掴みどころの難しい世界を、よく「みる」ために

2020年12月18日

知覚力を磨く 神田房枝 ダイヤモンド社

我々は、世界をさまざまな「感覚」を通してとらえています。視覚や聴覚、嗅覚、触覚など。

しかし、得られた感覚は同じでも、どうしても個人個人による見方の違いや解釈の違いが起ります。

また、どのように見ようかという意識やバイアスによっても、見え方や見つけられるものが異なります。

一例としてこの本では、表紙カバーのところで、胸部CTの画像によるちょっとしたクイズが載っており、肺の異常を発見できるかと問われています。

私も良く見てみました。そして、これが結節影かな?と思ったのですが、アッとおどろく別な異常があったのでした。

どうしても、胸部CTの異常を探せと言われると、肺炎像や結節影を探してしまいます。医療関係者であれば当たり前と思います。

しかし、この本の画像で隠されている異常は、一般の人の方が見つけやすいかもしれません(詳細は実際に本書で見てみてください)。

この本は、あらゆる知的生産の“最上流”に位置するとされる「知覚」について考察した本です。

とくに視覚、見ることについて詳しく論考されています。ものを、世界を見ようとすることは、どういうことなのか、いろいろ考えさせられます。

読んでみると、ちょっと世界が変わるというか、世界の見方、見え方が変わるかもしれない本です。

知覚とは、自分を取り巻く世界の情報を、既存の知識と統合しながら解釈することです。

つまり、知覚と単なる感覚は違います。そこには既存の知識との統合や、それに基づく解釈が入り込んでいるからです。

(P32)

「感覚」というのは、外界からの情報や刺激(光や音など)をそのまま受け取ることです。

それに対して「知覚」というのは、引用のように情報を既存の知識と統合しながら解釈することです。

私がいろいろなところで言っている(私が言い始めたわけではありませんが)、知識と智恵の関係に似ていると思います。

知識は得られた情報を溜め込んでおいた状態であり、知恵はそこに自分のこれまでの他の知識や経験、解釈を混ぜ込んで、より実用性のあるものにした感じです。

個人個人の知識や解釈が統合されるという点がポイントだと思います。だから、同じ情報でも各人によってとらえ方が異なるのです。

水が半分入ったコップでも、「半分しか入っていない」という人もいるし、「まだ半分ある」という人もいます。

私たちは「純粋によく見る」という行為をしていないのです。現代人の眼は「マルチタスクに心を奪われてそもそも見ていない」「何かを探して/期待して見ている」「なんとなくぼーっと見ている」という3つのモードに支配されています。何の先入観も持たず、眼の前の事物・事象をありのままに理解する「観察」が入る余地がありません。

(P89)

我々は、なにかしら目的をもってものを見たり、調べたりします。目的があるので、なにかこの文脈で当てはまるものはないか、なにかこの検索条件で引っかかるものはないかという見方で、見てしまうと思います。

それこそが、ものを「純粋によく見る」ということから引き離しています。

たしかに、目的のものを探そうとして見る見方であれば、目的にふさわしいものが見つかるかもしれません。

その一方で、目的指向でない見方ができれば、つまり事物・事象をありのままに理解する「観察」ができれば、目的の達成には直接つながらなくても、さらによい結果をもたらすこともあります。

本文でも例示されていますが、フレミングによるペニシリンの発見や、あるいは抗がん剤としての白金の効果などもそうでしょう。

この「観察」というのは、人間にしかできないことだと思います。もちろん、動物もできるのかもしれませんが、あまり動物の生き方に生かすことはできないでしょう。

人間は、こういった「観察」によって得られた発見で、科学技術や文化を発展させてきたのではないかと思います。

とくにコンピュータやAIは目的指向でビッグデータから使えそうな情報を探し出すことしかできません。だから、いくらビッグデータをビッグにしても、無目的な「観察」によって得られる発見はAIには無理でしょう。

もちろん、ときには「観察」の結果が空振りや誤解、錯覚のこともありますが、そういったことからも「発見」は湧き出ることがあります。

個別の要素だけではなく、要素が置かれた環境や背景、要素間の関係性、さらにはその空白・周縁部を包括する「フィールド」にも眼を向けることで、作品の特性や価値が浮かび上がってくるからです。これこそが「全体図」を観るということです。

(P146)

本文では一群の走る馬の彫像の写真が提示されています。馬の彫像それぞれが放つ躍動性を感じることは、彫像をみるポイントではあります。

しかし、馬同士の距離や並び方、あるいは周囲の水場や敷石、はたまたその彫像群が置かれた公園との調和、はたまた天気との兼ね合いなども観る、これが「全体図」を観るということでしょう。

これは決してオブジェクトや絵画の鑑賞だけの話ではないと思います。たとえば会社や医局の組織などを見る時も、こうした見方は役に立つのではないでしょうか。

個人個人の能力や考え方、人格、性格を見ることも大切ですが、その人の周囲との人間関係や家族背景、歴史(生い立ち?)なども観て、その人に合った配置なりを考えるのが、「全体図」を観るマネジメントだと思います。

ものの見方を組織の見方にまでつなげるのは、なかなか難しいかもしれませんが、なにごともトレーニングです。

この本では絵画をみることが、「観察」や「全体図」を観ることのトレーニングに良いと述べています。

すぐれた経営者が絵画を飾ったり、見る目をもっていたりするのは、こういったことにつながるのかもしれません。

観察とはとにかくつぶさに物事を見ることではありません。多様な解釈を引き出せるような眼のつけどころを観ることこそが、観察の真髄なのです。

(P159)

なかなか難しいことですね。でも、一つのものを観るにしても、他人は自分の見た印象と異なる印象を持っているものです。

そういった印象、解釈を、できれば自分でも幅広く引き出せるようなものの見方をすること、それが「観察」ということなのです。

手術にしても、あまり慣れていないうちは何が何だか分からないかもしれません。でも、なれてくると、今操作している部分のみではなく、周囲との位置関係や血管走行との関係など、まさに「全体図」を観ることができるのだと思います。

私の上司も、手術では(すぐに腫瘍などを取るのではなく)まずよく「観察」する、とおっしゃっていることがあります。

これはもしかして、こういうことを言っているのかもしれません。

何も考えずに松の木を1本加えれば水墨画全体がダメになってしまうのと同じように、特定の要素を変える(たとえば、最新テクノロジーの導入)だけでは、組織そのものは強くなりません。つねに全体図を眺めながら、各部分を1つの画面に統合していく試みこそが、マネジメントの本質なのです。

(P177)

「全体図」を観ることも難しく、訓練が必要です。一方、「全体図」の調和を創り出すことも難しいことです。

本文では水墨画の絶妙な「全体図」のバランスについて述べていますが、ひいては組織論にも言及しています。

たとえば、職場や医局なんかでも素晴らしい上司が一人入っても、すぐれた機材を導入しても、対して実績は変わらないと思います。

その上司、機材が入ることによって「全体図」としての職場全体、医局全体がどう変わるか。

この人はどういう影響を受けるか、この人はどういう立場になるか、ということを考えることが、組織のマネジメントの大切なところだと思います。

周辺部が決して見逃してはならない場所であることは、ビジネス競争がグローバル化し、あらゆる変化がスピーディに起こる今日でも変わりません。周辺部には未来の顧客ニーズや、環境やトレンドの変化のサインがいち早く到来するからです。

(P199)

学際的などとも言われますが、他分野との接点や、他業種との共通点などが、自分の専門とする分野でもトピックになることがあります。

VRはゲームなどで発展したかと思いますが、これをリハビリに導入することも、こういった周辺部でのつながりに目を付けたものだと思います。

まさにゲームの面白さ、のめり込みといった特徴と、VRの体感性、実効性を身体の動きを促進する方向に結びつけた、良い考えだと思います

自分の専門分野の周辺部や他分野との「見えないつながり」を観ることは難しいかもしれませんが、こういったところにブレークスルーがあるのです。

既存の考え方、自分の得意なことにだけ集中し、まわりが見えていないことはないでしょうか。

ふと自分の仕事の周辺部分を観ると、なにか仕事のヒントになることがあったり、新たな仕事につながるきっかけが掴めたりするかもしれません。

この「ロボットにとってスーパーハードなこと」とは、何だと思われますか? じつは、「観ること」なのです。ロボットの眼は、ボルトとナットの予期しないズレを見つけたり、車の複雑なフレーム構造を自在に観たりすることはできません。

(P235)

ロボットやAIは今のところ、設定されたミスやこれまでの情報、ビッグデータに載っている問題しか検知することはできないのでしょう。

人間のもつ、ふと見たら違和感に気づいたとか、なんとなくいつもと違うといった感じのようなあやふや、かつ鋭いものは持ち合わせていません。

「観察」して、さまざまな解釈を生み出すということは難しいことです。

でも我々人間にはそれが可能であり、たとえ大部分は空振りだったとしても、ときには大事故の一歩手前のミスを観つけることもあります。

おそらく、我々はなにげなく見ている以上に、「観ている」のだと思います。意識に登らなくても、そういった「直観」のように思い浮かんでくることが、「観察」による知覚の一形態なのかもしれません。

人文科学は、明確な答えがない問いに対して、自分なりの答えを提案していく学問です。たとえば「幸福とは何か?」には、無数の正解があり得るでしょう。この問いに答えようと思えば、あらゆる角度から問題を観て、思考し、それを言葉に落とし込んでいく作業が必要になります。

「病」というものは曖昧な題の典型ですから、常日頃から病気の診断を行っている医師こそは、「曖昧な問題に向き合う究極の職業」だと言ってもいいでしょう。

(P240, 248)

文学や歴史は、まさに人それぞれの「観察」による多彩な解釈が生きる学問だと思います。文学における物語の解釈も、読者により、時代により変わります。

また、歴史についても、与えられた史実や情報から、様々な解釈を加えて形作られる、一つの物語です。

なかなか人の感情や気持ちを「言葉」に落とし込むことは難しいです。さらに、自分が体験もしていない大昔のこと、過去の出来事を「言葉」に表すのも、難しいです。

あらゆる角度から、そういった問題を観て、解釈し、自分なりの「言葉」に“落とし込む“ことが、こういった人文科学を扱うコツの一つでしょう。

また、「病気」や「患者さん」、はたまた「社会」や「正義」「経済」などもあいまいものであり、たとえば病気を扱う我々医療者としては、いかに「言葉」に落とし込んで「つかみどころ」を作るかが、ポイントです。

「診断」や「所見の名前」、あるいは「定義」というものは、得体のしれない「病気」を特徴に応じてうまく扱い、体系的な診療過程(診断→治療)に落とし込むために創り出されたものだと思います。

こういった「得体のしれないもの」を扱う職業、たとえば医師であるとか、裁判官であるとか、政治家であるとかは、よく物事を「観察」して、知覚するための解釈に堪えうる知識と経験をつむ必要があると思います。

*****

この本では、「絵画」を観ることが「知覚力を磨く」ための方法の一つとして紹介されています。私のようにあまり絵画を見ない人にとっては、有名な絵を見ても「ふーん」「よく分からん」といった感じぐらいです。

しかし、観る人によっては、いろいろなものと掴み取り、解釈を施すことができるのでしょう。これは、医師がレントゲン写真やCTなどといった医療画像を観ることにもつながると思います。

一般の人は、医療画像を見ても「ふーん」「よく分からん」という感じでしょうが、医師はそこから多くの情報を掴み取り、解釈を施します。

「絵画」をよく観て、見えない情報を掴み取り、解釈する能力が、この世界をよりよく「観察」するトレーニングになるのです。

「見る」ということは、単に網膜で光刺激を受けとる「感覚」にを示す表現だと思います。

一方「観る」は網膜で受け取った情報を脳に伝えて、そこで様々な知識や経験、解釈と混ぜられる「知覚」を示す表現になると思います。

考えてみると、日本語でも「見る」と「観る」があるように、英語でもseeとlookあるいはwatchがあり、それぞれが対応しているような気がします。

また、音情報についても「聞く」「聴く」とhearとlistenが対応していそうです。触覚についても、touchとfeelもこういった関係かもしれません。

我々は知らず知らずのうちに、こういった言語表現にも表されているように、たんに「見る」「聞く」「触る」のとそうではない「観る」「聴く」「触れる」を使い分けているのかもしれません。

VUCAの時代と言われる今後、見たものそのものの情報だけではなく、観ることによって解釈したことが重要な時代になります。

「世界」「社会」「病気」といった掴みどころの難しいことに対して、必要な情報やデータ、検査などを収集・設定する「目のつけどころ」を磨くことが必要です。

こういった本を読むと、そういった時代に対応したものの観方が勉強できると思いました。ぜひ、世界の「見方、見え方」を「観方、観え方」にできるようにしましょう。

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