モチベーションという言葉にとらわれず

2021年7月17日

仕事ができる人はなぜモチベーションにこだわらないのか 相原孝夫 幻冬舎新書

モチベーションには、外発的モチベーションと内発的モチベーションがあると言われます。前者は給与や評価、罰など、いわゆる“アメとムチ”です。後者は“自分はこういう仕事をしたい”だとか、“こういうことを実現したい”といった、自分の理想や希望にそったものです。

モチベーションは、いわゆる“やる気”のようなものでしょう。やる気はあるに越したことはないと思います。

そして、職場に限らず教育の場でもモチベーションを高く持つことがもてはやされています。逆に、モチベーションを保つことができない人は、蔑まれる傾向もあります。

しかし、この本ではモチベーションという考え方は、決して良い面だけではないことを指摘しています。

たしかに、モチベーションを議論する場面というのは、「もっとモチベーションを上げろ」だとか、「君にはモチベーションが足りない」、あるいは「モチベーションがわかないなあ」などと、あまり楽しくない場面が多いようです。

結局、モチベーションという言葉は、“思考停止のキーワード”ともいえる。便利な言葉なので、安易にその言葉に飛びつきがちなのだ。(P17)

「言葉」というものは、物事を大雑把にまとめてしまう作用を持っています。それがまた言葉のメリットでもあり、他人に物事を要領よく伝える手段となる所以でもあります。

その反面で、深く見れば様々に分かれている要素を、言葉に集約してしまい、本当の個別的な意義を考えずに、言葉を使って済ませてしまっている面もあると思います。

我々も、職場の問題や人間関係や業務成績などに関わる要素はたくさんあるのに、このモチベーションという言葉が使いやすいものだから、その言葉に任せてしまって、済ませてしまっている面はあるでしょう。

この本では、そんな「モチベーション」を再考し、その言葉でごまかさずに、仕事をしていくうえで、何が大切なのかを教えてくれます。

「モチベーションが上がらなくて仕事が進まない」「どうしたらやる気が出るんですか?」などと考えているみなさん(私もですが)、ぜひ読んでみてください。

モチベーションを削ぐ最大の元凶は「評価」

・・・成果主義の影響として、「タテの関係」が強化されたとも言える。指示命令をし、評価をする上司と部下の関係がより一層強化された。一方、「ヨコの関係」や「斜めの関係」は薄れることになった。

・・・人材は多様な関係の中で成長する。上司との関係性の中だけでは成長も限定的なものとなってしまうのだ。(P40)

現代は、職場で上司から与えられるのは、評価のみとなっています。もしくは叱責でしょうか。教育の場では、達成度や試験の点数、つまり客観的な評価です。そんな環境ですから、評価によってしか、自分の変化を感じることができなくなっているのではないでしょうか。

たとえば職場での評価対象は、営業業績やプレゼンテーションの出来、大学などでは論文の数といったところでしょう。

職場の長として部下を教育、指導する立場の上司も、そういった評価でしか評価していない、というかできない状態です。

しかし、そういった客観的評価以外の評価があるのではないかと思います。人間は、得体のしれないものである。営業成績やプレゼン能力、試験の点数で評価する要素だけではありません。

医療の場で我々が相手にする病気。病気も得体のしれないものです。それに対して、いかにとっかかり(問い)をつくるかが、うまい診療の進め方、仕事のしかたです。

これは、医療のみならず、人間を相手にする職業には、まあ、ほとんどの仕事がそうでしょうが、必要なものです。

考えてみると、評価というものは、ある人間を知るためのとっかかりの一つなのでしょう。わかりやすい指標を用いて、得体のしれない相手にとっかかりを作り、評価するわけです。

しかし、上司は評価というとっかかりでのみでしたか部下を見ないようになるかもしれません。人間としての全体ではなく、知識や技術、営業成績、あるいは周囲の人の評価など。ほとんどの場面で、そうなっていると思います。

人間という複雑な構成物を、全体を見ることなく評価可能な点でしか見ていない。木を見て森を見ずではないでしょうか。

得体のしれないものの代表「病気」の概念は、とっかかりを作り、それを解明し、そういった数多くの解明を積み重ねて作られてきました。

それは、われわれが患者さんに対するときも同じかもしれません。“全人的”などという言葉もあります。患者さんへのとっかかりを“病気”だけに限定しないで、患者さんの人間としての様々な特徴、つまり考え方、趣味、希望、こだわりなどのとっかかりと作り、知る。

そのおかげもあってか、がんなどの人間的に様々な取り組みが必要な病気も(たとえば治療方針の検討と選択、患者さんの精神的なケア、緩和医療など)、全人的に取り組まれるようになってきました。

それらの多くの要素が、患者さんの“ナラティヴ”を我々の中に形成し、よい関係を作り上げることができるのではないでしょうか。

部下に対しても、評価というとっかかりだけではなく、部下の人間としての全体を見る様にするべきでしょう。

これは、職場における上司・部下関係、あるいは同僚との関係だけではなく、人間関係全般においても同様ではないかと思います。

もともと日本人はモチベーションを必要としていなかった

・・・「職人の心意気」や「職人としての誇り」とはよく言われるが、「職人のやる気、モチベーション」という言われ方は聞かない。やる気ではなく、心意気や誇りで働いているのだ。そこにはやる気のあるなしなど、モチベーションの入り込む余地はないのである。(P128-129)

職人。いい響きの言葉です。追従して思い浮かんでくる言葉たちは、やはり「心意気」「修行」「師匠と弟子」といったところでしょうか。

そして、愛おしくも言葉の力が弱い場に居続ける存在の気がします。つまり、言葉にできないもので成り立っている。「経験」であったり、「暗黙知」であったりと。

そして、いっぱしの仕事をやり遂げようというときに、モチベーションというカタカナ語の入り込む余地はなさそうです。

モチベーションであるとか、インセンティブであるとか、そういった言葉が軽薄に感じるほど、職人の仕事は別次元にあると思います。

そこにあるのは、ただ、自分がすべき仕事を確かな品質で提供すること。

外科医も、同様に職人であると確信します。その仕事を代表するのが手術です。いくらでも注ぎ込める心意気は、綿密な術前検討につながります。

その技術は、もちろん教科書や口伝で伝えられますが、もう見てもらうしかないこと、暗黙知というものも大部分を占めています。

モチベーションがないからできないとか、大変さを考えると避けたいなどと考える人には、向いてないかもしれません。

私も外科医のはしくれとして、職人の仕事ができればと考えています。

まずは、「自己完成」なり「自己成長」を目指す、「“道”としての労働」の観点から述べていきたい。

・・・うまくいかないことや失敗は当たり前である。それらの積み重ねで徐々に上達していき、ある領域に達する。武道や茶道など、稽古事も基本的に同じことの繰り返しであり、その中で徐々に磨かれていく。片や作法が厳格に決められており、未熟な段階においては意味が分からないまま、あえてその意味を問うこともなく、ひたすら繰り返し行うことで型を身に付けていく。そうする中でそれまで見えなかったことが見えるようになり、徐々に意味が分かるようにもなり、それと共に自然に身体が動くようになる。(P171-172)

仕事の報酬にははさまざまあります。給与や地位といった実質的なもの以外にも、成長や仲間、新たな仕事など形のないものもあります。

それらは、人間にとって、人間として生きていくうえで大切な要素だと思います。人間は、仕事を一つの手段として人間らしく生きていく大切な要素を得ているのです。

もちろん、仕事以外でもそういった要素は得ることができます。とくに仕事の他に交友、あるいは愛が人間として生きることに重要であり、これら3つをアドラーは“人生のタスク”と呼びました。

さて、“道”としての労働ですが、ここで述べられているように、「意味が分からなくてもひたすら繰り返し行うことで型を身に付けていく」ことが大切です。

武道や茶道など日本文化の特徴である“~道”は、その作業の実用的な修練を目指すこともありますが、それよりもその作業を通じて自分を成長させる、完成させる点に重きが置かれています。(『禅と日本文化』の紹介記事もご覧ください)

最初はなんでこんな型なのだろうと、意味も分からずひたすら身体に覚え込ませます。それが自然にできるようになると、次第にその型が持っていた意味が分かってくるのです。

ロジカルシンキングなどを考えてしまうと、こういった発想は難しいかもしれません。「この型、作業はこういう意味があるから、行うのであり、その結果、こういった効果、成長がもたらされます」といった能書きがないとできない、などと考えないことです。

ま、世の中は後者の流れが主流な気はしますけどね。大学の教育内容とその効果をまず始めに学生たちに説明するシラバスなんて、そんな感じです。

仕事においても、まさにこの「~道」に通じるところはあると思います。日々のルーチンワークもそうですが、とくに手術といった、いわば“職人技”もそうです。

昔から試行錯誤を重ねて考えられてきた手技手法、手術アプローチの考え方があるわけです。

始めはその一挙手一投足の意味が分からなくても、その通りにできるように繰り返し練習あるいは実践でがんばります。

それができるようになって、ふと考え直してみると、その理にかなった点、「なるほど!」と思う点が見えてくるのです。

教育にしても、ある程度教育されて勉強を経ていろいろなことが見えてこないと、教育のありがたさは分からないものだと思います。

教育の目的は、教育の意義が分かるようになることだと、私は思います。

生産現場出身のある人事課長は、その後伸びるかどうかは、「考えずに手を動かせるかどうか」であると言っていた。「考えずに」という点が気になり、その理由を聞いてみると、「当事者意識をつくる」という観点であることが分かった。結局、「問題解決ができるかどうかは、当事者意識があるかどうか。他人様の意識では現場と同じ目線では考えられない。他人事として評論するだけに終わり、上滑りしてしまう。頭で理解しようとするが、当事者意識をつくるうえでは、四の五の考えずに最低でも数ヶ月間一緒に汗を流すしかない」と、おおよそそういうことだった。(P183)

ルーチンワークでも雑用でもなんでもいいですが、ただひたすら汗を流して仕事をしてみるのです。そうしているうちに、さらに工夫はないかなど、「“自分として”この仕事にどう当たっていけるか」を考えるようになるでしょう。それが、当事者意識であり、主体性と言ってもいいかもしれません。

『主体性は教えられるか』で岩田先生もおっしゃっていました。

患者の微細な属性や変化を知るには主体性が必要である。(他人がそうしろと言ったとか、教科書に書いてあるからというのではなく)自らの興味関心や感度を高め、その患者を理解しようという主体性が必要である。パターン認識的な理解では、患者を理解することなどできはしない。(主体性は教えられるか 筑摩選書 P27)

まあ、始めはパターン認識的な理解や仕事でもいいと思います。それを繰り返すうちに患者や病気に対する自らの興味関心や感度を高めることができるでしょう。

当事者意識があると、上司の命令、指示で動くだけでなく、こうすればいいのではないか、もっと良い状態を目指したい、などと考える。自分なりに調べたり、人に聞いたり。

当事者意識がないと、上司の命令、指示で動くだけ。上司の言うことをうまくできたかどうかだけが指標になってしまいます。そして、自分の働きに対する上司の評価のみを、自分の成長のあかしとしてとらえてしまう。

本当はそんなことはありません。確実に自分の技術や考え方もレベルアップしているはずです。

そういったことは普段は評価されないので、おもしろくない。でも、目立つ評価だけを求めず、ちょっとずつでも仕事の道を進んでいきましょう。

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「モチベーション」。その言葉を都合よく使って、浅薄な他者評価の一項目、あるいは自己への言い訳にしていないでしょうか

多くの偉大な仕事は、必ずしも大きなモチベーションのもとで達成されたものだけではありません。

自分に与えられた立場、仕事を、淡々とこなしていくうちに、ときにモチベーションというべきシロモノも沸き上がってくることもある。そんなものかもしれません。

「モチベーション」「イノベーション」「インセンティブ」・・・。流行っていて、手軽に使えそうなコトバには、気を付けたいものです。

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