「知識」の調理

2020年3月4日

本などから得られる知識や情報は「素材」であり、その内容の生かし方は読者がどのように「調理」をして「料理」に仕上げるかによる。

たとえば、ジャガイモやニンジンや肉などの「素材」に当たる。素材を切ったり、刻んだり、あるいは熱を通したりと「加工」する。塩やコショウやカレー粉などを加えることもして、カレーライスという「料理」が仕上がる。

敷衍すれば、本は「知識」という素材を我々に与えてくれて、それを「知恵」という料理に仕上げるわけである。

では、素材を料理に仕上げる要素、つまり切ったり刻んだりする素材の「加工」や塩やコショウといった「調味料」、あるいは「熱」は何に当たるだろうか。

つまり、「知識」を「知恵」に昇華してくれるものはなにか。

加工については、知識の解釈や整理、分かりやすく言い換えることなどにあたるか。得られた知識を理解すること、分類したり、他の知識との関連性などからまとめてみたりすることだろう。そして、それを実際に行動に移すこと、実践である。

調味料は以前も述べたように西田幾多郎のいう「善」であったり、森信三のいう「人間心理の洞察」、あるいは「人を思う心」であったりするわけである。つまり人間学である。

では、熱は何か。これは「感情」があたるかもしれない。とくに「知識」を「知恵」としてうまく使っていこうという「情熱」は、得られた「知識」という素材を、まるでニンジンが火を通すと甘くなるように、変化させてくれるだろう。

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この「知識」から「知恵」への料理法、または世の中に偏在する出来事、困ったことをどう料理するかというのを人々が考えてきたのが、「哲学」ではないか。

古来、様々な哲学者は、出来事をどう調理し、どう盛り付ければ、美味しく受け入れることができるかを考えてきたと思う。

その調理法が、様々な哲学思想であり、思想体系はいわばレシピ集といったところか。

食物は身体の栄養であるのに対して、読書は精神・心の栄養という。そして、食べ過ぎや偏食が身体に良くないのと同様、「知識」という栄養を含む素材をただ取り入れるだけでは、栄養過多や栄養の偏りを生じる。ある種のビタミンなどのように、過剰に摂取してもただ排泄されるだけの場合もある。

本を読んで知識を増やしても、知識をため込むだけの知識肥満になることや知識の偏り、入れるそばから出ていくだけではもったいない。

ときどきは、読書したことについて考えてみたり、書評を書いてみたり、実践してみたり、人と話してみたりするという「調理」も必要である。

そうすることにより、知識は「調理」され、十分「消化吸収」され、「知恵」となって精神・心と身体の一部となる。

そのためには、素材である「知識」を取り込むことも必要だが、それを調理して「知恵」とするための考え方、哲学を学ぶことも、大切だろう。

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