怒らないこと アルボムッレ・スマナサーラ サンガ新書
職場に怒りやすい人がいたとします。たとえば上司。そこまで怒らなくてもと思います。なぜ怒るのでしょうか。怒っている人の前でこのように冷静に考えている雰囲気を出していると、さらに怒られると困るので、とりあえず神妙に聞いているふりをしたりします。
怒りの感情は、代表的な人間の4つの感情、すなわち喜怒哀楽の一つです。喜びや楽しみは人生にとって必須と思います。哀しみにしても、哀しみを抱くシチュエーションは人生に必ずありあす。老病死はだれにでも、どんな関係の人にも訪れます。そういったときには必要でしょう。
しかし、怒りは、もしかしたら無くても人生はやっていけるのではないかとも思います。
ではなぜ怒りを使うのでしょうか。一つは、伝えたいメッセージの強化だと思います。
あるメッセージ、例えば仕事で失敗したときに、次は失敗しないでねというメッセージ。例えば足を踏まれたときに、次は踏まないでねというメッセージ。例えばレストランのウェイターさんが注文を間違えた時、次は間違えないでねというメッセージ。例えば子供の成績が良くないとき、もっと勉強してねと言うメッセージ。
それらに、怒りの感情をプラスして相手にお伝えすると、「怒り」無しの場合よりも効果的に作用するかもしれません。
しかしどうでしょう。上記のようなメッセージは、まず「怒り」無しで伝えてみてもいいのではないでしょうか。何度もそうやってダメであれば、少しは語気を強めるなど「イカリ」をにおわせてもいいかもしれませんが、そもそも伝わらないのは伝え方に問題があったり、相手の受け取り方に問題があったり、あるいは事の重要性にたいする双方の認識が違うためと思います。
前置きが長くなりましたが、この本は往時、怒りの感情に触れることが多かったので、書店でめぐりあって読んでみたものです。
そして、私が仏教に興味を持つきっかけとなった本でもあります。
著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はスリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)の長老であります。だいぶ長く日本におられ、日本ではあまりなじみのない上座仏教を中心に伝道や瞑想指導などをされております。ネットなどでもお話を聞くことができるかもしれません。日本語も流暢で、やさしさの含まれた言葉遣いが心地よい語り口です。
氏はこの本の他にも、上座仏教の思想をもとにした様々な生き方論を講義、執筆しておられます。仏教というと仏教徒以外は葬式くらいのイメージしかないかもしれません。しかし、氏の著書からは、それだけではない生き方論としての仏教の考え方について、勉強することができます。
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「自分を直せば、怒りの感情を完璧に追い払ってしまい、愛情の感情、あるいは幸福の感情だけで生きられる。その可能性が十分ある」(P32)
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感情はコントロールするものです。コントロールというと偉そうですが、感情に振り回されないようにすることが、自身の消耗を防ぎ、気持ちよく生きるコツかと思います。
「他人が悪いから怒るのだ」などと言ってないで、怒るのは勝手ですが、まずは自分の感情がどういう状態でいるのか、把握することからです。
また、「相手が悪い、自分は正しい」という考えも怒りに結びつきます。本当に自分は全て正しいのでしょうか。世の中なかなかそんなことはないと思います。
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「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世(スマナサーラ注・この世とあの世、いわゆる輪廻のこと)とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫より)(P119)
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怒ったら、怒らないこと
怒りは毒です。相手にも毒性を発揮しますが、自分にも毒性を及ぼします。第一、怒って気持ちがよくなることは、無いです。気持ちが悪くなるだけです。
ではどうするか。怒りの感情が出たら、「あっ、怒りだ」とかなんとか自分で認識して、蛇が脱皮するように捨ててしまうのです。
上掲した他に引用として、怒りのコントロールを馬車の手綱とりにたとえた文章があります。怒りをコントロールできない人は、手綱をとらずに馬車に乗っているようなものだというわけです。危ない。
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話は聞いてあげても、相手の怒りを感情的に引き受けて気落ちする必要はまったくありません。その人は、自分のからだに溜まったゴミを外に出しているだけなのですから、わざわざ自分がゴミ箱になる必要はありません。(P198)
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そうです。相手はあるメッセージを伝えたいだけなのに、何を思ったか「怒り」というゴミをつけてくださっているのです。
ここはひとつ、相手の伝えようとしているメッセージ(これは相手もどうしても伝えたいわけですから、少しは自分の身になる成分もあると思います)は、有難く受け取って、同時に抱き合わせの「怒り」というゴミは、結構です、とするとよいのです。
一番よくないのは、その「怒り」を真にうけて不調を来すこともそうですが、他人にその「怒り」を投げ渡すような行動です。上司に怒られたから、その言わばはらいせに部下にやつあたりするとか。みんな不幸になります。
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自分のなかに自然に湧いてくるような「怒り」も、なにか理由があってのことです。もう少し何とかできるのではないかという、自分に対するもどかしさなど。
楽天的に生きようというわけではありませんが、生き方にとってマイナス因子の代表格である「怒り」は、ぜひコントロールできるようになりたいものです。
また、感情に訴えない強いメッセージは指導などに必要であり、これはいわゆる「叱る」ということになるでしょう。部下の指導にあたっては、「怒り」ではなく上手に「叱る」ことができるようになりたいものです。
(引用は、サンガ新書版によります)