人も社会も塩加減

西夏の青き塩 五十嵐力 文芸社文庫

先日、久しぶりに家族で中華料理店に行ってきました。外食することは時々あるのですが、妻いわく中華料理は「塩分が多い」とのことで、最近は行くことが少なくなっていました。

家族の健康、とくに私の血圧あたりを留意しての配慮でございましょう。たしかに、味付けは和食と比べて濃いと思いますし、ラーメンのスープも啜(すす)ればかなりの塩分量になります。

しかし、この「塩」というものは、最近は熱中症の問題などでも注目されているように、身体の活動にとって、とても大事なものなのです。

もちろん、適度に摂取することが大切なのであって、糖や脂肪などと同様に“摂り過ぎ”は良くありません。「米塩に事欠く」ようでは困りますが、「良い塩梅(あんばい)」を目指したいですね。

中華料理つながりではありませんが、今回ご紹介する本は中国大陸に歴史上存在した「西夏」という国、そして「塩」にまつわる物語です。

この「西夏」という国は、中国歴代王朝の多くの場合と異なり正史が残されておらず、まだ謎の多い国です。

西夏についてよく知られていることとして、西夏文字と呼ばれる独自の文字を作り出したことがあげられます。

さらに、同時代に隣接する大国「宋」と並行して、独自の「皇帝」という位を設置しました。「皇帝」というものは、中華の国土と人民を統べる最高位なので、唯一の存在であるはずです。

その初代皇帝に即位した李元昊(りげんこう)は、いわゆる武闘派であり、周囲の国と戦闘のうえ領土拡大を図りました。また、宋との間にも戦争を起こします。

その戦禍の中にあって、主人公と西夏に産出する「青き塩」、そしてその周囲の人たちが織りなすドラマが魅力的な物語です。

綿密な資料や史実の検討、そして臨場感あふれる情景記載から語られる物語は、自分もその時間・空間に居合わせて経験しているような感じがします。

悠久の歴史に思いを馳せさせてくれるだけでなく、塩のありがたさ、商売や経済の役割についても考えさせてくれる一冊です。

人は塩がないとだんだん元気がなくなって、病気がちになります。動物も塩がないとだめです。(P44)

あらためて述べるまでもなく、塩は生命活動に大切なものです。とくに天然塩にはいわゆる塩(塩化ナトリウム;NaCl)だけでなく、様々なミネラルが含まれています。これらも身体の維持に大切です。

今でこそ製塩技術や輸送技術が発達しているので、人間の住むところで塩に事欠くということはないと思います。しかし、昔は海水から製塩することが多く、海から遠い内陸部では塩の入手に苦労したこともありました。

こういった塩の輸送については、上杉謙信と武田信玄の有名なエピソードがあり、「敵に塩を送る」という言葉の由来ともなっています。

海側から内陸へ塩をはじめ海産物を運ぶために使われた“塩の道”は、我が国にも数多くありました。そこはまた、木材など内陸の品物を海側に運ぶ道でもありました。

それにしても、水は知らぬ間に海から蒸発して雲となり、内陸に雨を降らせ、川を伝ってまた海に還るように、塩も人為的ながら循環しているのですね。

つまり、越後の海で作られた塩は上杉謙信によって内陸甲斐の国に運ばれます。その塩を武田信玄が摂取して、信玄の体内で上手く利用されたのちに信玄の汗やオシッコとなって川に流れ、海に至ります。そこからまた、塩として生産されるのでしょうね。

変なことを考えてしまいましたが、塩の移動も地球における生命活動の証なのかもしれません。食料や水だけでなく、塩の循環も大切ですね。

そもそも生きること、生命が活動することは循環なのです。その循環を破壊しないように気をつけないと、生命が活動できなくなってしまいます。環境問題の一端はここでしょう。

論語や大学には君子が民を治めるべき心構えは書いてあるが、社会からはみ出した人間の生き延びる知恵は書かれていない。杜宇俊は自分の若さと知識の偏りを思い知らされたが、反面何か清々しい気持ちになった。(P66)

主人公の杜宇俊(とうしゅん)は科挙と呼ばれる国家試験に落ちてしまい、官僚への道から商業の道を考えるようになりました。

必ずしも科挙の勉強で学んだ『論語』や『孟子』、『大学』といった四書五経に書かれてあることが、人間が生きていくうえでの全てではないということを、市井の人々やそこでの出会いから感じていったのです。

『論語』など哲学・思想の古典から人間として行うべき生き方を学び、、小説を読んで様々な生き方、考え方を学んでも、現実は複雑で必ずしも書物のようにはいきません。

読書も、実践に活かすことが大切です。読書なき実践は実践であり、実践なき読書は娯楽である。ムリヤリ二項対立的に比べると、実践のほうに軍配が上がるでしょうか。

読書をしなくても現実と実践から学び、結局は古典に書いてあるような生き方を得ている人はたくさん存在します。

書を読んでは演繹的に実践を見直し、実践で本に書いてあったことを帰納的に実感する。そんな感じに読書と実践は相互に作用しあって、より良い生き方に向けてくれるものと思います。

私も商売をやる以上儲けたい。ただ、民に恨まれながら一人儲けるのは本意ではない。儲けたい、そして民にも少しは喜んでもらいたい、それが青白塩の取引を考えた理由です(P111)

主人公が目指したのはこのような商人像でした。商業は利益を得ることを目的としながらも、その手段によって様々な文化を作り上げてきました。

とくにシルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路では、ヨーロッパとアジアの交流がなされました。文化、芸術、大航海時代へもつながる技術の発展が起こりました。

商業によって社会を動かす経済とは、「経世済民」の略です。つまり世の中を良くして人々にも快適に暮らしてもらおう、ということです。

商業を通じて、宮沢賢治の表現を借りると“世界ぜんたい”がより良く生きることができるようにする活動だと思います。そこには様々な人々が関わります。

医療人は医療を通じて、製造業者はものつくりを通じて、教育関係者は教育を通じて、ラーメン屋さんはラーメンの提供を通じて、世界ぜんたいを良くすることの寄与する人たちです。

それぞれ、自分のできることを果たして、生活のためには多少のお金をいただいて、世の中の人が快適に暮らせるようにするということですね。

ただ、お金儲け目的だけの商売は、世の中を悪くします。これは経済的ではありませんね。そこに必要なのは、どういったお金の回し方が世の中を良くするかという知識です。

世のため人のためになるにはどうしたらよいのか。それは古代から考えられ、多くの古典に書き記されています。

主人公が商人を目指してはいても、引用のような考えを強くするに至ったのは、科挙の勉強で学んだ『論語』や『大学』によるところも、大きいのかもしれませんね。

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