自分の<ことば>をつくる 細川英雄 ディスカヴァー携書
最近、「言葉」にはまっています。言葉は様々な働きをします。このブログでもしばしば言葉に関する本の紹介や、その働きについての記事を載せてきました。
言葉は、人間を人間たらしめる一つの特徴と言えます。そのため、様々な切り口で考察されてきました。
コミュニケーションツール、思考のツール、記憶媒体、文化や学問の担い手、神経科学的な言語機能、文学、詩、言霊、真言などなど。
今回ご紹介する本は、自分の中での「思考」、それを外に出す「表現」、そして「対話」を通して自分の思考にフィードバックするときの、言葉の働きに関する本です。
この「なぜ」を常に繰り返し続けることが、表現の原動力といえるわけです。 他者から与えられたトピックや、なんとなく選んだテーマでは長続きがしません。(P65)
まず、自分の中で「なぜ」を繰り返し、「思考」を練る作業です。
考えてみると、まだ外に表現しない自分の中でのみ行われる思考においても、「言葉」が重要な役割を果たします。
なぜそう思うのだろう、なぜそう感じるのだろう、なぜそうなるのだろう・・・と。
他人に「なぜ」とくり返すのは圧迫感があり、コミュニケーション術の世界ではほぼ禁じ手とされるかもしれませんが、自分の中においてはどんどん使ってよいのです。
一方、自分で用意する「なぜ」のパワーには、手加減や鈍さがあるかもしれません。そのあたりは、やはり「表現」してみて他者の「なぜ」を受けてみるのもいいかもしれません。
この「思考」と「表現」による行ったり来たり、すなわち往還が、問題意識をもち、テーマを発見していくための、唯一の方法だ、ということです。(P88)
そうやって、「なぜ」を繰り返して形作った自分の中の思考を、今度は外に出してみるわけです。
表現の手段としては、まずほとんど「言葉」が用いられます。
もちろん、絵に描いてみたり歌ってみたり、感情表現やダンスによる表現、あるいは詩や俳句、短歌などちょっと違った言葉での表現も可能です。
でも、日常のコミュニケーションにおいては、まずは言葉が用いられることが多いでしょう。
考えてみると、昔の平安時代あたり?の短歌での交流は、言葉だけでなく感情や言葉にならないことも載せることができていたのかもしれませんね。
表現は必ずしも相手がいなければならないというわけでもなく、表現してみてそれを自分で感覚し、元となった自分の中の思考にフィードバックするということもあります。
アタマの中だけで悶々と考えているだけではまとまらなくても、紙やホワイトボードに描いて見たり、声に出してみたりすると、意外と変なところに気づいたりさらなる深みに思考が及ぶこともあります。
「表現」には、思考を自分の中から出して他者に伝える働きととも、そういった自分に対するフィードバックの役割もあると思います。
もちろん、ここで考えなければならないことは、思考の内側は他人にはアンタッチャブル(不可侵)であり、この思考の内容自体に簡単に価値判断を下してはならないということです。あくまでもその思考の結果として現れた表現(外言)をもとに、どのように対等な議論ができるのかというところに、対話の意味があります。(P94)
あえてヴィゴツキーに倣って、外言として表出したものを「言語」と呼ぶならば、内言に相当するものが、いわば思考にあたります。この思考と言語を結びつけるプロセスが「言葉」ということになるでしょうか。さらに仮名書きの「ことば」は、思考と言語を結びつけるだけではない。身体の感覚や心の感情をも含みうる全体概念として機能しうることになります。(P175)
我々のコミュニケーションは、ほとんど「言葉」を介して行われます。
もちろん表情や身振り、声色などのnon-verbalな要素も大事ですが、会話・対話や発言、発表などはほとんどその言葉の内容によって伝わるかどうか、でしょう。
ましてメールや手紙、報告書、レポートや論文などは、字体・文体などもあるかもしれませんが、「言葉」そのものが相手にどう伝わるかどうかが勝負です。
できれば自分の中で醸成した「思考」を相手にうまく伝えたい。でもそこで用いることができるツールが「言葉」しかない。
でも、言葉には限界があります。だから表情などなどが重要なのです。
そこで、言葉を受けとるほうもそれを心得ておく必要があります。言葉は完全ではない、相手の言葉が相手の伝えたいことのすべてではない、と。
対話において我々は、自分の中の思考を言葉として相手に発します。相手もこちらに対して言葉を発します。
自分の言葉と相手の言葉は、自分と相手の間の空間でぶつかりますが、そこに見えない壁があります。その壁の影響で、相手の言葉を相手が考えたとおりに受け取ることはできません。
壁は、お互いの理解度や、各々の経験、記憶、解釈の違いなどでしょうか。
だから、我々は相手の言葉を、相手が意図したように受け取ることができているなどとは、ゆめゆめ思うべきではないのです。
相手の言葉の片鱗を受け止め、相手の思考の内容自体は「こんなものか」と価値判断を下してはならないのです。
がんばって相手が、「言葉」という限界のあるツールを用いて発してくれたことを、相手のこと(おそらく相手の経験、記憶、解釈のしかた、そしていわゆるナラティブでしょう)を考えて、なんとか相手の中の思考を感じることができればと思います。
大切なことは、そうした諸情報をどのようにあなたが切り取り、それについて、どのように自分の言葉で語ることができるか、ということではないでしょうか。(P113)
対話のみならず、世界から情報を得る時にも、その消化吸収が大切です。
情報をただ闇雲に思考に取り込むだけでは、思考自体が情報におどらされて次々と形を変える不安定なものになるでしょう。
そこで、情報を「自分の言葉」として、しょうがないですがここでも「言葉」という限界のあるツールを用いて加工し、自分の思考体系に組み込むわけです。
曲解すれば自分の都合のいいように情報を受けとるようなことになるかもしれません。実際そうかもしれません。
でも、情報をそのまま溜め込むのではなく、自分の経験や記憶、解釈に基づいて自分の思考に組み込み利用していこうという心は、コンピュータと人間の大きく異なる点かと思います。
自己の思考の周辺を、やはり自己の表現によって気流を巻き起こしながら、とびまわるわけです。そうすると、そこに気流によってまき起こされた渦のようなものがぼんやりとできはじめます。そのとき、あなたはそこで「何か」を感じるでしょう。(P142)
自分の中の思考を、「言葉」を用いて、「なぜ」という“かき混ぜ棒”で混ぜながら醸成させ、ときどき「言葉」として表現して他者の意見を聞いてみる、あるいは自分へのフィードバックを感じてみる。
そういったことをグルグルと行っていると、しだいしだいに思考は上昇気流のように高みに達することもあるでしょう。
下層では得られなかった思わぬ解答に、弁証法のように至るかもしれません。
さらに上昇気流による低気圧に引き寄せられて、新たなインスピレーションが見つかるかもしれません。
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そういえば「言葉」という表現と、「ことば」という表現があり、この本でもP175の引用のように述べられており、井筒俊彦先生など多くの方が使い分けていると思います。
ひらがなは、漢字よりも抽象度が上がると感じます。可能性や属性が広がると感じます。逆に専門性や正確性が落ちる気もしますが。
最近はやりの市町村など自治体名のひらがな化も、多様性や様々な可能性を期待してのこともあるのではないでしょうか。
さて、自分の中の思考、内言を表現する手段としての「言葉」。でも言葉には限界があることも心得ておく必要があります。
しかし、我々はコミュニケーションをはじめとする様々な人間活動、学問、評価などを、まずは言葉を用いて行うしかありません。
なにか他の尺度というか、ツールもあってもいいのではないかと思いますが、まずは言葉の限界も心得つつ、使用していきましょう。
自分がコミュニケーションを得意としないこともあってか、「言葉」の働きは興味のあるところです。
今後も、「言葉」について自分なりに考えていきたいと思います。