人間として自立するための「愛」

2021年11月14日

幸せになる勇気 岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社

「愛」とか「幸せ」というのは、きわめて抽象度の高い言葉だと思います。そのため、時と場合によってさまざまな解釈ができます。

状態でもあり、行動でもあります。感情でもあり、感覚でもあります。

さまざまな解釈ができることからも、前に「愛」について書いた記事のように、変なことを考え出すことも可能です。

以前、『嫌われる勇気』という、アドラー心理学ブームの火付け役となった大ヒット本をご紹介しました。この本は、その続編となっております。

前作の雰囲気をそのままに、アドラー心理学を基にした青年と哲人の対話形式の内容です。前回は主に対人関係や周囲との関係に関する内容が多かったと思いますが、今回はアドラーのいう人生の3つのタスクを具体的に実行していくことについて、より深く述べられています。

とくに「愛」については最後の第5部で詳しく述べられており、「愛」について考えている人、そのとらえどころを見つけたい人にとっては、一読の価値があります。

そして「愛」を考え、「幸せ」になるにはどう考えればいいのか。そういったところも、読んでみると触れることができると思います。

もちろん、その他の部も「対人関係」はもちろん、「教育」「自立」などについても分かりやすく盛り込まれております。

前作を読んだ人でもそうでない人も、あるいはアドラー心理学を知らない人も、魅力的な青年と哲人の対話に引き込まれ、いつのまにかアドラーの思想を体感することができます。

(引用中の太字は本文によります)

客観的な事実認定にとどまる科学と違って、哲学や宗教では、人間にとっての「真」「善」「美」まで取り扱う。ここは非常に大きなポイントです。(P29)

哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。(P30)

本書原案の岸見一郎氏はプラトンなどの西洋古代哲学の研究に並行してアドラー心理学の研究を続けておられ、アドラー心理学については代表的な研究者です。

哲学や宗教は科学と違ってあいまいな、はっきりしない、よく言えば“人間的な“面を取り扱う学問と感じますが、ここで述べられていることがその原因だと腑に落ちます。

そもそも「真」「善」「美」はいずれも人によって、時代によって、場面によって変わることもあります。

しかし、「愛」には「真」「善」「美」があると思います。また「幸せ」の状態も「真」「善」「美」をいくぶん兼ね備えた状態でしょう。

哲学や宗教は、科学では扱いにくい「真」「善」「美」を扱い、「幸せ」に導くことのできる学問というか、分野なのかもしれません。

科学で「幸せ」に導くとしたら、「室温を○○℃にして、二人の距離を○○cmにして、一人の脳内化学物質はこうしてホルモンはこうして血糖値はこうして、もう一人はこうして、・・・」といった感じでしょうか。あ、べつに二人でなくてもいいんですが、たとえばの話です。

アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。(P178)

われわれ人間は、ただ群れをつくったのではない。人間はここで「分業」という画期的な働き方を手に入れたのだ。分業とは、人類がその身体的劣等性を補償するために獲得した、類希なる生存戦略なのだ。……アドラーの最終的な結論です。(P186)

最初の文言は、アドラーの主張の一つだと思いますが、私はこの言葉に前作で触れて、「なるほど」と感じました。

たしかに、いろいろな悩みは結局のところ対人関係に帰結すると思います。どうしようこうしようという悩みは、そうしないとあの人に怒られるとか、どうすれば職場で同僚とうまくできるだろうかというのが多いでしょう。

人は他人がいるからこそ「人間」として生きることができます。動物としてのヒトは他人と協力することで、個体としては非力ながらも凶暴な他の動物から勝ち抜いてきたわけです。

いろいろ複雑になっている現代社会では凶暴な動物は避けることができても、(経済、社会、病気など)得体の知れない相手に立ち向かうために、職場なり団体なりで協力し、学校なり大学なりでその準備をするのです。

しかし、個体には個性や個人差があり、それを加味して他人と付き合っていかなければなりません。そういった二人以上でやっていくには、どうしても対人関係を考え、ときに悩みも生まれます。

その一方で、他人との関係がうまくいって、問題が解決したり、二人や社会が良い方向に向かったりすれば嬉しい、喜ばしいわけです。その喜びもまた、対人関係があってこそです。

「幸せ」の一端は、ここにあります。

人間にとっての試練、そして決断とは、受験や就職、結婚といったシンボリックなライフイベントのときにだけ訪れるのではありません。われわれにとっては、なんでもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められているのです。その試練を避けて通る人に、ほんとうの幸せは獲得できないでしょう。(P216)

そりゃーもちろん、結婚式では二人は幸せそうですし、結婚前の準備や結婚後しばらくの“周婚期”(すいません、私の造語です)は「幸せ」がただよっているでしょう。

(もちろん、ずっと「幸せ」が続く方もおられます)

でも、そういうイベントに伴う「幸せ」ばかりを考えていると、週末はどこかに出かけなければならない、久しぶりの家族との夕食はおいしいものを食べなければいけない、といった「幸せ」のために○○しなければという“must”重視の生き方になりそうです。なかなか大変そうです。

そういえば昨今の、お正月から始まりバレンタイン、卒業・入学・就職、送別・歓迎、GW、お盆、花火、ハロウィン(最近入れ込まれたと感じます)、クリスマス、年末と、イベント詰めの一年にしようという世の中の風潮(すいません、私の勝手なとらえ方です)も、イベントがないと「幸せ」を感じられないという考えから来ているのではないかと、感じています。

かえって学校でテストの点数が良かったとか、会社で上司の反応が良かったとか、いい店を見つけたとかでちょっとした「幸せ」を感じることがあります。

はたまた皿洗いや掃除機掛けなどのなんともない家事をしていると、なんとなく「幸せ」を感じることもあります。

イベント頼りの“インフレ幸せ”を望むのではなく、「いま、ここ」の日常で、すべきことをちゃくちゃくとすることに、「幸せ」のタネはひそんでいるのではないでしょうかね。

「いま、ここ」と言えば思い浮かぶのは、「マインドフルネス」ですね。マインドフルネスは、そういった日常の幸せを見つける、一つの方法論なのかもしれません。

利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あたなの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。(P239)

われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。(P245)

さて、「愛」です。

「わたし」を考えることは仏教の「我」につながると思います。「あなた」を考えることは仏教などで言われる「利他」につながると思います。

仏教でも「我」をなくし(無我)、「利他」を考えることが、大切と考えられています。キリスト教でも、「隣人愛」として他人を考えることが大切とされています。

引用に述べられている通り、結婚は「自立を果たし、世界を受け入れる」ための一つの通過点と考えることもできるかもしれません。

結婚は“二人の人生のスタート地点”とか、はたまた“人生の墓場”とか言われています。まあ、好きなものを選んでよいでしょうが、少なくとも結婚することによって、大切なパートナーや子どもなどのことも自分の人生に組み入れて考えるようになります。

「わたし」だけを考える状態からより一段高いトラックを進むようになったということです。それが本当の「自立」というものなのです。

結婚の目的の一端は、人間の「自立」のためにあると考えてもいいかもしれません。

恋愛にしろ、人生全般にしろ、アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。(P262)

目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて「この人ではない」と退け、「もっと理想的な、もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。それ以上の関係に踏み込もうともせず、ありとあらゆる候補者を、自らの手で排除する。(P263)

……運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。(P266)

踊るのです。わかりもしない将来のことなど考えず、存在するはずもない運命のことなど考えず、ただひたすら、目の前のパートナーと「いま」をダンスするのです。(P267)

……やるべきことはひとつでしょう。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精いっぱいのダンスを踊ってみる。運命は、そこからはじまるのです。(P268)

「運命の出会い」はないということです。出会いを運命的にするのが、出会ってからの仕事です。

後から考えると「運命の出会い」だったなー、という具合でいいのです。もちろん、そう思えるように努力は必要です。

そのコツは、「いま」を大切に生きるということです。今できること、やるべきことをちゃくちゃくと行っていく。

そして、「いま」に集中して、将来に思い煩わず、過去にとらわれず、このあたり、中村天風師の教えも役立つと思います。

同様に医学生さんよ、「運命の科」もないということです。自分の興味や医局の雰囲気といった、「ビシッとした運命の導き」からはかけ離れたササヤカなことを頼りにして、決めてください。

それから、(こういう言い方もなんですが)選んでしまったからには、がんばってその科を選んで良かったと思えるようにするのです。

それはまた、「自分の人生がこれでよかった」と思える人生の歩み方にもつながるわけです。

愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではありません。引き受けなければならない責任は大きく、つらいこと、予期しえぬ苦難もあるでしょう。それでもなお、愛することができるか。どんな困難に襲われようとこの人を愛し、ともに歩むのだという決意を持っているか。その思いを約束できるか。(P270)

2000年くらい前から言われています。このあたりは、『「後悔」しないためには、「後悔しない」ことである』の記事もご参照ください。

「愛」は状態ととらえることもでき、波もあるものです。天気のようなものです。ときには相手に対して「コノヤロー!」と思う瞬間もあるでしょう。

しかし、「感情」は置いておいて、自分が相手に対してどう思っているのか、または相手が怒っている場合には、相手は自分にどんなメッセージを伝えたくて、そういった感情を付与してまで表出するのか、と考えてみましょう。

逆に、そういうことを考えることさえもできなくなる状態が、「無関心」ということかもしれません。

マザー・テレサの“「愛」の対義語は「無関心」である”とは良く言ったものです。

そうなってしまったら、なってしまったで、ある程度しょうがないところはあるかもしれませんが、努力してそうならないように生きていくことでしょうか。

ときどき出現するイヤな感情(怒り、不満など)を不自然に避けようとすると、無関心に走るということもあるかもしれません。

現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。

すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。(P277)

現実的に考えるとそうでしょう。人生も同様です。最良の死のために生きているのかもしれません。

死までが人生であり、誕生が人生のはじまりだと考えますと、出会いがはじまりで、別れが死で、ではそのあいだの“人生”にあたる言葉は? 二人の日々? 難しいですね。

それはともかく、この世にしても二人にしても、家族にしても、あるいは職場の人間関係にしても、いつかは分かれの時が来る。

“終わりよければすべて良し“という話もありますが、終わりを良くするためには、日々を、日常を、「いま、ここ」を良くしようと努力し続けることでしょう。

なにしろ、いつ別れが訪れるかは分からず、かつ別れは必ず訪れるからです。

逆に、あまり考えたくありませんが、「別れ」や「死」を考えることが、日々の生活や人生に滋養を与えてくれるのかもしれません。

メメント モリ(memento mori)ってやつですね。

*****

この本も、前作ほどではありませんがフセンは36本も貼ってありました。しかも、私としては珍しいことに、赤エンピツで傍線まで引いてありました。

私はあまり本に書きこんだり線を引いたりしないほうですが。それだけ熱読(これも私の造語かと思ったら、けっこう使われていました)してしまい、一生ものの本だと思ったのでしょう。

アドラー心理学だけが、この世と対人関係を生きていくうえでの手がかりではありません。そのほかの哲学、思想、宗教、あるいは科学ではありますが心理学なども、役に立ちます。

そういった中でも、アドラーは「3つの人生のタスク」など、分かりやすく人生の処方を与えてくれていると思います。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。