愛読の方法 前田英樹 ちくま新書
今回は多々ある読書法のなかでも、「愛読」についてご紹介いたします。
多読を勧める本も数多くあり、多読もたしかにメリットがあります。私もどちらかというと多読派だと思います。
でもときどき、出会っては過ぎ去っていく本たちに、「本当にこれでいいのか」と感じることもあります。もう少しゆっくり大切に読んでもいいのではないか、と。
たしかに本によっては内容が薄く、あっというまに読んでそれで完了でいいと思うものもあります。また、文章の「クセ」があわず、なかなか読みにくいものもあります。
しかし、みなさんも多く読むにしてもそうでないにしても、読もうと思って手にした本は、良い本はないかと調べて、レビューや書評なんか読んでみたりして、思い切って買ってみた(あるいは借りた)本であるわけです。
そうであればこそ、著者がその著作で言いたかったことをしっかり受け止めたいし、小説であればその逸話を自分の人生の糧にしたいでしょう。
そんなみなさんに本日ご紹介するのが、この『愛読の方法』という一冊です。
著者の前田英樹氏は批評家であり、哲学など人文関係の著作を数多く出されています。この本の他には『独学の精神』、『倫理という力』も読ませていただきましたが、どちらもお薦めです。
大切な本を「愛読」するとは、どういうことなのでしょうか。自分の人生に寄り添う「愛読書」を見つけるため、ぜひ読んでみてください。
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そういうわけで、私たちが恐るべき「文字禍」から救われる道は、愛読という行為にある。私心を交えない一途な愛読に。人をへこませるために、あるいは、自分を偉い者だと世間で偽るために、本を読んでいる愛読者はいない。愛読という行為の前では、そういった世間はほとんど消えると言ってもいいのだ。(P48)
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人をへこませるような読書。自分の読んだ本の数を自慢し、一覧なんかにしていて、それをやたらと見せたがる人などいるかもしれません。
また、たくさん本を読んでいることが偉いことだと世間に誇示する人もいるかもしれません。
そういった読書は、本の方もかわいそうです。本の知識は実践されてこそ、知恵として活かされます。活かされなければ、単なる物知りになるだけです。
そうではなく、著者の提唱する「愛読」という読み方をしてあげると、数はこなせなくても、生きた知恵がわれわれにしみこんでくるのです。
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私なんかは、むしろ読書ばかりしていることは、あまり自慢にもならないと思う節もあります。かえって、「本ばかり読んでないで仕事しろー」と言われそうで。
一応、読書記録は一覧としてエクセル表に作ってあり、購入した日付、タイトルと著者、読了した日付と、とりあえずの評価を☆の数で(最近は色がついたりして、自分でも分かりにくい)、記録しています。
月別の簡単な統計もとって読了率など表示していますが、まあほとんど自己満足のような世界です。
人に見せるような代物でもないと思いますし、見せたところで驚かれるかもしれませんが、呆れられるような気がします。なかなか共感してくれる人はいないでしょう。サラッと見せたことがあるのは、一人だけですね。
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しかし、当然ながら、選んだ後には、その読み方が、コツというものがある。コツはただひとつ、固定されて動かない文字の形に目を向けないことだ。絶えず、文字を通して、文字の向こう側へと飛び込んでみることだ。(P90)
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読書は、文字を媒体として、その奥にある著者の思想を汲み取るという行為だと思います。歌や楽曲は音を、絵画や写真は構成や被写体、色などを媒体に、作曲者や歌い手、作者の思想を読み取ったり、感じたりするのと同じわけです。
そのためには、コツがあるといいます。これは、本の著者によっても感じられる「クセ」のようなものでしょうか。
みなさんも本を読んでいると感じると思いますが、その著者ごとに文体や句読点の打ち方、改行のしかたや漢字の使い方などから生じる、文章の「クセ」のようなものがあると思います。
その「クセ」を早めに読み取って、それに乗っかって読み進めていくのが、その文章の「コツ」をつかむ第一歩かと思います。
ある程度、文字の流れ方に慣れたら、その流れの奥、あるいは深淵に潜む思想が見えてくるのではないでしょうか。
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何の苦労もなしに、すらすら読める本は、情報や娯楽として消費されれば、そこで捨てられる。紙屑が捨てられるのと何ら変わりがない。簡単には読めないが、惹かれてやまない本だけが、いつまでも取っておかれて、繰り返し読まれる。(P191)
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最近のビジネス書、自己啓発書については、それらを多読することにより、大まかな人間学や生き方の要諦を学ぶことができるかもしれません。
しかし、量産される現代のビジネス書や自己啓発書の内容は、はるか昔に、別な人がすでに「古典」で言っていることですよ、というものが多いのではないかと感じます。
たとえば、ビジネスや自己啓発のノウハウについては『論語』や『四書五経』といった中国古典で(直接的ではないかもしれませんが)書かれていたり、人間の生き方の機微についてはギリシア悲劇やゲーテの作品などに書かれてあったりするものです。
いわゆる「古典」に限らず、近現代でも立派な思想家、経営者などが文章を残しておいてくださっております。
たとえば森信三先生の著作を一冊読んだり、松下幸之助さんや稲森和夫さんの著作を読んだりすると、1,500円前後のビジネス書5, 6冊分、ときには10冊分以上の勉強ができることもあると思います。
とくに「古典」はたとえ話が多かったりして、言いたいことがストレートに書かれていないことも多く、簡単には読み込めないものが多いのも事実です。
(私の文章は逆にたとえ話が少なくて分かりにくいのが問題です。修業します)
それでも、自分がなんとなく魅力を感じるのであれば、時間をかけて読み込んだり(回り道も含めて)、あるいは繰り返し読んだりする「愛読」の対象となりましょう。
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書物がこうした伝承を引き受けてくれる時、私たちが持ちうる縦のつながりは、限りなく富んだものになる。私たちひとりひとりの自己発見は、人類に与えられた魂の持続と創造とに、そのまま溶け込んでいけるものになる。この意味で、信じてやまない愛読書を独り持つとは、人類の魂を継ぐ行為なのである。(P205)
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『魂の燃焼』のご紹介でも書きましたが、「縦の拡がり」が大事です。どうしても知識や情報、雑多な人間関係といった「横の関係」を求めてしまい、多くなってしまう今日この頃です。
知識を集め、情報を集め、人間関係が数多いほど、たしかにそういう面もありますが、人生はなんとかなると考えてしまいがちです。
読書は一種の「瞑想」であり、文字を通して著者の思想に触れるとともに、自分の思想も深めていけるものだと思います。
自分の思想の深まりは、もちろん著者の思想を取り込むことにもよります。ただ、それだけではなく、著者の考え方や哲学、あるいは小説においては他人の人生経験が、自分の考え方や思想を触媒し、深さを与えてくれるわけです。
そして、「愛読」する本を持つことが、自分の思想とその本の思想を照らし合わせることにより、ときには助言を得られ、ときには直観の元となり、人生を豊かにするのではないでしょうか。
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本については、かなり読んできたつもりですが、自分には今のところ「愛読」する本は見つかっていない気がします。
ただ、最近の読書記録を見ていると、高評価を示す☆の数は以前より平均的に増えていると思います。
この原因としては、①以前より“良い“本を選べるようになった、②本を”読みこむ”ことが以前よりできるようになった、③評価が甘くなった? などが考察されます。
③はともかく、①、②はあるのではないかと思いますので、このまま行けばいずれ自分にも「愛読」する本との出会いがあるのではないかと思います。
(今時点での候補としては、修身教授録(森信三)、善の研究(西田幾多郎)あたりでしょうか。読書記録を見返してみると、「あつ!これも良い、あれも良い」となってしまいます)