「抽象化」を使いこなして世界の見方を変える

2020年4月25日

具体と抽象 世界が変わって見える知性のしくみ 細谷功 dZERO

なんとなく、「具体的」というと分かりやすい印象を受け、「抽象的」というと分かりにくい印象を受けます。

たとえばAさんはおっとりした人だ、Bさんは厳しい感じだ、・・・と説明されるとすれば、個々の人間像が具体的に分かります。

それに対して抽象的に、人間とは、・・・などと説明されると、Aさん、Bさんについて、人間としての性質は分かるかもしれませんが、それぞれの個性については分かりません。

具体的な話の方が、物事を細部までとらえることができるような気がします。

一方、具体的な話をダラダラ並べても分かりにくいこともあります。抽象的に考えることで、全体像をつかむことができます。

たとえば、Cの感染症は発熱する、Dの感染症も発熱する、・・・という具体的な事柄から、「感染症というものは発熱する」という抽象化がなされます。

その概念を知ることによって、だれでも「感染症は発熱する」のだと知ることができます。そのうえで例外もありますが。

「具体」と「抽象」を自由に行ったり来たりすることができれば、「要するに、こういうこと」とまとめることができたり、「たとえば、これとか、あれ」と実例を出して説明することができます。

応用のきく概念にまとめたり、適切な例示や比喩を用いて分かりやすく説明したりすることができます。

「具体」と「抽象」は人間の思考過程の中で役に立つ道具であり、「具体」しか考える(?)ことのできない動物と人間とを区別する要素の一つだと思います。

著者はビジネスコンサルタントであり、ビジネスにおける問題解決や思考についての講演を精力的に行っており、多くの著書を出されています。

本の内容としては、具体と抽象を考える上での様々な要素が、マンガも交えて分かりやすく解説されています。サクサク読み進めることができます。

著者は、この本の目的は「抽象」という言葉に対して正当な評価を与えることだ、と述べています。

ぜひ、「抽象」を使いこなし、その力で自分の思考をダイナミックなものにしたいと思います。

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言葉と数を生み出すのに必要なのが、「複数のものをまとめて、一つのものとして扱う」という「抽象化」です。言い換えれば、抽象化を利用して人間が編み出したものの代表例が「数」と「言葉」です。(P19)

私たちが小学校から何年にもわたって学んできた「二大教科」は国語と数学(算数)です。これらはすなわち、言葉と数、要するに抽象化を学んでいるわけです。(P131)

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小学校から連綿と学んできた「国語」と「数学(算数)」は、実は「抽象化」の勉強であったのです。

人間の編み出した「抽象」の代表格である「言葉」と「数」を学び、人間と他の動物とを分ける重要な思考を身に付けていたわけです。

人間は、「抽象化」を身につけることによって、科学や文化を発展させてきました。

動物であれば、おなかがすいたときに目の前に果物があれば、パクリと食べて終了、果物がなければウロウロ探すでしょう。

しかし、人間の場合は「果物はどういう季節になるものだ」であるとか「果物は花が咲いた後にできる」などといったように、共通する性質を抽出し、生活に役立ててきました。

(ただし、最近のサル、イノシシやシカなどを見ると、「ヒトはエサをくれる」とか「ゴミ置き場には朝になると食べ物がある」など、結構抽象能力もあるのかもしれません。むしろ「学習」の域を出ないのかもしれませんが)

観察や観測により具体的な事例から抽象化し、共通の要素を取り出すことによって、科学は発展してきたのだと思います。

「数」の概念は古くから使われており、今では数学の世界という大きなパラレルワールドを形成して、その世界から我々の世界に役立つことを分け与えてくれています。

算数はともかく数学は実生活に直接役立たない気がするとしても、自動車が動いたり食べ物がスーパーで買えたりする裏で働き、役に立っているわけです。

「言葉」は、人間として生きていくうえで欠かせないものになっています。コミュニケーションの手段でありますし、文化の媒体となっています。

しかし、その「抽象度」が高いことによって、様々な解釈が生まれたり、誤解を与えたりといった面もあります。

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「大学における『一般教養』の教育が役に立つのか?」という議論も同様です。具体レベルで見れば、「哲学」や「古典」を学んでも「実践的でない」のは明白です。一般教養というのは「一般」教養というぐらいで一般性や抽象度の高い内容であり、これをさまざまな形で「具体化」できるかどうかは、抽象概念をどれだけ理解し、操れるかにかかっています。(P132)

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大学の教養教育では、各分野の専門研究をしている教官が、自分の研究を主軸にして講義を行うことが多くなっています。

そのため、「技術の哲学」であったり、「源氏物語を読む」であったりと、具体的と感じざるを得ないことが多いのも否めません。

医学生などにとっては、自分は「医学」を勉強するんですけど・・・、と思ってしまうこともあるでしょう。自然と、積極的に教養教育を受けようと思わなくなるかもしれません。

しかし、著者も言うようにこれらは「一般」教養として講義されており、「抽象化」してとらえるものと考えるべきです。(そのわりに講義の試験は具体的なことを答えさせたりして、困りますが)

「技術の哲学」であれば、「何年ごろ誰が何と言った、考えた」という具体的な話は置いておいて、「技術というものはこういうふうにとらえられ、考えられてきた」という、それこそ「抽象的」なところを捕まえられればいいのではないかと思います。

そして、自分が専攻する学問に身を投じたならば、その中で「技術」というものはどのように発展してきたか、今後はどうなるかなど具体的に考える一助になればいいのです。

「源氏物語」であれば、「何の巻では誰が誰と何をした」という具体的な話を覚えてもいいのですが、そこを「抽象化」して「こういう状態であれば、昔の人も今の人もこうなるよね」といった概念を感じるのです。

それをまた「具体化」して、自分の専攻する学問に応用すればいいのだと思います。(いや、私自身の学生時代にそこまでの見方で受講していませんでしたけどね)

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そういえば「歴史」の勉強もこういうものだと思います。年号と人物を覚えるだけではなく、抽象化して人間の行動や考え方を学ぶわけです。

自分の専攻に直接関係ない分野についての読書なども同様でしょう。

学問や思想に触れたら、その奥にある、もしかしたら自分にも役立つかもしれない概念を見通すことができれば、しめたものと思います。

そのために、「具体と抽象」という思考のツールが役に立つのです。

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