父親のための人間学 森信三 致知出版社
森信三先生の教えは以前ご紹介した『修身教授録』に込められていると思います。「人間としていかに生くべきか」を追い求めた先生の思想が詰まった、人間にとって必読の一冊です。
この本は先生の思想のなかでも特に、30歳代、40歳代の男性、あるいは父親になった人、なる人にとって、ぜひとも読んでおきたい内容が盛り込まれています。
このくらいの年代になると結婚したり家庭をもったりします。そして仕事のこと以外にも夫婦のこと、家庭のこと、教育のことなどさまざまな悩みや問題が出てくるときです。
仕事も面白くなってきますが、壁にぶつかることもあります。結婚して妻との関係や夫婦のありかたを考えるようになります。子どもができれば、子どもとの関係やどのように教育していったらいいのか考えます。
さらに仕事と家庭の関係、自身の体力やメンタルの維持など健康維持も気を付けていかなければいけない時期です。
遠く生涯を見渡した働き方、生き方なども気になってきます。
*
目次を一部抜粋してみます。「一生の見通しと設計」「職場の人間関係」「読書と求道」「健康管理と立腰」「夫婦のあり方」「子どもの教育」「趣味と教養」「逆境と天命」。
父親としての立場を中心に述べられていますが、一人の人間として社会の中で生きていくうえで極めて興味深い項目が並んでおります。
「人間いかに生くべきか」は森信三先生の永遠のテーマです。この本で述べられていることは、必ずしも父親だけではなく、これから父親になる人、家庭を持つ全てのみなさんに通用する内容だと思います。
・・・父親自身がおのおのの職場において精錬恪勤するだけでなく、その家庭における起居動作をも謹んでいただかねばならぬ非常事態の世の中に突入しつつあるように思われてなりません。これが自ずから躾け教育の主役たる妻への絶大な協力を要するゆえんであるとともに、ひいては父親の無言の権威にも繋がるものであると思うのであります。(P11)
家庭に対する男女の平等な参画も進んできてはいます。しかし現状として、どうしても父親が仕事で収入を得て、母親が家事を行い子どもの教育や躾けに関わることが多いと思います。
うちの場合は、父親である私が平日はほとんど子どもたちが寝るころ、あるいは寝た後に帰っており、せいぜい妻から日中の様子を聞くくらいです。
そういう状態ですと、妻はともかく子どもにとって父親の役割を果たせているのだろうか、と考えることもあります。
子どもにとってはいつもご飯を出したり世話したりしてくれるの母親だから、どうしても父親の存在が薄くなるかもしれません。
しかし存在感を示そうと、へんに威張ったり強がったりして父親の存在感や優位性を強調するのは、時代遅れであるばかりか人間としての資質を問われるものです。「権威」というものも、ネガティブな言葉になりつつあります。
そうではなく、自分の仕事に真剣に取り組みつつ、家庭にいる間はあいさつや家事に努め、ゴロゴロばかりしていないなど、起居動作に気をつけて過ごすことです。
そういうところから、自然と父親に対する家族からの印象も、良くなるのではないでしょうか。
私も平日は夜遅くて子どもの相手をすることは少ないですが、朝は早めに起きて朝食などできるだけ一緒にとれるように、あるいは休日はできるだけ一緒に遊ぶ(遊んでもらう?)ように心がけています。
そこで、それでは男盛りともいうべき三十歳代の十年間を一体どう過ごすべきかということになりますが、一言で申せば「自己教育」ということであります。言い換えると求道的な生活態度といってもよいでしょう。「自己以外すべてわが師なり」として、自分の勤め先の仕事、ならびにその人間関係は申すに及ばず、それらを取り巻いて生起する一切の出来事は、すべてが人生の生きた教材であり、おのが導師たるわけです。(P40)
中江藤樹や王陽明など古来の学問・思想の偉人についても述べられています。そういった人物は、ほとんど例外なく30歳代の十年間に、その人の一生の土台を築いたとのことです。
たしかに、20歳代まではまだまだ教育を受け、基本的な知識や技術を身に付けていくといった段階のように思えます。知識や技術が高度化している現代であれば義務教育だけでは物足りず、大学や大学院、専門学校、さらには仕事を始めてからも日々勉強です。
そして、30歳代となると、ある程度の知識や技術も身につき、それを実践に応用してズバズバと仕事をしていこうという時期だと思います。
ただ、知識や技術を実践に応用するためには、うまく使うことが必要です。そのために大事になってくるのが「知識」を「智恵」にすることです。この本での「知識と智恵」に関する記述も引用しておきます。
では、この「智慧と知識」とはいかに違うかと申しますと、知識というものは、いわば部分的な材料知であるとすれば、「智慧」というものは、その人の体に溶け込んで、自由に生きて作用く知性だといってもよいでしょう。(P29)
「知識と智恵(知恵)」ということについては、このブログでもさんざん書かせていただいております。「知識」をいかに「智恵」にするかが重要です。
ここでも述べられているように、「知識」というのは、材料として取り入れられるものであり、これは読書であったり講義であったり、あるいは日常生活など様々な場面から我々の脳に入ってきます。
ただ、入ってきて溜め込んでいるだけではダメです。それが我々の体に溶け込んで、自由に使うことが可能であり、他の知識と結びついて新たな知識を生み出し、実社会で生きていくうえで役立つようになることが大事です。これが「智恵」ということです。
そのためには、「知識」を取り込むだけではなく、自分の解釈を加えること、これまでの経験や知識との比較、照合をすることが必要です。
また、「知識」を良く使いためには森信三先生がよくおっしゃる「人間心理の洞察」も必要です。
周囲や相手のことを思いやること、医療における「ナラティブ」なんかもここに通じるかもしれません。
*
「自己教育」の30歳代、いかに生きるべきかという話に戻ります。「自分以外すべて師なり」という考え方、姿勢が大切です。
周囲からいつでも学ぶという「謙虚さ」、どんなことでも、はたまた逆境でも自分を成長させてくれるものだと考える「受け入れの姿勢」が必要です。
あるいは、仕事に慣れてきてどうしても周囲に合わせてルーチンのことをできればいい、先輩がしているようなレベルに達したら十分、となりがちです。
しかしそこを一歩突き出して、自分や組織をさらに成長させる「出る杭」になるということも大切かと思います。
「出る杭」というと、”出る杭は打たれる”などと言われ、ネガティブなイメージではあります。しかし、「出る杭」になることは組織にとっても良いことだと思います。
しっかりと屹立する「出る杭」は、「柱」として周囲の手掛かり、拠り所となりますし、情報をひっかけるアンテナともなるでしょう。
父親としてのテレビ対策
テレビを至近距離で見せないこと
視聴時間を決めて一定時間に制限すること
子ども部屋には絶対テレビを置かぬこと(P70)
ここで述べられている「テレビ対策」は、もちろん現代のテレビにもあてはまるのみならず、スマホやパソコン、テレビゲームなどいろいろなことに当てはまると思います。
最近ではスマホの使いすぎも問題となっています。『スマホ脳』の紹介もご参照ください。子どもも例外ではなく、むしろ子どもに対するスマホの弊害のほうが大きいかもしれません。
うちでも、とりあえずは制限時間を決めて、さらに宿題を終わらせてからなどと条件を決めてゲームをさせています。
テレビを子ども部屋に置くことは絶対にないと思います。でも最近はスマホでもいろいろ見れますからね。スマホは、少なくとも高校までは持たせないつもりです。反抗されるかな。
わたくしの健康維持にとっては、この「立腰」と「粗食」とが欠くことのできない二大素因をなしていると思われますが、もう一つわたくしの常に心掛けておりますことは、ものごとを「おっくうがらぬ」ということであります。(P75)
30歳を過ぎたり、家庭をもつような年代になりますと、生物学的にも徐々に体力は衰えてくるでしょう。ジョギングや自転車などの継続的運動や筋トレ、ストレッチなどで体力を維持することが重要です。
さらにこの「立腰」です。森信三先生の教育の要ともいえるのが「立腰教育」です。姿勢を正すことによって、気持ちも正されるわけです。
また、「粗食」も良いことだと思います。飽食の時代であり、知らず知らずあっという間に必要カロリー以上の食事を摂ることができる世の中です。
ほんらい大人なんて、適度な運動と仕事ができるカロリーさえとっておけばいいんです。育ち盛りの子どもでもなければ、実は三食摂らなくてもいいのではないかと思っています。私は。
あとこの「おっくうがらぬ」ということは大事だと思います。階段を使うこと、ちょっとたまった食器を片づけること、床のゴミを拾って捨てること。あまりゴチャゴチャ考えずに体が動くようにしたいものです。
「オレがすることじゃない」などと意味不明やことは考えずに、サッと動きましょう。
あとは、意地を張っても“年をとったと思わない。自覚しない”ということも、よいのではないかと自分なりに思っています。
ときどき何かの拍子に疲れを感じると、“年かなあ”などと安易に考えがちですが、そのような思惑が生じるかどうかという瞬間に、払拭しましょう。
家庭は躾けの道場
必ず朝のあいさつをする子にすること。
親に呼ばれたら必ず「ハイ」とハッキリ返事のできる子にすること。
ハキモノを脱いだら必ずそろえ、席を立ったら必ずイスを入れる子にすること。(P112)
子どもを社会に通用する立派な大人に育てることも、家庭の大きな役割です。そのためには躾けが重要となります。
森信三先生は、躾けの3つのポイントとして、上記を述べておられます。まさに家庭は社会に子どもを送り出すに必要な躾けを与える「道場」です。
実質的に、「あいさつしなさい」「返事はハッキリしなさい」「ハキモノはそろえなさい」と言葉でいうだけではなく、親の方からもこの3つのポイントを積極的に行うことが重要です。
実践をもって示し、範例をもって教示することから、「道場」と述べられたのではないかと思います。
わたくしはいつも譬えをもって申すのですが、死の絶壁にボールを投げて、その跳ね返る弾力を根源的エネルギーとして、われわれは生き抜かねばならぬのであります。(P185)
30代、40代となると、寿命を考えてもそろそろ人生の折り返し地点が意識されてくるころです。
森信三先生の与えてくれた大切な言葉に「人生二度なし」というものがあります。「人は必ず死ぬ」「人の死はいつ訪れてもおかしくない」という二大原則を自覚して、今を最大限に生きるというのが大事です。
『修身教授録』にも、以下のように述べられています。
われわれ人間は、死というものの意味を考え、死に対して自分の心の腰が決まってきた時、そこに初めてその人の真の人生は出発すると思う。(修身教授録 P256)
うーん。なかなか「死」を認識して生きるということは難しいですが。田坂広志氏もその著書で「大病」「戦争」「投獄」の」経験が「死」を認識することに近く、人生の転機となるということをおっしゃっていたと思います。
進んでそういう境遇には逢いたくないものですが、少しは今を大切にする、あるいは自分の後に生きる人のためになることを考えたいと思います。
それにしても、ここで述べられているように「死」を「生」のエネルギー源にするという考えは、ほかの宗教にはないのではないかと思います。
やがて世界が二十一世紀を迎えるに当たり、一つの大きなテーマは、「世界の平和」と「東西文化の交流と融合」であると思われますが、その上で大きな役割を果す責務を、われわれ日本民族は背負っていると思われてなりません。(P200)
森信三先生の思想は「全一学」と称され、さまざまに二項対立してしまっている分野を統一するものです。単に「哲学」という枠組みを超えて、学問と実践、宗教と道徳、はたまた東洋思想と西洋思想といった具合に。
そして、そのためには目下の日常から、自分の生き方から考えていきましょう、実践しましょうというものです。
広く世界を観ると同時に、足もとも観る。その実践の場が職場であり、家庭であります。日常における実践を通して、自身の人生の充実はもちろん、「世界の平和」までつながるのです。
日本人は融合という面では優れているかもしれません。昔から外国文化の取り込みや加工が行われてきました。
どうせなら、一つの宗教や思想にこだわらず、良いところをとらえ、日常に生かして実践していければ。
その最も基本である家庭生活での心得が、この本には込められていると思います。