祖国とは国語 藤原正彦 新潮文庫
著者の藤原正彦氏は数学者である。数学者というのは、私の子どものころの印象では、“冷たい”雰囲気で日々数式を相手にしている人という感じがしていた。
しかし、たいていの子どものことの印象というのは物事の一面しか見ていないわけである。
著者は数学の業績のみならず、世の中や日本人に対するご自身の思いを含め、独自の随筆スタイルで様々なエッセイを世に出されている、“熱い”人である。他の作品を読んでも感じるが、論理的かつ流れるようなストーリー展開で思わず読み進めてしまう。
とくに『国家の品格』や『日本人の矜持』など、読んでいると「日本人でよかったな~、よし、がんばろう!」と感じる作品が多い。
今回ご紹介する本は、そんな著者のエッセイ集である。冒頭の「国語教育絶対論」以外にもご自身の家族について書かれた作品や、出生地である満州の話などが載せられている。
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冒頭の「国語教育絶対論」では、著者はとくに国語教育が日本再生のポイントであり、国語は「知的活動の基礎」「論理的思考を育成」「情緒を培う」といった絶対的な特徴があると喝破する。
「国語」という教科は小学校、中学校の義務教育から高等学校においても存在する教科であり、主に仮名や漢字の修得、文法や読解力、作文などについての知識とスキルをつけるような教科と感じる。
そういった風に、われわれ日本人が「英語」を習うような感覚で自国の「国語」を勉強していたような気がする。それに伴い、もちろん漢字や文法を覚えることは必要であるが、なぜ日常使っている言語をあらためて「教科」として勉強しなければならないの?という疑問を抱いたこともある。
しかし、著者は述べる。国語こそが、人間として必要な知的活動、論理思考、情緒を生み出し、祖国愛をもって真の国際人となる教育を成し遂げるものだと。
数学、理科、英語、社会といった教科は、かなり暗記が大きなウエイトを占めると思う。国語にしても漢字など、記憶力がものをいう場合もある。
しかし、「国語」という教科はわれわれが人間らしく生きていくために絶対に必要なものだよ、と自分の子どもに言えるように、子をもつ親御さんはもちろん読んでいただきたい。
いや、それだけではなくこれから家族を築き上げていくだろう人も、あるいは社会の中の自分の立場が気になる人、国際人として海外へ、あるいは世の中に大きく漕ぎ出していこうという人には(要するにほとんどすべての皆さん)、ぜひ読んでいただきたい一冊である。
日本人にとって、語彙を身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙の半分以上は漢字だからである。これには小学生の頃がもっとも適している。記憶力が最高で、退屈な暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さず、叩き込まなくてはならない。強制でいっこうに構わない。(P16)
ここでは、理論物理学者の湯川秀樹博士が、幼少の頃からわけも分からず『四書五経』の素読をさせられたエピソードも挙げられている。博士はそのために漢字が怖くなくなって、読書が好きになったのかもしれないとおっしゃっていたらしい。
漢文素読とまでは行かなくても、やはり読書は必要である。なにも漢字や文章の勉強のためだけではない。後で出てくるが、論理の通し方、高次の情緒、そして日本人としてのアイデンティティー確立のためにも、国語に親しみ、読書を重ねることが重要だ。
最近は”ゆとり教育”の反省もいわれている。やはり“詰め込み“とまではいかないまでも、ある程度カタにはめた教育も必要なのである。
以前、『心の教育』のご紹介でも書いたが、とくに幼少期や小学生の時期が“しつけ”や“人間づくり”に重要であり、それには「臨界期」があると言う。そういった能力を身に付かせるのにふさわしい時期がある。
著者も小学生の時分が、暗記を中心とした教育を叩き込むことが必要と述べている。記憶力や素直に物事を吸収することの「臨界期」というわけだ。
そして、「子供がかわいそう」だとか「ゆとり」だとかいって、そういう時期に必要な教育をさせないのも、教師や親の怠慢であるということになる。
現実世界の論理とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の習得が大切ということになる。
これは国語を通して学ぶのがよい。物事を主張させることである。書いて主張させたり、討論で主張させることがもっとも効果的であろう。(P20)
論理は無味乾燥であり、かえって論理を突きつけられると、(正論だとしても)反感を覚えることも多い。それよりも、相手の立場や境遇なども鑑み、説得力を持たせた表現が効果的なのだろう。
実際、相談の場などで論理の正しさよりも、その人の人となりや心意気に惹かれて納得することも多いと思う(論理が間違っていては元も子もないが)。
人となりや心意気だけでもいけない。「筋」が通っている必要がある。筋とは、話の一貫性があるかどうか、しっくり腑に落ちるかどうかということ。つまり、ストーリーの問題である。
たとえ論理の因果関係としては途中でひん曲がってしまったとしても、「そこはこういう考えで変えた」とか、「こういう気持ちでこうした」とか、自分が心からそう思っていて、相手に通じるところがあればいいのだ。
自分や相手はAと思っても、論理で考えてBとするのは、論理が通っていても筋が通っていない気がする。たとえば、治療方針について先輩に聞いて、Aをしようと言われて自分も納得したのだが、教科書にはBと書いてあるからBにした、など。
そこは、持ち帰って先輩に「Bと書いてありましたがどうでしょうか」などと聞いて、了解を得てから(反発を得るかもしれないが)Bにするのが「筋」というものである。他にもいろいろな「筋」があると思う。なかなか難しい。
その自分の考えを主張すると言う点で、著者は国語教育が重要だと述べる。その内容としても、自分の意見を書くことや、討論の場などで発表することである。最近は少し増えてきたかもしれないが、従来の国語教育では乏しい分野だったかもしれない。
高次の情緒とは何か。それは生得的にある情緒ではなく、教育により育まれ磨かれる情緒と言っても良い。たとえば自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが、他人の悲しみを悲しむ、というのは高次の情緒である。
「高次の情緒」として、さまざまなものが挙げられている。
たとえば、「他人の不幸に対する感受性」。相手の悲しみを、自分も共感して悲しむことができるか。これは、国語教育により様々な文章作品に触れることでも、あるいは絵本の読み聞かせや読書からも得ることが可能な情緒ではないか。
昔の教科書に出ていた『ごんぎつね』だとか、絵本や紙芝居などで聞かせられた『おこんじょうるり』などは、たしかに登場人物の心情を分かることができ、自分も一緒に悲しむことができたと思う。
「なつかしさ」。これはどこからくるか。時間をおいて再訪した場所、時間をおいて再開した友人や家族などに感じることが多い。
時間をおいて少し角がとれた記憶や思い出と、外見上はあまり以前と変わらない対象、相手とのギャップからくるものなのだろうか。
ある事柄がきっかけとなって、栞のように思い出が引き出されるとき、人はなつかしさを感じるのかもしれない。たとえば、ある音楽を聴くと高校生活の日々が思い出されるなど。
「もののあはれ」や「わびさび」。これらは、日本文化の特徴の一つとされる。こういったはかなさや不安定さからくるような情緒は、季節による気候の変動が大きく、台風や地震など災害の多い日本だからこそ生まれた情緒であろう。
昔の物語はもちろん、現代の小説や物語にしてもちょっとグッとくるものは、こういった情緒がうまく盛り込まれているのではないかと思う。
祖国とは国語である。ユダヤ民族は二千年以上も流浪しながら、ユダヤ教とともにヘブライ語やイディッシュ語を失わなかったから、二十世紀になって再び建国することができた。(P29)
言語を損なわれた民族がいかに傷つくかは、琉球やアイヌを見れば明らかである。
祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。(P30)
ユダヤ民族は聖書時代から流浪を続け、祖国を持たなかったが、世界各地で活躍しながら現在まで存続することができている。
これは、祖国という土地や領土が必要なのではなく、ある民族にとって本当に必要な物が国語であるということを示している。
民族としての普遍的無意識なんかもあるのだろうが、国語がもたらす心通わせる言語表現やコミュニケーション、「あれはこうだよねー」と共通理解できる考え方、が民族の強いつながりに必要なのだろう。
そういった事柄を身につけることができるのが、まさに国語教育なのである。なにも文字や文法、読解力や作文力だけではないのだ。
国の単位で言えば、アイデンティティーとは祖国であり、祖国愛である。祖国愛は(四)でも登場したが、それは祖国の分化、伝統、自然などをこよなく愛すという意味である。(P31)
祖国愛は国際人となるための障害と考える向きもあるが、誤解である。国際社会はオーケストラのごときものである。オーケストラに「チェロとビオラとバイオリンを混ぜた音を出す楽器で参加したい」と言っても、拒否されるだけである。オーケストラはそのような音を必要としていない。
国際社会では、日本人としてのルーツをしっかり備えている日本人が、もっとも輝き、歓迎されるのである。根無し草はだめである。(P32)
インターナショナルとかグローバルとか、いろいろなカタカナ言葉が飛び交っており、だれもが国際人としてふるまうことを考えなければいけない風潮のように感じる。
そういう中で、「英会話を勉強しよう」とか「諸外国の歴史や文化」を勉強しよう、というのもいいのだが、真の国際人とは”自国の通”でなければならない。他国の通ではなく。
国際間で協調するためには、それぞれの人が自分の、自国の良いところを持ち寄って、それらを見せ合ったり補ったりしながら進めていく必要があるだろう。
そして単に祖国についての知識があるだけではなく、「祖国愛」という知識を裏打ちする人間性によって知識が知恵として活きる状態が望ましい。
知識があるだけではなく、それに基づいた行動ができることである。たとえば外国人(同国人でもよいが)を家に招くとき、茶席のように一輪の花を活けて、もてなしの心や季節感をもたらすように。
そのためには、まず自国のことを、歴史や地理、文化もそうであるが、国語もしっかり勉強する。そして教養的な知識だけではなく、日本人としての考え方、感じ方、気持ちの使い方といったところを身につけて、国際社会で輝くことが望ましいと思う。