砂の女 安部公房 新潮文庫
小説界にはとんと疎い私であります。最近ぼちぼちと読みはじめたようなものの、SNSなどで目にした本、お薦めされている本をたよりに読み進めている次第です。
その一部は当ブログでも紹介しておりますが、どれも他人や異世界の話でありながら、一つしかない自分の人生に対して骨となり肉となり、豊かにしてくれるものと感じております。
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この物語は、表向きはある男の不思議な体験談ではありますが、けして単なる体験談として読み進めることはできません。
読んでいてやむにやまれず頭に浮かび上がってくるのは、物語の内容から現在の自分そして自分を取り巻く社会への、投射とメタファー。
ページを繰って物語が進むのと同時並行的に、物語のエピソードや場面と相同する現代社会の事象が、次々に直線や矢印で結ばれていくような気がしました。
はたしてこの家は現在の職場ではないかしら。それともこの家こそが現在の生き方とは異なる、ある理想の生き方なのかしら。
そんなことを半自動的に考えさせてもらいながら、読み進めることができる物語でした。
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小説、物語は多かれ少なかれ読者の人生に影響を与えてくれます。そしてこの物語は、自分の人生の検修場のような印象です。
“研修”ではなく“検修”です。列車が格納されて色々点検修理される場所です。
生き方の各所にコンコンとハンマー叩打を行い、ネジの緩みがないか、部品の掛け違いや消耗、破損はないかと点検して、再確認や修理、交換を促してくれるような、読み心地でした。
みなさん、私よりもずっと小説をお読みと思いますが、もしこの本を読まれておられなければ、ぜひお読みください。
……生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。(P87)
主人公の男は教師でした。物語中で男が、いまや隔絶されてしまった仕事の場面について回想する場面からの引用です。教師という仕事の儚さが感じられます。
ところで、森信三先生は“教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岸壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない”とおっしゃっています。
まさにここに引用したように、教師である男も自分の周りを流れていく川の水のような学生たちに対して、教えては去り、また新たに流れ来て、教えては去って行くことを儚く感じたのかもしれません。
我々も、医学部の学生実習や研修医の研修、あるいは後輩医師と接していても感じます。
最初はできなかったのに、教えていくうちに色々できるようになります。でも、できるようになったころには、あるいは気が利くようになったときには、次の実習・研修先、任地へ出ていってしまうわけです。
森信三先生の言葉は、教師という職業の儚さ、教育の難しさを如実に表したものでありますが、一方でただそれを儚い儚いと嘆いているのではなく、岸壁に刻むようにするべきものだ、ということです。
引用に述べられている“教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ”というのは、教師の仕事を儚いと感じてのセリフでしょう。
しかし考え方を変えれば、常に流れてくる学生に教育を刻み込むような堅固な利石として、ドッカと地に足をつけ教育を施すという気持ちも、持てるのかもしれません。
私も、そんな気持ちで教育を続けることができればと思いました。
「納得がいかなかったんだ……まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないんだろうが……しかし、あの生活や、この生活があって、向うのの方が、ちょっぴりましに見えたりする……このまま暮らしていって、それで何うなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなこと、分かりっこないに決まっているんだけどね……まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」(P231)
男は物語の中でまったく変わってしまった生活環境を憂い、もとの世界での生活を希ってさまざまな行動をとります。もとの生活に戻ることも試みます。
この、“このまま暮らしていって、それで何(ど)うなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……”という思考は、共感できます。
このまま仕事を続けて家庭を続けて年をとっていき、子供たちは大きくなっていき、どうなるんだろうという気持ち。
どこかで人生の転機みたいなものが訪れて、将来についてもまったく希望の持てるような生活にならないかなあ、という気持ち。ふと感じることがあります。
我々はどうしても、人の生活と自分の生活を比較してしまいます。そして他人の生活が良く見えてしまいます。
はたまた、自分の人生でさえも、もっと良い道があるのではないか、良い人生とそうでない人生の分かれ道があるのではないか、と思ったりもします。
ただ、それは、そういう別の人生が自分にもあるかもしれないという“おかしな”考えからくるものではないでしょうか。
人生はそうではありません。ゲームのように“セーブポイント”があって、ダメな方に進んだからリセット、とはいかないのです。
人生には進んだ道しかないのであり、同時に、進んだ道が正解なのです。
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それでは同じ人生なら、この人生をもっと盛り立てようということを考えます。
その一つのが“すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまう”ということでしょう。
人付き合いが多い方がいい、友だちが多いほうがいい、SNSなどで相手してくれる人や反応してくれる人が多い方がいい、と感じるわけです。
このあたり、現代社会に通じるところがあります。さらに現代ではそういったものが手に入りやすくなっていると思います。
しかしそういったシロモノは、別の世界、生き方に思考を向けてしまいがちです。足元の生活、生き方に目が行かなくなりがちです。注意する必要があります。
亡者たちは、それぞれの表情で、他を押しのけるようにしながら、絶え間なく男に話しかけている。どういうわけで、これが孤独地獄なのだろう? 題をつけ違えたのではないかと、その時は思ったりしたものだが、いまならはっきり、理解できる。孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。(P236)
「自立」も「孤独」も、どちらも当事者は一人でどう立ち回るかといったことが問題となる言葉だと思います。
自立とは、他人の助けなど必要なくなんでもかんでも自分でできること、と勘違いされがちであり、確かにそういう要素もあるかもしれません。
しかし、本当の自立とは、いざというとき、必要なときに自分が頼ることのできる存在がそろっているということ、だと聞きます。
普段はなんとか自分だけで過ごしていても、自分の力や能力では難しい問題に出くわすこともあります。そんなときに、助言を請うたり助力を得たりする人がいることなのです。
それに対して、孤独とは、意外と周囲に目に付くウロウロする関係者らしきものは多い状態なのかもしれません。
しかしそれらは、自分になにやら影響を与えはしても、こちらから働きかけてもうんともすんとも言わず、それでいて常にこちらに語りかけ、監視し、薄ら笑いさえ浮かべていそうな雰囲気の輩です。まさに亡者です。
日々あふれるニュース、ネット情報、SNSの通信、変化。現代にあふれるこれらはまさにこの亡者に当るでしょう。自分の思考に入り込み、居座りますが、問うても応えず、押しても消える、“幻”とも言えるでしょう。
そういった、自分の力で働きかけても反応に乏しく、そのくせこちらから変化に応じてタイムリーに働きかけなくてはならないような気にさせるもの。まさに“渇き”を引き起こすものです。
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なんでも時々刻々と変わるものは見ていて楽しいものです。それを追っていると頭を使っている気になるものです。
SNSなんかを眺めていると、次々に通知や記事の更新があり、エイッと決心しないとなかなか離れられなくなります。
しかし、そういったものは頭を受動的に働かせているだけです。テレビなどと同様に、画像と情報の流れに頭をボンヤリとさらしているだけです。
むしろ、頭を本当に使っている時には、頭を使っているという感覚さえも覚えることができないと思います。
ジョギング、自転車、瞑想、読書など、ただ無心に自分や対象に相対しているとき。そんな時間が、頭をフル回転して使っている状態といえるのではないでしょうか。
すなわちマインドフルネスな行動が、頭の働きもフルなのですね。
いぜんとして、穴の底であることに変わりはないのに、まるで高い塔の上にのぼったような気分である。世界が、裏返しになって、突起と窪みが、逆さになったのかもしれない。(P261)
自由というと、何も支障なく自分の好きなように行動できることと思うかもしれません。たしかに、そういう意味での自由もあるでしょう。
仏教でいう「自由」とは、 “自らにもとづく”という意味であり、他に頼らないで自分自身を拠り所として生きていくこととしています。
ある程度は周囲の状況を考えつつも、周囲に影響されず、自分の考えで行動していくということでしょう。
しかし、自分の行動が自由だとしても、それで周囲の人間や環境と上手くやっていけているのだろうか、というのはなかなか分かりません。
昔のマンガキャラのセリフのように、「それでいいのだ!」と達観し尽くすこともできなくはないですが、なかなか自信が持てないものです。
そんな状況において、自分のやりがいを感じ、周囲の人にも良い影響を与えられるのではないかということを感じることができれば、それこそ自由の最高点に到達したと言えます。
この物語で男は、“希望”という名前を付けた工夫によって、その自由を獲得したと言えるのではないでしょうか。
たしかに行動範囲や生活環境、条件としては一般的な自由とは言えないところもあるかもしれません。
しかし、男は自分を拠り所として考え行動し、自分のやりがいとともに周囲へも幸せを分けてあげられそうなことを見つけるに至ったのでした。
本当の自由とは、自分に対しても周囲に対しても十全にやりがいがあることなのではないでしょうか。そして、それはもしかして、幸福の別名かもしれません。
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人間の欲求をマズローはピラミッド状の五段階で表現しました。一番下から生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求です。
私はさらにそのピラミッドの上空に、「他者貢献」というものがあるのではないかと思います。
この「他者貢献」は、欲求というよりも、これを目指して各段階の欲求を満たしていけば(もちろん、欲求の種類によっては難しいこともありますが)、道を誤ることはない、というようなものだと思います。
アルフレッド・アドラーも、この他者貢献を「導きの星」と表現して重要視していました。
(『嫌われる勇気』の紹介記事もご参照ください)
そして、この物語で男は、最終的にピラミッドの最上端にある自己実現欲求と、その上空の他者貢献に対する欲求を満たすことができたのではないでしょうか。
とりあえず必要なときに周囲に頼ることができるという「自立」を成し遂げたうえで、自己実現と他者貢献を果たす。それがそろった状態が「自由」であり、観る角度を変えれば「幸福」なのではないかと思います。
(『幸せになる勇気』の紹介記事もご参照ください)
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砂は見えるかたちで、つかまろうとする指の間をすり抜け、あがきもがく足を埋もれさせ転覆させます。
砂は見えるから、すり抜けているのが分かり、足が埋まり砂のせいで歩きにくいのも分かります。もし、これが空気のような目に見えないものであればどうなるでしょうか。
昔の人は世界の空間には“エーテル”というものが満たされており、それを媒質にすることによって光つまり実像と現象は伝播していると考えました。
そのエーテルのようなものが、人間の生きる空間や時間つまり人生においても満たされており、それに対する手の働き、足の踏み込み、あるいは心の動きが、人生の進退に影響しているとしたらどうか。
著者が「砂」に隠喩したものは数々考えられ、それはまた読者の解釈次第でしょう。
私はなにか「砂」が、そういった人生の趨勢に影響するような、質量を生み出すという「ヒッグス粒子」のように、生きるうえでの“抵抗”を生み出すような物質あるいは非物質を、象徴しているのではないかと感じました。