自分の物語を紡ぐ

物語思考 けんすう 幻冬舎

物語とは何でしょうか。物を語ることでしょう。物とは何でしょうか。語られる内容であり、それは何でもいいでしょう。ただ少なくとも、その内容には主語(主部)と述語(術部)が必要なのではないでしょうか。

主語と述語が無ければどうなるでしょう。どちらも無ければ語るべき内容が無いことになり、物語とは言えないのではないでしょうか。

主語だけではどうでしょう。私。あの山。その国。私の祖父。・・・それがどうした、何をしたんだ、と言いたくなります。その存在は伺うことができますが、どうも物語にはなりません。

では述語だけではどうでしょう。歩く。食べる。美しい。危険だ。生まれた。・・・想像は膨らみますが、その主体が何であるのか、その後どうなったのかが知りたいところです。

そこで、主語と述語を並べてみます。私は歩いた。その国は危険だ。私の祖父が生まれた。・・・その先や背景も知りたいですが、とりあえず最低限の物語にはなるでしょうか。

つまり、物語とは“ナニ”が“ドウシタ”というハナシなのだと思います。WhatとHowです。基本的にそこから始まり、WhenやWhereなど様々な事柄が附随して物語を膨らませていくのです。

この本では人生を物語と捉えて考える。物語と捉えるということは、自分の人生であれば「自分がドウシタ」という物語になります。

そして、その“ドウシタ”を決めるのが自分です。つまり“ドウシタ”を選びとる作業が生きていくということです。

そして、物語の“語”つまり語るとは何でしょう。誰か他の人に対して話し伝えることでしょう。とくに人でなくても犬でも馬でも神様に対してでもいいのですが、たいていは人でしょう。

ときにその“相手”は自分でもよいと思います。自分に対して自分の物語を語ることもあっていいでしょう。ともかく、客観的に語ることなのです。

物語は自然には存在しません。出来事を捉えて解釈し組み立てることで手作りすることができます。近ごろはAIなどにより人が手作りしなくても作れるのかもしれなませんが、基本的には人間が作るものです。

語るにはまとめる必要があります。出来事は世の中に文章で出現するわけではありません。出来事を言葉にして、文章にすることが物語を作るということです。

言葉にすることにより、事実の出来事からは多くの内容が削ぎ落されます。一方で言葉にすることにより、受け取った相手の頭の中では予想外のことが想い起されることもあります。

一言でいうと「自分の理想どおりに人生を過ごすためには、いっそ一つの物語を作るように考えたほうがいいよ」ということです。

自分を主人公にして「物語を進めるように」人生を送ること。これが「物語思考」です。

(P24)

唯一、自分の物語は自分で調整することができます。もちろん、ままならないこともあるでしょう。調整しようとしたけれどもできないこともあるでしょう。それでも、調整しようとすることは可能です。

この本では、人間が生きることと生き方、つまり人生を、一つの物語をして捉え、自分の物語を主体的に調整していこうという内容と感じられました。

歴史や伝記などを読みますと、人間の物語は完成されているように誤解してしまいます。しかし、自分の人生の物語は、完成されているものではありません。

出来事や感じたこと考えたこと、他人とのやりとりなど、日々の生活を連ねて書き加えていく、日記のようなものだと思います。

だから、自分の物語については、少なくとも未来については、いくらでも変えようとすることが、変えることができます。

今のままの自分でよければそのままでいいし、ちょっと変えたいと思ったら、変わる方向に持っていけばいいのです。

ときにはままならないこともあるかもしれません。しかし、そんなことでも時に未来を変えるきっかけになることがあります。

そんなときに、この本に書いてあることを読み返し、自らの物語を創造していく拠りどころとしたいと感じます。この本は、今後の人生において何度も読み返したい本だ、と思いました。

自分の人生という物語を、これからも自分で手綱を取って描いていきたいという方には、ぜひ読んでほしい一冊です。

(太字は本文によります)

一方で、日本の伝統文化は、茶道や武道など、「道」という言い方をすることがあります。これは「ゴールがどこか」よりも、「どうやるか」という過程のほうが大事ということの表れなのではないかと思っています。(P26)

日本文化の多くは、結果ではなく過程を大切にします。茶道は単にお茶を飲むことではなく、武道は単に相手を倒すことではなく、手順や経過の正しさ、息の合うこと、美しさを大切にします。つまり、行為に「真善美」を盛り込むことを大切にしているのです。

人生のゴールを考えると「死」になってしまうわけですが、良く「死」に至るために、その前の「生(せい)」を良くしなければなりません。

そのためには、自分という人間の生(せい)つまり人生を、良い物語にしていくように、過程を大切にする気持ちが大切です。

自分の人生という物語の過程を大切にするとは、人生に真善美を盛り込んでいくことです。真善美が何たるかは、読書もそれを知る一手であることは、言うまでもありません。

なんとなく自分の普段のキャラと違うことをしてみたら、うまくいってしまい、キャラ自体が変わる、ということは実はよくあります。(P122)

気持ちが思考を変えるとはよく言われます。逆に思考が気持ちを変えるという研究結果もあるようです。沈んだ気持ちや楽しい気持ちが考え方に影響を与えるのは日頃から実感できますが、その逆もあるということです。

気持ちや感情をコントロールすることは難しいものです。しかし思考であれば感情よりはコントロールできるかもしれません。

行動が思考を変える、とも言われます。行動であれば、とりあえずは思考や気持ちが伴わない“フリ”でも、コントロールが可能です。

医学生が病院実習に移るにあたって、様々な診察手技や問診のとり方などを学ぶ実習と試験があります。そのときは、演技でもいいからまず覚えることが大切だ、と言っています。

最初は心が伴っていなくて、している方も見ているほうも三文役者の演技のように感じられるかもしれません。

それでも、演技なりに繰り返していくうちに、心や気持ちが伴ってくることもあります。それもそれで、そういった演技練習の意義になっているのかもしれません。

理想の自分や「こうしたい」というものがあるときに「自分が努力する」とか「まわりがなんと言おうと自分の信念を貫く」とかはダメなパターンです。(P150)

もちろん、自分の努力や信念は必要です。ただ、それだけで突っ走ろうとしてはいけません。それは、自分しか見えていないことになります。

人間の物語には多くの他者も関わってくるものです。両親をはじめ兄弟などの家族。近所の人々や学校関係、会社関係などなど。

物語は、たとえ自分の物語だとしても、ある程度は客観的俯瞰的に自分の人生を見た作品です。

自分の物語を良い作品に仕上げるためにも、自分の理想はもちろん、他者の意見や他者の物語を取り入れたいところです。

人は生きている間に多くの物語を知ります。他人の物語、教科書の物語、小説の物語、歴史、伝記など。

他者の話を聞いたり、学校で学んだり、あるいは読書をすることによって、自分の物語を面白いものにしていきたいですね。

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