「言葉」を切り口に『論語』を読み、『論語』を知ろう!

2020年8月15日

すごい論語 安田登 ミシマ社

「論語読みの論語知らず」という言葉が、よく言われます。

「論語読み」はまさしく、『論語』を読むことでしょう。そして、その内容や意義もある程度理解しているのでしょう。

もしかして学校の教科書で勉強した、あるいは解説書で勉強した『論語』の文章を覚えていたり、意味を知っていたりするかもしれません。

しかし、それだけでは「論語知らず」なのです。「論語知らず」が多いから、冒頭の言葉がよく言われるのです。

では「論語を知る」にはどのようにすればいいのでしょうか。

私も「『論語』っていいことが書いてあるから読んだ方がいいんだ」などと思っていましたので、いくつかの解説書などを読んだことはあります。

よく教科書に載っている『論語』の文章として、「學びて時にこれを習う。亦た悦ばしからずや。」というのがあります。

こういった文章からは、「あー、やっぱり勉強したら復習することが昔から大事なんだなー」などと、現代勉強人っぽい解釈に感動したりしていました。

(この部についての興味深い解釈はP45に載っています)

しかし、この本ではそういった現代人に主眼を置いた解釈ではなく、古代の孔子やその門人、関係者、あるいは世界情勢を踏まえた解釈を展開しています。

そして何よりそこで大事にされているのは、「言葉」です。当時の漢字に立ち戻った解釈、著者の古典芸能をする立場からの思想、その他の幅広い思想を織り込んだ解釈が目白押しです。

以前も書きましたが、「古典」というのは、後のどんな世の中でも通用することが書いてあるから、「古典」として残るのだと思います。

逆にみれば、我々が「古典」を現代に通用させるためには「古典」をうまい切り口で解釈する必要があります。

勉強や礼儀が大事という教育をしている小中学校のうちは、「勉強と復習」「礼儀を大切に」という解釈も受けはいいかとは思います。

しかし、社会人や職人や、あるいは父母などなど様々な立場となったら、その自分の状況にとってこの「古典」はどのようなことを訴えるのだろうと、ちょっと見直してみることが良いと思います。

この本は、そんな「古典」の見直し方を示してくれる一冊です。

著者は以前にも『身体能力を高める「和の所作」』でご紹介した安田登氏です。音楽のいとうせいこう氏、宗教の釈撤宗氏、そしてテクノロジーのドミニク・チェン氏との対談形式となっております。

それぞれの音楽、宗教、テクノロジーといった切り口を、安田氏がうまく「論語」と織り交ぜて展開してくれます。

“論語について、なにかお薦めの本を“と言われたら、迷わず薦める一冊ですね。

いってみれば、無意識の強大な力を抑えようとしたのが「禮」で、それを解放しようとしたのが「樂」です。いまでも音楽は程度の差こそあれ、無意識に働きかけていますよね。

(P32)

見方を変えれば、強大な力を持つ異世界との間に一枚の壁を作って、対応していこうというのが「礼」であり、異世界に足を踏み入れて力を得ようというのが「楽」なのかもしれません。

異世界といっても、要するに自分の考えが及ばないところといったものでしょうか。これはもちろん、神や仏も含まれますし、日常的には上司や初対面の人なども当てはまります。

そういったいわば「得体の知れない相手」に対応する場合に必要なのが、「礼」というわけです。

「礼」をもって相手をすれば、まずいことは起こらないでしょう。神様でも、こわい上司や初対面の人が相手でも。

逆に、そういった相手と融合して、その強大な力をお借りしてしまおうというのが、「楽」なのだと思います。

音楽や芸術は、神や無意識の世界に足を踏み入れることにより、豊かなインスピレーションを含ませることができるでしょう。

また、とっつきにくい上司などと打ち解ける場合に、音楽や芸術などの趣味が合ったりすると、急進することがあります。これも「楽」の力による効果だと思います。急に卑近ですが。

行事や飲み会などで、打ち解けることもあります。あるいはそこにはちょっぴり、アルコールによる「楽」要素の向上が役に立っているのかもしれません。

そうなると、やはり「場を感知する能力」が枯れてきているのかなあ、というふうにおもったりするんです。

(P146)

言葉で説明しちゃうと平面的になってしまいます。立体的にというか、本当はもっと複雑な、さまざまなものが錯綜しちゃってわけのわからない状態に投げ出されて、そこで何かをつかんでいくことが古典芸能では大事です。

(P150)

敷かれたレールを示されて、これこれこの通りに進んで行ってください、というのが今の教育の流れだと思います。カリキュラムやシラバスなど。

まあ、最近では探求型学習など、学生の個人的な進め方での学習も推進されてきてはいますが。

カリキュラムに乗った教育は、必要なことを確実に身に付けさせるためには有用です。最低限のことは、そういった方法で身につけることが必要でしょう。

しかし、いざ実践の場、たとえば社会人になったり、研修医になったり、工房に配属されたり、弟子入りしたり、といった場面に突入しますと、レールははるか足下後方に霞むだけです。

そこからは、現実のなかで「場を感じる」ことや「様々なことが錯綜している状態」の中から、体験と反省を通じて学必要があります。

ここでは古典芸能の修得における、このような姿勢の大事さが述べられています。ある程度職業人として自立し、後世を育てる立場になっていく人は、みな同じだと思います。

だから、未来を考えられる人が先生であるというのも、AI(人工知能)のようにデータに基づいた予測結果を示してあげるのではなく、生徒の身体のなかで発酵がいずれ起こることを経験則としてしっているから、待ちながら見守ることができる人、というイメージが湧きますね。

(P171)

「発酵」なんてものは、まさに複雑系だと思います。発酵を利用して作る、たとえば日本酒にしても、原料としては大差がないのに、さまざまな味わいがあります。

この違いは、決して一つの発酵菌にのみ依存しているわけではなく、気温や水、容器、あるいはタイミングなど、さまざまな要素が関係しています。

人間の教育や、その成果もこの「発酵」と似た要素があるのではないでしょうか。

最初に書きました「學びて時にこれを習う。亦た悦ばしからずや。」という文章も、いわゆる「置き字」なんて扱われている「而」が、「魔術的な時間」であると安田氏は述べており、この時間が、学んだことの「発酵」に必要と思われます。

昨今ますます期待されているAIさんは、一生懸命データを入れてあげたり、自分で集めてもらったりして、たくさん集めたデータの組み合わせやなんやらからしか、答えを導くことができません。

それに比べて人間は、この「発酵」的な複雑怪奇な反応により、学んだことがそのまま身についたり、身につかなかったり、ときには素晴らしい方向に、ときにはあらぬ方向に進むのです。

これは教育の神髄を表しているかと思います。

教育では、必要なことは教える、ある程度詰め込むことも必要。しかし、その後は、ゆっくりと「発酵」するのを「待つ」ということも、大切なのではないでしょうか。

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切り口をうまくとると「すごい」反応が得られるものが、「古典」です。

今回の本では、『論語』という2500年前の古典を、音楽、宗教、テクノロジーという切り口で切ってみたところ、まさに現在を生きる我々に大変有意義な示唆を与えてくれる「すごい」反応が得られたわけです。

「切り口を作る」ということは「問いを作る」ということです。適切な「問い」を作ることにより「得体の知れないもの」の隠された輝きが見つかるのです。

切り口をうまくつけるには、諸哲学・思想に精通していて、うまく切ってくれる人も必要でしょう。著者の安田氏はそんな人物だと思います。

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