何のために勉強するのか、何のために学校に行くのか

2020年4月21日

勉強するのは何のため? 苫野一徳 日本評論社

「何のために勉強するの?」と、自分の子どもに聞かれたら、どう答えようかと思ってしまいます。小学校低学年のあたりはそうでもないかもしれませんが、高学年や中学、高校と内容も難しくなってくると、そう感じるかもしれません。

今のところ、まだそういった攻撃は見られませんが、ある程度こちらも準備しておく必要があります。聞かれたらビシッと答えられるように。

記憶は定かではありませんが、私自身も子供のころ、親に何のために勉強するのか聞いていたような気がします。

なんとなく、「“数学”なんて何のために勉強するの?」と親に聞いた記憶があります。親は、「数学的思考を身につけるためだ」とか何とか言っていたような気もします。

しかし、その「数学的思考」なるものが、どのようなものなのか、未だに分かりません。ある程度数学は中学高校と勉強してきたつもりですが。

まあ、身に付けた能力などというのは、ゲームの「スキル」とか「必殺技」のように外見に現れるような明確なものはほとんどなく、数値化されているものでもないので、本人には分からないのでしょう。なにかしら身についていることを願います。

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今回ご紹介する本は、まさしく題名そのものが『勉強するのは何のため?』です。この問いに対して教育の目的や教育の場である学校の役割などを、分かりやすく解説しています。

著者は哲学、教育学を専攻し、子どもの教育を中心に多数の著書を出しておられます。

親御さんや、こういった疑問を抱いている子どもや児童、学生諸君はもちろん、勉強や教育などに興味のある方には、ぜひ読んでいただきたい本です。

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それは<自由>になるためです。勉強するのは、最も根本的には<自由>になるためなのです。

できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感のこと。これが<自由>という言葉の意味です。(P70)

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著者は「勉強するのは<自由>になるためだ」と喝破します。

将来、いろいろなことに遭遇します。興味のないこともあれば、「これは!」と興味をそそられることもあります。

たとえば、自分の興味と合っていそうな学問であったり、自分の能力が発揮できそうな職業であったり。

どんなことに出会って、ふと自分がそれに関わりたい、やってみたいと思ったときに、ある程度自分の中に知識や経験がないと、できるかできないかも分かりません。

たとえば、四則演算もできず、漢字も読めないのでは、現在の日本においてはかなり人生における生活が限られます。

そうならないように、「自由」に出会った相手と付き合えるようにする。そして、自分が「生きたいように生きられているという実感」をもって、人生を進めていくことができるようにする。これが勉強や教育の大きな目的でしょう。

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学校

最も根本的には、生徒たちが<自由>になるための、つまり自分なりの「生きたいように生きたい」を叶えられるようになるための、「学ぶ力」をはぐくむことにあるのだと。(P101)

<自由>になるための最大の条件、それは、さまざまな知識や技能を身につけるだけでなく、<自由の相互承認>の原理をちゃんと理解し、その“感度”を身につけることにあるのです。“感度”を身につけるとは、つまり、頭だけじゃなくいわば感性に刻み込むということです。(P118)

では、<相互承認>の感度はどうすればはぐくまれるものなのでしょう?

それは最も根本的には、生活を通して、つまり実際の人間関係を通してはぐくまれるものです。(P138)

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学校とはなにか。勉強する場であるだけなのでしょうか。知識を得るだけであれば、ネットで講義を受けたり、自宅で問題集を解いたりするだけでも、身につけることは可能でしょう。

近頃、新型コロナウイルス感染症の影響で、大学での講義もネット講義になっています。

そうでなくても、最近は通信制教育の大学などネット上で講義を受け、レポートを提出するなどして単位を修得し卒業するという形式もあるようです。

もちろん、勤労の事情などでそのほうが都合の良い場合もあるかとは思います。

しかし、大学にしても、ここで述べられている小中学校などにしても、「学校」という場に集まるという点も、学校がある意味の一つではないかと思います。

学校という場は、単に勉学を学ぶだけではなく、そこに集まった同級生や先輩、後輩、教諭、指導教官、事務員、あるいは掃除のおばちゃんなどなど、さまざまな人間関係が生まれる場でもあります。

その人間関係から学ぶことが、とても多いのではないでしょうか。

ここで著者が述べる<自由の相互承認>というのも、そういった人間関係からしか学ぶことができないものだと思います。

また、この知識偏重が問題となる社会において、今後重要なのは知識を使いこなすことです。知恵です。

知恵を得るためには、「人間心理の洞察」「人を思う心」などなど、つまり人間学が重要であり、そういった要素は、いわゆる「道徳」の授業のように学校で学問として勉強するものではなく、学校での人間関係から学ぶところが多いのではないでしょうか。

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でも、学校における体罰は、原理的にいってダメなのです。教師による体罰や暴力は、それが正当防衛など特殊な場合を除いて、けっして許されません。

なぜでしょうか?

それは、何度もいってきたように、学校が<自由の相互承認>の土台だからです。子どもたちに、<自由の相互承認>の感度をはぐくむ場所だからです。(P178)

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いじめや体罰も、現代の学校の大きな問題となっています。

口で言って聞かせなければなりません。学校は、(暴力ではなく)知識や知恵を駆使していけば、この世界はやっていくことができますよ、ということを教える場なのです。

知識や知恵を駆使して生きていく皆は、お互いを認め合い、信頼し合えます。そこに「暴力」を駆使して生きていこうとする人間が入ってくると、それまでの教育に矛盾を来し、成り立たなくなってしまいます。

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考えてみれば、「勉強するのは何のため?」という問いも、よくある「答えのない問い」なのでしょう。

そんな疑問を抱きつつも、各自が社会に出て、職場なり大学なりで色々なことを始めます。その新たに始めた仕事や勉強を切り口に、かつて感じたこの「答えのない問い」を振り返ることが、ときにあるのではないでしょうか。

そうすると、これまで小中学校、あるいは高等学校で勉強してきたことが、役に立つ内容もあれば、そうでもないものもあるというものではないでしょうか。

また、本人は実感していなくても、どこかで影ながら役に立っているのかもしれません。

もちろん、実質的に全てが役に立つことなんてないでしょう。読書にしても、本の内容がすべて有益なことは少なく、数カ所でも一カ所でもキラリと輝く部分に巡り会えたら、その本との出会いに意味があります。

また、勉強で得た知識自体はほとんど役に立たなくても、学校生活を楽しく過ごした経験や、楽しくなく過ごした経験もまた、学校に通って勉学したことの意味ではないでしょうか。

それこそ、著者の「人間関係を通して育むもの」ではないかと思います。

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