「頭がいい」とは何か?

頭のいい人が話す前に考えていること 安達裕哉 ダイヤモンド社

はたして、「頭のいい人」とは、どのような人でしょうか。

話していて「頭がいい」と感じる相手とは。少なくとも「知識が豊富な人」というわけではありません。それだけなら今の時代、「人」ではなくてもネットやAIに対応してもらうことができます。

また、「理論的に回答できる人」も頭がいいと感じることもありますが、ときどき「ムッ」といけすかない感じがすることもあります。かえって“論破”されたように、嫌悪の感情を抱いてしまうこともあります。

それでは、本当の「頭のいい人」とはどのような人でしょうか。それは、知識があり理論も通っていて、それでいて相手の感情を傷付けない人でしょう。

知識や理論はある程度は勉強や訓練で身につけることができます。相手の感情を傷付けず、相手の事を思って話すことは、なかなか難しいものです。

この本で言う「頭のいい話し方」とは、「いかに相手のことを考えて話すか」ということのようです。

この本を一読すれば、そんな「頭のいい話し方」の根っこが、自分の中に根ざしてくるのが感じられると思います。

(太字は本文によります)

でも、社会で活躍していく人は、逆の学びをします。社会的知性を身につけてから、学校的知性で復習するように、学ぶ。(P66)

これまでの学校教育は、知識の習得が中心であり、ここでいう学校的知性の涵養に働いてきたと思います。いかに知識を増やし、さらに増やし続けることができるか、というもの。

しかし、知識についてはネットで調べたりチャットナントカに聞いたりすれば、すぐに引き出されてくるものです。

AI殿はそれを駆使して、人間以上に学校的知性に優れた存在と言ってもいいでしょう。そこはAI殿に任せておけばいいと思います。

では、AIに難しいのは何か、生身の人間を相手にして、感情つまり「心」を持つ人間を相手に振る舞うとき、そこはまだまだAIには困難なところだと思います。

そこで必要なのが、社会的知性です。相手の立場や境遇、感情を考えて知識や理論を提示することです。

この部分を読んでふと思いました。はるか2000年以上も前に孔子はすでにこのことを言っていたのではないか。

「学びてときにこれを習う」とはこういうことかもしれません。まずは学校なり読書なりで学校的知性を身につける。そして、多くの場合社会に出てから様々な人間を相手にして、人間関係の中で学校的知性を活かすための社会的知性を身につけていく。

「学ぶ」とは学校的知性の習得、「習う」とは社会的知性の習得。そんな気がしてきました。

曲解だとは思います。でも、どんな時代でもどんな人間でも、その背景や境遇に合わせて解釈することができるのが「古典」です。

AI時代にも孔子の教えは当てはまるのかもしれません。

ちゃんと考えて話すというのは、“相手の言っていることから、その奥に潜む想いを想像して話す”ということでもあります。そしてそれは、学校的知性ではなく社会的知性がもたらすものなのです。(P93)

人を想う心、相手を最大限に尊重して存在させて上げられる気配りが、人間相手に振る舞う場合は大切ですね。

森信三先生のおっしゃる「人間心理の洞察」、西田幾多郎先生のおっしゃる「善」といったものも、これに繋がると思います。

自分の持ち合わせの知識や経験に応じて、相手の言動に対応するだけではダメなのです。相手の言動から、その奥に潜む相手の考えや想いを「想像」することが大切です。

言葉は頭の中の考えをかなり限定して表現されます。言外の想いを察知することもさることながら、相手の立場や状況を考えて、気にしていること、最近の雰囲気なども加味して想像することが必要ですね。

様々な場面で利用されているAIの対応が、今のところイマイチ人間味に欠けるのも、こういった要素が難しいからなのでしょう。

ただ、話す前に“本当に相手のためになるのか?”と立ち止まることで、知識を披露したいだけ、ただ言いたいだけの自分に気づくことができます。(P114)

相手のことを想う、「頭のいい人」になるための秘訣がこれです。自分の発言が“本当に相手のためになるのか?”と立ち止まることです。

我々医療関係者の間ではよくある話ですが、何か選択や決定で迷った時は、“患者さんのためになるかどうか”で考える、というのがあります。

ちょっと難しい手技かもしれない、かなり時間がかかるかもしれない、痛い思いをさせるかもしれない。

多少のマニュアルはあるにしても、生身の人間である患者さんととのご病気ですから、様々な要素で選択肢に迷いが生じることもあります。そんなとき、上に述べたような原則で考えるといいですね。

もちろん、それをフルに活用できるための心身のメンテナンスは、医療関係者にとっても必要ですが。

同じように、ここで述べられている“本当に相手のためになるのか?”という一考が、相手を想う「頭のいい人」になるための、原則と呼んでもいいのかもしれません。

プロフェッショナルは自分の思考回路を言語化できています。言語化なしには、繰り返し高度な作品をアウトプットすることはできません。(P295)

ここでは建築家の例を提示して高度な作品と言語化との関連を述べています。一方で、話すことも自分の思考回路、つまり頭の中を言語化することです。

素晴らしい建築家の作品のような見た人の心を打つ作品のように、聞いた人の心を打つような言葉もまた、意識して苦労して言語化を重ねたうえでの、一つの作品と言えるでしょう。

“本当に相手のためになるのか?”という“導きの星”のもと言語化の練習を重ねて、そんな素敵な作品のような言葉を発することができるようになれれば、と思います。

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この本では、相手のことを考えて想像して話をすることができる「頭のいい人」になるための考え方と方法が書かれてきました。

しかし、“考え過ぎて話せなくなる”という事態も避ける必要があると思います。むしろ、世の中にはこの“考え過ぎて話せない”という人もかなり多いと思います。

言語化、つまり言葉にすることは、けっこう大変です。そのうえで相手のことを考え想うと言われても・・・、と感じてしまうかもしれません。

もちろん相手のことをよく知って対話に臨むことは大切です。それでも、話しているうちに相手の雰囲気や考え、想いが感じられてくることもあるでしょう。

初めから相手のことをよく把握して、などと考えず、まずはウォームアップのつもりで、簡単な話から始めるのもいいのではないでしょうか。挨拶や天気の話などは、こういう役割を担っているのかもしれませんね。

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