、悲劇などを表現するものが多かったのではないか。

そういった日本の芸術、芸能を通奏低音のように下地にしている感じがするのがスピッツの音楽だと感じる。

スピッツというバンドは、洗練された雰囲気をまとえないバンドだった。そのことを本人達も意識しており、むしろイケてない情けなさを表現の中に含めていくことで、自らの個性にしようと努めてきた。だが、彼らにとっての「恥ずかしさ」や「情けなさ」は、彼ら4人のみに還元できるものではない。これらは、日本人が共通して抱える感情である。(P146)

こちらも同様に、日本文化というか国民性というか、の特徴の一つ“恥の文化”に通ずるところがあろう。

穿った見方かもしれないが先の大戦での敗戦の影響や、バブル経済崩壊後の世界に対する日本の地位の不確かさの自覚が、なんとなく「自分たちはどうなんだろう」という雰囲気を醸し出しており、皆が感じていると思う。

働けども働けども、目指す“幸福”は別軸にありそうで、未来を担う子供の教育も右往左往している。

そういった「恥ずかしさ」や「情けなさ」をうまく調味料にして歌い上げているのが、彼らの音楽なのではないか。

けして某大国のように「オレについてこい!」とは言えない国と国民性、一方で詫び寂びや質素倹約などの美徳の文化ももともとある。

「ちょっとでもキラリと光る部分があれば、全部うまくいかなくても、それでもいいんじゃない」という雰囲気を、うまく清濁併せ呑んでくれている気がする。

スピッツの音楽は、あるレベルでは懐かしさを思い起こさせ、別のレベルでは情けなさを感受させる。また別のレベルでは“日本/アメリカ”という国家的な分裂を表現する。彼らの楽曲は、日本人に一種の安心感を与え、同時に、自分たちが生きる場所の地層を示す。つまり、強い分裂を内包した<ロビンソン>は、不安定な状況を生きる多くの日本人に求められた楽曲だったといえる。(P150)

『ロビンソン』は私が最も好きなスピッツの音楽である。

ここに述べられたように、「懐かしさ」、「情けなさ」、そしてなんとかなるんじゃないか、ちょっとがんばってみようか、という雰囲気がぷんぷんと感じられる。私には。

冒頭のアルペジオの芸術性の高さもさることながら、「ちょっと不安もあるけど、歩いて行こうね、ときどきいいことあるよ」というメッセージがあると、確信している。

思春期に私がスピッツの音楽に強く惹かれたのは、10代の人間が持て余す“エロス=ノスタルジア”の不定形を、音という形のない現象で表現していたことが一因だと思う。加えて、当時の私の日常に鋭く刺さっていた「コミュニケーション不全」の感触も、彼らは描き出していた。(P199)

そして、彼らの音楽は、人間関係的にうまくいかないこともある日常を描き出していると感じる。

自分も人間関係は不得意とする人種なので、そこに惹かれたのかもしれない。

コミュニケーション不全、つまり人間関係のうまくいかないことを受け止めてくれる。そして、無理に変わろうとするわけでもなく、そのままの自分を活かして歩いていっていいんじゃないの?という示唆を感じさせてくれる。

そんなところが、そんな高校生の自分に刺さり、スピッツを聴き始めることになったのだろう。

良かった良かった。本当に良かった。

そして、スピッツの続いていく感覚は、﨑山のドラミングの特徴と重なっている。4と3のリズムの間で揺れながら、強靭な持続感を発揮する彼の演奏こそが、スピッツというバンドの魅力を産む源泉となっているのだ。(P253)

前にも述べたが、スピッツの音楽の(私もそう多くを聴いているわけではないが)良いと感じるところの一つがドラミングである。

どんな演奏でも打楽器の威力は大きい。リズムは音楽の骨であり骨格である。列車の線路にも等しい。打楽器やリズム楽器のない音楽は骨抜きに等しい。

とくに『チェリー』のたんたんとした線路音のようなリズムは、だたたんたんと、人生を一歩一歩、歩いていくようで心地よい。

そして、優れた揺続、グルーヴには複数性がある。複数の律動が一つになり、複数の動作が一つになり、複数の人間が一つになる。複数のグルーヴはズレを孕んだままで、多数の存在を凝縮させていく。(P257)

訳しにくい“グルーヴ”という言葉。著者は揺続と表す。複数のリズム、楽器、動作が重なり、一体化する。演奏と歌い手の一体化、観客との一体化、会場との一体化。

残念ながら私は彼らのライブというものに参加したことはないが、近い感覚は学校の合唱コンクールや吹奏楽部の演奏でも感じることができているのではないかと思う。

“音楽の力”の一つは、そこである。一体化の力である。

もちろん“言葉の力”でも、聴衆や生徒を一体化することはできるかもしれない。しかしそこには聴衆による言葉の理解、納得が必要である。受動的な一体化だろう。

その一方、音楽は聴衆の心に直接しみこみ、つかみ、能動的な一体化をなす。“一体感”を感じたいと思わせる。

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さて。

酔っぱらって書いたような文章になってしまったが、酒に酔って書いたわけではない。

ただ、スピッツの音楽に酔って書いてはいると思う。

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