「妄想」で世界を拓くためには

妄想する頭 思考する手 暦本純一 祥伝社

ふとした思いつき、あらぬ方向へ及ぶ考え、なんとなく感じる“違和感”。「妄想」こそ、人間ならではの能力ではないか。もちろんAIには妄想は難しいだろう。

病的になれば被害妄想など困ったこともあるが、以前の記事で言及した「認知バイアス」と共通するとことがあると思う。(『「認知バイアス」と仲良く生きる』の記事もご覧ください)

“転倒”しつつ踏ん張って前進する人間の歩行のように、決まった道以外の道を見つけ出す大事な能力である。

しかし、妄想だけで生活していてもしょうがないので、きちんとした「思考」も大切である。

ふと思いついたこと、それが現実と比較して合っているのか、間違っているのか。あらぬ方向へ向かう考えを、現実的な可能な範囲に落とし込むこと。なんとなく感じた“違和感”を、役に立つようにすること。

そのためには、どうすればよいのか。それがこの本には書いてある。

「妄想」はまだ知らぬ自分、あるいは“神”からのメッセージだろう。そして「思考」は自分との対話、神との対話。

“神”が何であるかは、その人その人によって異なる。宗教者にとっては宗教の神でも、科学者にとっては論理という神かもしれない。

頭で考えていても、妄想がふくらむだけである。そこで出てくるのが「手」だ。

手は以前も書いたように、「口」と並んで脳の実働部隊である。手を動かし、手の動く範囲で思考し、そこから妄想に形をつくっていく、整えていく。(『脳の実働部隊としての「手」』の記事もご覧ください)

この本は、そんな人間の「妄想」と「思考」を結び付ける能力、そこでの「手を動かすこと」の重要性を、教えてくれる本だと思う。

ここで強調しておきたいのは、「イノベーションのスタート地点には、必ずしも解決すべき課題があるとはかぎらない」ということだ。(P17)

よく「必要は発明の母」と言うけれど、「発明は必要の母」でもある。(P68)

必要性から考えて何か作ろうとすると、その必要性を満たすものしかできないことが多い。

おもちゃのブロック遊びに似ていると感じる。私も子どものころ、さかんにブロック遊びをした。

たとえば、「町」を創ろうとする。しかし、道路や建物など、計画的に作ると、まあまあ良い町はできるが、あまり面白くない。

それよりも、家なりお城なりを一つ作って、その周りにさらに家を造ったり、森を作ったり、橋を造ったりしていると、無計画ではあるが、なんとなくいい感じの町ができる。

もちろん、その町に住む人にとってどうかは分からないが、作った方としては、“いい感じ”なのである。遊んでいても楽しい。

とりあえず作ってみて、その製品の良いところを感じ、何に生かせるか考えるというのもいいのではないか。

「必要は発明の母」という正攻法だけでは、時代を突き抜ける面白いアイデアは出てこないかもしれない。

アイデアの原点である「WHAT(何をしたいのか)」や「WHY(なぜやりたいのか)」などを明確にするには、言語化が最強の思考ツールだ。(P53)

モヤモヤの中からクレームとして切り出せるのは何だろうかと考えることそのものがアイデアを洗練させていく。(P56)

「言語」には多くの機能があるが、明瞭化もその一つだ。なんとなく頭のなかでモヤモヤした考えがあるとき、ホワイトボードなりノートなりに書いてみると、ハッキリすることがある。

同時に、言語化するのが難しいこともある。それは、まだモヤモヤが本当にモヤモヤしている段階なのだろう。

本当に分かっているということは、6歳児にも分かるように説明できることだ、という感じのことを、アインシュタインが言っていたと思う。

6歳児の言語能力に合わせて説明することはかなり難しい。相手の理解できる比喩や興味を持続させる話し方も必要だろう。

そして、説明する本人も、よほど頭のなかがハッキリしており、あらかじめ自分の言葉で表現することができている段階でなければ難しい。

そういった意味でも、アインシュタインはそういったのだろう。

ここでいうクレームとは、命題のようなものだが、いろいろな違和感や問題感を、「これはこういうことだ」といった言葉にできるかどうか、が大切である。

クレームを作れば、「ではどうすればよいか」と次に進むことができる。この「言葉にする」という作業が、逆に頭の中を整理し、アイデアを洗練していくのだろう。

「言語化」という作業は、「思考」を言葉という切り口で切ってみることで、つかみどころのないモノの一つである「思考」に“とっかかり”を作るようなものだ。

アイデアの源である妄想は、自分の「やりたいこと」だ。(P84)

妄想は、現時点での最先端から始まるわけではない。むしろ、現実の世界に対して違和感を抱くところから始まる。(P192)

たとえ上司から言われた課題で、ぜんぜん自分の「やりたいこと」ではないと感じていても、世の中のことはどこかでつながっている。

仕事や研究など、始めは知識や経験が不足していて、そういったつながりが見えないだけのことが多い。

だから、就職先の選択や医学生が専門科を選ぶときは、自分の「やりたいこと」ができる仕事や科を選ぶというよりは、その仕事でいかに自分の「やりたいこと」に結びつけることができるか、だろう。

前者は周囲や環境に依存しており、難しい。後者は自分に依存しており、自分の工夫次第で可能性はある。

そして「妄想」は、現実と自分の「やりたいこと」をつなぎ合わせてくれる接着剤、乳化剤、増感剤、・・・かもしれない。

VRの専門家は、何かを「バーチャル」にする方法には詳しいけれど、多様な世界の「リアル」を知っているわけではない。だから、さまざまな分野の人からそれぞれの「リアル」を教わると、技術の使い途が広がる。まさに「既知の解決策」を「未知の課題」に役立てることができるわけだ。(P100)

理学と工学の違いは、昔学生のときに実用を考えるかどうかだ、というようなことをどこかで聞いた気がする。

つまり、理学は実用を度外視して理論をとことん追求する。なかば実生活からかけ離れた話になることもある。理論物理学、量子論などはこの世の話ではないような話で、ちょっと楽しい。

工学は理論をどのように生活に組み入れて役立てるか、を考える。そこにはまさに“工(たくみ)”の意気込みが必要である。

生活に組み入れるためには、生活を知っている必要がある。しかし、これが研究に没頭していると見えていないことも多い。

我々医療者も、ガイドラインやエビデンスを重視して診療を行っているが、最近は患者さんの実生活や生き方、考え方を取り入れた診療もということで、ナラティブ(物語)を重視した医学(narrative based medicine)なんてことも言われてきている。

研究と実生活をつなぐもの、医学的データと患者さんをつなぐもの、ここにも「妄想」といったらなんだが、「想像力」のようなものが必要だと思う。

「バーチャル」の技術は年々発達してきており、医療の世界でも徐々に使われるようになっている。手術のさいにシミュレーションをしたり、手術中のナビゲーションとして用いたり、手術以外でも患者さんの機能評価やリハビリに用いることもある。

役立つ道具や器械をつくるにしても、患者さんのための診療を考えるにしても、お客さんなり患者さんなりの「リアル」を知ることが大切である。

お客さんや患者さんは、我々が考えもしない「未知の課題」を持っている。研究室にこもるだけではいけない。

だから私は、何度も失敗を重ねながら手を動かす時間は「神様との対話」をしているのだと思っている。天使のようなひらめきは、腕を組んで考え込んでいてもやってこない。(P122)

頭の中で「思考」をこねくり回していても、「思考」は形を変えるかもしれないが、思考の域を出ない。

「手」は何回もいうが、「口」と並ぶ脳の実働部隊である。「口」は残りにくい音声で「思考」をアウトプットする役割が大半を占める。

一方で「手」は書く、触る、こねる、なぞるなど残りやすいアウトプット能力に長けた部分である。

「口」もときどき使いながら、手を動かしていると、頭の中の「思考」が次第にまとまりを帯びてくる。

実際に書いてみるとうまくいかないようであったり、触ったり動かしたりしたら壊れたりと、失敗することもあるが、これも「思考」だけでは経験できないものである。

ときには痛い目にあって手を動かす時間は、神様あるいは自分の中の得体の知れない「思考」と「対話」を行い、「思考」の内容を少しでも実用に結び付けようとする工(たくみ)の行いである。

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「手を動かす」ことは大切だと思う。ヒトの脳でも、手を動かす部分は大きな容積を占めている。つまり、「手を動かす」ことは脳をたくさん働かせることとなる。

酒造の酒樽はじっとまっていてもうまく発酵しない。ちょくちょく杜氏さんがかき混ぜることで発酵がうまく進み、美味しいお酒ができる。

同様に、沈思黙考もときには大切だが、じっと「思考」が熟すのを待つのではなく、「手を動かす」ことによって脳みそを混ぜることも、大切なのだろう。

頭はどんどん「妄想」してもらっていい。その妄想について「手」を動かすことにより、「妄想」を実用に結びつけることができたり、できなかったりする。

ここで出した「ブロック遊び」や「ねんど遊び」「折り紙」など、手を使う遊びは、こういった思考を表出するために子供のみならず大人にとっても良いことではないかと思った。

あらためて「手を動かす」ことの大切さを実感させてくれた一冊であった。

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