自分本来の考え方とは

からごころ-日本精神の逆説 長谷川三千子 中公文庫

ときどき、自分の思想や考え方をガラッと変えてくれるような本と出会うことがある。

『嫌われる勇気』もそうであった。おそらく、どの本にも多少なりともそういう効果はあるのだろうが、それに時機良くピンとくるかどうかは読者の状態や境遇にもよるのだろう。

一度読んでみて全くピンと来なかった本が、再読することにより頭の中を大きく耕してくれることも多い。

それは、ある程度自分の中で思想の枠組みが構築されてきたからこそ、その弱い点を突かれたり崩されたり、ということもあるだろう。

いずれにしても良い本と出会うためには、あらゆる機会に任せて本を読み続け、折をみて再読してみることに尽きる。

ところで、偶然の出来事による発見や幸運を「セレンディピティ」と言うらしい。

抗生物質という新兵器となる「ペニシリン」の発見や「ポスト・イット」の開発など、セレンディピティから生まれて活躍しているものも多い。

ただ、偶然とはいえセレンディピティはある程度、準備があるからこそ遭遇するものではないか。のんべんだらりと暮らしていても、「いつか良い出会い」は無い。

「幸運とは、機会に対して準備ができていることだ」とも言われる。

セレンディピティ的な本との出会いもあるし、誰かから本を薦められることもある。あるいはSNSなどで「これはいいかも」と感じる本もある。

「薦められて読んだ」ということは、薦めてくれた人と、それを読もうと思った自分との二人がかりの選書である。その威力は計り知れないだろう。

今回ご紹介するこの本も、薦められて読んだ本である。自分のチカラと芋づるでは、およそたどり着くようなことがない本である。薦めてくれた後輩に、まずはこの場でお礼する。

本書の内容やメッセージとは見当違いも甚だしい考察かもしれない。しかし、どうせこのブログは今までもそういうことばかり書き連ねてきたシロモノでもあるので、遠慮なく書かせていただく。

「解釈」といふことの内にすでにひそむ我執を、洗つて洗つて洗ひつくして、自分が何の変哲もないただの板切れ一枚になつたとき、突如それを共鳴板として「宣長の肉声」が響き出す―さうなつたときがおそらく、小林秀雄氏の『本居宣長』を書き始めたときであつたろう。(P32)

冒頭で“自分の思想をガラッと変えてくれる”と書いたが、そもそも「自分の思想」とは何だろうか。いつの間に、どのようにして作り上げられたものだろうか。

読書などで他人の思想を勉強すると、他人の思想を取り込み、頭の中がそれに満たされてしまい、自分の思想があるのか怪しくなる。埋まってしまう気もする。

自分の思想体系と考える“樹”の根っこを掘り返し、ひっくり返し、粉々に切り刻み、劫火で燃やす。他人の思想でザーッと洗い流す。それでも残ったものが、自分の思想といった印象だ。

ただ、そこまですると自分の思想と言えるものが果たして残るのかどうか、あやしい。洗った結果なにも残らなかったということもある。

タマネギの芯を探して皮をむいたところ、すべて皮であって何も残らなかった、という結果になるかもしれない。

ただ、そういった幾重にも重なった”皮”である解釈によって我々は世界と対峙していることは否めない。世界はそれぞれの人間が幼少時からの経験や教育で作り上げてきた解釈によってそれぞれに捉えられている。

ただ、そういった解釈は自分のオリジナルとは言えないかもしれない。どうしてもどこかで学んで、知って身に付けた受け売りの考え方だろう。

そういった受け売りの解釈をそぎ落としていったところに、かろうじて残る自分なりの感じ方、捉え方に、人それぞれの特徴が表れるのだろうか。

ものごとを考えるときには、いつも使っている装備した解釈を駆使するのもいいし、勉強はそのためのものだろう。

ただ、ときにはそういったものを離れて自分なりにどう感じるか考えるかを探ってみる、あるいは”直感”のようなものを大切にするのも、面白いかもしれない。

先程も見た通り、漢意は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけてゐるのは、自分がしらずしらずの内に外国崇拝に陥つてゐるといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである。(P60)

日本人は漢意(“からごころ”)に漬かっているという。しかもそれによって、しらずしらずの内に外国崇拝に陥っているという。

ここでいう外国というのは “からごころ”をもたらした、いわゆる中国のことであろう。

そもそも言葉は思考の土台となる。頭の中ではいろいろな物事を考えるときに、それらを表す言葉が行き交っている。他人との間も主に言葉によって連絡され、思考は深められる。

もちろん中には言葉にできないこともある。そういったことは同時に思考に登場させることも、他人に伝えることも難しい。

日本人の場合は、言葉としてほとんど日本語を用いている。外来語由来の言葉を無理やりカタカナで表記したカタカナ語などもあるが、いずれもなんとなく日本語として馴染んでいる。

その日本語とは何か、日本語の言葉は何でできているかと言えば、元々は中国から渡来した中国の文字「漢字」と、そこから派生した「ひらがな」「カタカナ」からできている。

つまり私たちは、思考の土台である言葉を、中国からの輸入品でまかなっているのだ。

さらに、「四書五経」などとありがたがって(実際にありがたいところはあるが)、時間をかけて中国古典を入門書から読み込んで自分の思想に刷り込ませようとすることもある。

より良く生きるためにはどうするか、仕事や人間関係で上手くいくにはどうするか、などと生き方や自己啓発を考える際にも、論語をはじめとした四書五経や、その他中国古典は多用されている。

さらに、中国古典に限らず古代ギリシアの哲人からキリストの言葉、ローマの人々の言葉などなど、思想や考え方生き方の拠り所として外国からの輸入品が多い。

それはともかく、日本人が思考に用いる言葉からして漢意(からごころ)に浸った言葉を用いている。そして言葉は思考の道具である。

そこに私はハッとさせられた。はたして日本語を使っている日本人の思考は、日本人本来の思考なのであろうか、と。

四書五経であれば読む読まないの選択はできるが、日本語を使わないというのは日本人として難しい。もちろん、英語を使うという意志でもいいが、それはそれで英語ベースの思考となるだろう。

ともかく、意識しないうちに日本人というのは、漢字という外来語から派生した言葉で思考し生きているのだな、と気付かされたのであった。

しかし更にその上にもう一つ、どうしても欠かせない大切な条件があつた。それは、自分達の学ぼうとしてゐるものが、或る「普遍的なもの」だと思ひ込むことである。それが南蛮夷狄の文物であることを忘れることである。(P63)

このあたりは、控えめお人よしなどとも卑下できる日本人の特徴かもしれない。

漢字の輸入とそこからひらがな、カタカナへの加工はまさに、日本人が得意とする外の文化を「普遍的なもの」と信じて自分なりに取り込み、自らの一部としてしまう。

島国であることもそうだが、そういった日本人の柔軟なところが、小国ながらいつの時代も何かと生き残った歴史に表れているのかもしれない。

では、日本人本来の意(こころ)すなわち“やまとごころ”とはどのようなものなのだろうか。

“やまとごころ”について本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と和歌に記している。

この和歌の解釈は様々あるだろう。朝日に美しく輝き匂い咲き誇っている山桜も、夕には散るかもしれないはかなさを表しているかもしれない。

山奥にひっそりと咲く目立つほどではない美しさ、一時的に満開となり散るはかなさ、あるいは主張の強くないほのかな香り。そういったものが”やまとごころ”の芯になっているということなのかもしれない。

そういったことを例えば「無常」とラベリングしてしまえば、それこそ飛鳥時代に朝鮮半島から、これまた輸入された「仏教」の思想に所属するので、“やまとごころ”とは異なるかもしれない。

ただ、必ずしも中国やら朝鮮半島からの輸入品にも同様に存在するものは元々の日本人のこころではない、ということもできないだろう。

そこには、人間共通の思想や意識があり、少なくともこのモンスーン地方で四季の移り変わりがあるアジアに生きるものに、共通する特徴があるのではないか。

「輪廻」や「無常」といった思想を有する仏教が、四季の移り変わりや雨季、乾季といった季節の変化、あるいはそこで繰り返される生命の浮沈が日常でみられるこの地方で発生したことは、そぐわしいことである。

ともかく、桜の花や、あるいは茶の湯などに代表される“わびさび”の文化も、“はかなさ”を通底していると思うし、“幽玄”や“あいまい”といった四角四面にハッキリしないものを尊ぶ気持ちあたりが、日本人が本来有する“やまとごころ”の特徴なのではないか。

人間関係にしてもそうかもしれない。商業やパートナーシップにおいてもモーゼのごとき「契約」を大切にする文化もある一方で、「以心伝心」や「場の雰囲気」が大切な文化もある。

九鬼周造の『いきの構造』で述べられるような自分と他者の関係をなんともいえない繋がりで引きつけたり引き付けられたりする働きも、“やまとごころ”の一部なのかもしれない。

“わびさび”に代表される不完全ゆえの美しさを大切にし、互いに補い合うことの大切さを感じていることもあるだろう。

さらに日本は、天災の多い国でもある。圧倒的な天災や自然の力に対する畏怖により、助け合い協力することの大切さを感じているのかもしれない。

そういった状況下では、キッチリと状況と対応を場合分けしたような「契約」よりも、「できるだけ助け合いましょう」という気構えのほうが、臨機応変に実践対応できるだろう。

さて、生まれた赤ちゃんにしても、親や周囲が自分たちの文化を身に付けさせて、それなりにその場所その時代で生きていける人間になるものである。

生まれた赤ちゃんを放っておくと、その赤ちゃん独自の文化を発揮してそれなりの人間になるわけではない。

だから、どこまでが本来の“こころ”であり、どこからが外付けの“こころ”なのかというのは、人間はもちろん、ましてや一国の文化についても難しいだろう。

つまり日本という国は他の国に比べると、他国の文化をおおいに取り入れ、噛み砕いて消化吸収加工して自分のものにしている国なのだと思う。

それではイヤだ、という人は、もしかしたら日本人独自の“こころ”かもしれない“わびさび”や“未完の美”、“はかなさ”、あるいはそこから派生した「一期一会」や「おもてなし」を前面に出すことが良いのではないだろうか。

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文章や記事も想定読者を作るとよいと言われる。一国も仮想敵国を作ると団結する。しかし”からごころ”は敵と考えるにはあまりにも浸透しており、敢えて敵視しなくても良いだろう。

ただ、そういった存在を意識することにより、自分たちの文化は、考え方はどのようなものか、はたまた自分本来の考え方、あるいは生き方とは何なのだろうか、といったところを考えさせてくれる。

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