友情について考える

2020年3月14日

大人の友情 河合隼雄 朝日文庫

河合隼雄氏は日本を代表する臨床心理学者であり、ユング心理学研究の大家であります。

カウンセリングや心理学の著書はもちろん、ユング心理学と神話や昔話、仏教とのかかわりなどについて考察した幅広い著書をお持ちです。

今回は、そんな著者による「友情」について、とくに「大人の」友情について書かれた一冊を紹介いたします。

友情とは何か、どのような要素があるのかといった考察を、自身の経験や心理学を切り口に進められています。

「友情」ってなんだろう。今のアイツとの人間関係はどうだろう。そして「愛情」とは、などと考えてしまうことがある方は、ぜひお読みください。

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それらに疲れるのではなく、多様性を楽しむことができるようになるためには、それぞれのつきあいの距離を上手にとってゆく必要がある。それらのなかで、お互いの距離についての調節や操作にそれほど気をつかうことなく、相手と共にいる、あるいは、「あの人がいる」と思うだけで、ほっとできるような関係がひとつでもあれば、その他のつきあいは楽になるだろう。そして、そのような関係こそ友情と言えるものの根本ではなかろうか。(P105)

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自分をとりまく人間関係の中には、様々な人間が含まれています。自分と毎日会うような、たとえば職場の同僚であったり、週に1回会う習い事の先生であったり、あるいは年に数回しか会わない実家の両親だったりと。

会う頻度も違えば、それぞれとの「つきあいの距離」というのも違います。また、一度会った時の濃さというか、密度も違うでしょう。

そういった中で、「友情」という関係はどういう位置にあるのか。著者は「距離に気をつかわず」、「『あの人がいる』と思うだけでほっとできる」関係といいます。

確かに、存在そのものを自覚することで、勇気づけられたり励まされたりする存在というのはいいものです。離れていても、「実家の両親はいつも励ましてくれる」と思うこともあります。

肉親関係でなくても、「アイツなら今の俺の気持ちを分かってくれるだろう」、「アイツもがんばっているから、自分もがんばろう」などと感じられる相手が、「友情」の関係といえるのでしょう。

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どんなに立派な人、人格高潔な人も心のどこかには陰がある。ただ、それとどのような形で生きてゆくか、というところに難しい問題がある。陰があるのは残念だし、悪は許容し難い。しかし、それによって人を全面拒否するのはおかしい。人生の、友情の味にはほろ苦さが混ざっている。(P120)

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日頃、立派な話をしていても、どんな人には陰があります。暗い過去であったり、人には言えない秘密であったり。

私もこういったブログで人間学だとか道徳だとか、ご立派に語っているようですが、「じゃあ自分はどうなの?」と人に言われると、ここで言っているようなことができているわけでもありません。

それに、私自身もあまり人に言えないような過去があり、秘密がありますし、あなたもそうでしょう。どんな人でもそうです。

そういった「陰」の部分を打ち明けてお互い理解し合って、というのは理想です。しかし、かならずしも理解できるとは限りませんし、言えない陰はあるものです。

むしろ、人間なんてそんなものだととらえて、陰はあるものだととらえて、その苦みも含めてつきあっていける相手が、「友情」の関係なのです。サンマも少しの苦みがあるほうが味わい深いように(今の季節ならフキノトウでしょうか)。

もちろん、悪いことをしてはいけません。

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友情が強くなると、同一視や理想化が強まる。「あんな素晴らしい人と同じようになりたい」だけでは危険である。人間は決して完全ではない。友人の欠点に驚くようなこともある。「裏切られた」と言いたいときもある。そんなときに、自分を人間としてよく見ると、まずまず似たような者であるし、そうでありながら、お互いに異なるよさをもっていることもわかる。常に裏切りの可能性をもつ関係も認めた上で、「やっぱり、ええやつやな」と感じるのが深い友情ではなかろうか。友情の強さよりも深さの方に注目することで、裏切りの悲劇は回避されるだろう。(P135)

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愛の要素はいろいろあるでしょうが、その一つに相手に自分が持っていない美点を見つけ、それに憧れるという要素もあると思います。

「友情」として相手をみるときも、そういった要素は存在すると思います。たとえば、「自分はあまりしゃべらないほうだが、アイツは自分の思うところをどんどん出せていいなあ」だとか、反対に「自分はあまり考えずにしゃべりすぎるほうだから、アイツのようにもう少し考えてからビシッと発言できるようにしたいなあ」だとか。

そういう美点を見習って、お互いを高めあうことも、「友情」という関係の良い点だと思います。

また、「友情」と「恋愛」の線引きについて議論されることがときどきありますが、「友情」のうちで上記のような要素が強まったものが「恋愛」となるのでしょうか。

しかし一方では、相手の欠点が目に付くこともあります。さきほども述べたように「陰」が分かったり感じられたり、自分の考え方とは相容れない考えや行動をされることもあります。

ここで著者は友情の「強さ」と「深さ」という要素を述べています。

友情の「強さ」は「外的な困難に対しての強さ」かもしれません。強い友情というのは、「どんなことが起っても切れないよ」というような友情だと思います。

たとえば困難な課題を手伝ってくれるだとか、

そして、友情の「深さ」は、「内的な困難に対しての強さ」かもしれません。深い友情というのは、それぞれの人間の内にある、もしくは生じた困難、たとえば陰であるとか悪であるとか、に対する強さのある友情だと思います。

たとえば、相手が悪事を働いてしまった。「裏切られた」と思うかもしれません。もちろん悪を許容するわけにはいきませんが、自分もそういう可能性はあるわけだし、関係を断ってしまうのではなく、維持するわけです。

「お前がどんなやつでも大丈夫だよ」というような。ときには「裏切り」をも抱擁するようなものだと思います。

「強さ」「深さ」と、言葉の問題なのかもしれませんが、友情には、自分の立ち位置から周囲を眺めた時の「広さ」「深さ」のような二要素があると思います。

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非常に割り切った言い方をすると、類似性の高さは関係の維持に役立ち、相反性の高さは、関係の発展のために役立つ、ということになるだろう。(P146)

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友情の要素として、性格や考え方などが似ていて気が合うという類似性の高さ、そして性格や考え方に似ていないところがあるという相反性の高さという二つが述べられています。

類似性は仲良くやっていくには話も合って良いのでしょうが、なあなあな関係で発展性がないこともあります。

一方、相反性は、ときにはぶつかることもあるでしょうが、反省などを踏まえて弁証的に自分も相手も少し高いところに移動することができるのだと思います。

ほとんど前者の要素のみで保っている「友情」が多いと思いますが、後者の要素もぜひ欲しいものです。

昔から「ケンカするほど仲が良い」と言われています。「仲の良さが高度だからケンカをする」ということではなく、「ケンカをするほどの『良い仲(関係性)』だね」、という解釈かもしれません。

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贈りものをもらって、それに感謝しつつ、「物」で返さないのは、その分だけ「心」の関係を維持することになる。友人間の一心同体関係を強調するとなると、返す返さないなどは意味を持たない。(P178)

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友情のなかには様々な形で贈与があると思います。たとえば、手助けであったり、贈り物であったり、金銭的に弱いときにはごちそうしてあげたり。

「情けはひとのためならず」ではありませんが、贈与はかならずしもgiveのみではなく、贈った方にも「贈った」という感覚が得られると思います。

感情から行動が生まれることもありますが、意外と行動から感情も生まれるものです。

我々は他人に贈与することによって、自分の他人に対する気持ちを維持しようとしているのかもしれません。

好意であるとか、友情を維持するために、自分の気持ちを保つために(こう言うと切羽詰まった感じでイヤですが)、多少お金の減りはあるでしょうが、相手に何か贈与することによって関係を維持しようとする気持ちは続けることができると思います。

また、贈与の経時的平行移動というのもあると思います。経時的平行移動という言葉は、たった今私がここで作った言葉ですが、もっといい表現が世の中にはあるのかもしれません。

つまり、たとえばあなたが居酒屋で後輩と飲んで、その勘定をおごったとする。それを後輩はあなたに何か(まず、お金ではないだろう。忠誠?信頼?そんなことしなくても結構です)で返すのかもしれない。

だが、そんな必要はないのです。その後輩もまた後輩にごちそうすればいいのです。

あなたも以前、上司や先輩にごちそうしてもらったことはあるでしょうから。そうやって全体の関係者としては貸借ゼロで成り立っていくのではないでしょうか。

年金制度もそんなものでしょう。後輩から先輩へというふうに、流れは逆かもしれませんが。今現在自分の払ったお金は将来自分に返ってくるのではなく今現在の先輩に使ってもらい、未来に自分が年取ったときは未来の後輩が払ってくれたお金を使わせてもらう。こういう流れかと思います。

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贈与という行動でつながりの感情が生まれ、維持されるということ。それは、親の子どもに対する愛情にも似ているかもしれません。

母親は子どもが愛しいから世話をするのではなく(それもありますが)、世話をするから愛しくなるということもあるのです。

聖書においてイエスは「愛は受けるより与える方が幸いです」とおっしゃっていました。他人から愛を受けるのは一時的で自分ではどうにもなりませんが、自分が他人に愛を与えることは、いつでもどこでも可能です。

そして他人に愛を与えることにより、自分も愛されるつながりが生じ、保たれるのです。パウロも「愛は与えるもの」といっていたような気がします。

仏教でいう慈悲も同様だと思います。

最後に、西田幾多郎の『善の研究』から引用します。

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次に何故に愛は主客合一であるかを話してみよう。我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花を一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。(『善の研究』 岩波文庫 P260)

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愛情の贈与は主客同一のいち方途かもしれません。お互いの間隙をなくする努力の一つが積極的な愛情の贈与なのかもしれません。

愛情を贈与することにより自分と相手は同一(主客同一、自他同一)となるくらいに愛することが可能となります。

また、「子の一利一害は親の利害、親の一喜一憂は子の一喜一憂」という関係は、愛情をお互いに与えあった人間関係の極みだと思います。

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贈与、giveはたんに自分から物やお金がでていくわけではありません。お金(経済)中心の等価交換社会で生きていると、なかなか分からない感覚かと思います。

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