このブログと読書について考える

昨年はコロナ禍の影響もあり、学会や出張が中止やWeb開催となりました。そうして空いた時間を見つけてせっせと本のご紹介をすることができたように思います。

とくに3、4、5月あたりに一日一冊ペースでご紹介できていた時期は、自分でも奇蹟のように思います。

(そのぶん葬られた仕事のための時間はあったのでしょうが。また、数量重視の大量生産品よろしく内容的にも未熟な点が多いのでしょうが。)

最近は週に1冊ほどのペースですが、まあ、このくらいで続けられればと思います。

そういえば、ブログで本を紹介することを始めると、本を読む冊数が減少します。記録によると2019年までは1年に240冊前後読んでいましたが、2020年は150冊でした。

もちろん、記事を書く時間によって読書時間が削られていることもあると思います。

しかし、読み方じたいも、これは弊害もあるかもしれませんが、「書くために読む」という意識が生じてきている気がします。

読んでいてピカリと光った部分に付箋をはり、その部分をワープロで書き出す作業もしっかりするようになった気がします。

どのようにアウトプットをしようか考えて、読書をする。これは、どんな料理を作ろうか思い浮かべて食材を探す、あるいは食材の品定めをするようなものでしょうか。

さて、そうやって読書を行い、メモのように書き出したりブログに掲載したりすることも、メリットはあるかもしれませんが、デメリットもあるかもしれません。

書き出すことによって、つまり外部に記録することによって、安心してしまって、自分の中にはあまり残らないということもあるでしょう。

私はブログについて、「自分の考えの“外付けハードディスク”みたいでいいなあ」とか、「あとから自分の記事を読み直してみると、自分では忘れていた考えもあることに気づいて、いいなあ」などと思っていました。

ブログに限らず、メモしたり書評を書いたり、あるいは他の人に話したりといった、いわばアウトプットは、こういった性質があると思います。

しかし、また後日にでも別の本のご紹介で書きたいと思いますが、自分の外部に記録することは、自分の内部への記憶が薄くなることにもつながるようです。

花火などのイベントや動物園などで、この瞬間を逃すまいと写真ばっかりとっていると、記憶に残りにくいのと似ているかもしれません。

とはいえ、頭のほうも記憶力は限りがあります。もちろん、記憶なんてものは神経細胞同士がどれくらい繋がるかが問題であり、容量としては限りないでしょうが、記憶を紡ぐための時間(人生)には限りがあります。

そのため、こういったブログやメモなど外部に考えたことを保存しておくことは有用だと思います。写真も、記憶を呼び起こすきっかけとしてたいへん有用です。

さきほど、ブログなどへのアウトプットを料理にたとえました。食材という知識や情報を入手して、頭でうまく加工し、おいしい料理にする作業だと思います。これこそ知識から知恵へといったところでしょうか。

自分の頭というキッチンに日々みがきをかけたまな板や包丁、鍋、あるいは調味料などをそろえ、食材を加工しながら、考えたことをメモやブログという食卓あるいは料理集にも記録を残していければと思います。(冷蔵庫?冷凍庫?かもしれません)

もちろん、食材と同様に、ネタには鮮度と旬も大事ですね。

まあ、それはともかく、ご紹介したい本はたくさんあります。読んでいて「これは!」と思う本も、以前ほどではありませんが巡り会います。(けっして、もう本はあらかた読みつくしたなどという不遜な言いぐさではありません)

もともと素晴らしい本の内容なのに、私のつたない加工や解釈がまつわりついている、なんてこともあるかもしれません。

せっかくの食材も、変な味付けや盛り付け方によって、料理としてはいまいちになってしまうこともあります。

そこは多少目をつぶってお読みいただき、ご意見、ご指導いただければ幸いです。

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