読書について ショウペンハウエル 岩波文庫
この本、読むことに抵抗がありました。「多読はダメ!」と書いてあることは以前から薄々知っており、比較的多読派である自分の読書を否定されるのだろうと思っていました。
多読を行う読書家にとっての痛烈な箴言。有名な部分を引用します。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。(P127)
ほとんどまる一日を多読に費す勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。(P128)
読書好き、とくに多読家の人であれば一度は頭にひっかかってきたであろうこの言葉。
意を決して、私も読んでみることにしました。もしかして自分の読書姿勢が厳しく否定されるかもしれないという、怖れを抱きながら。
あるいは一方で、自分の読書姿勢になんらかの変革をもたらしてくれるかもしれない、と期待しながら。
本書は「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇からなり、「思索」では読書と思索の関係が、とくに「思索」に対する「読書」の弊害が述べられています。
「著作と文体」にでは文章を書くうえでの匿名性の問題や注意点が述べられており、匿名性については現代のインターネットやSNSによる発信の問題をほうふつとさせます。
また、文章についての話は我々が日常の仕事で文章を書いたり、論文を作成したりするさいの手掛かりにもなってくれます。
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さて、読んでみるとたしかに多読は良くないということが書かれていますが、むしろ「読むだけで、自分で考えないことの弊害」を強調してくれている内容だと思います。
多読・濫読については、もちろんデメリットもあるかもしれませんが、メリットもあると思います。ある程度あ毒・濫読の期間も必要に感じます。
しかし、この本で述べられていることは読書を続けるうえでも重要なことだと思います。読書をする人はときどき読み返して、自分の読書姿勢を考え返してみるのに良い本です。
まさに、読書家にとっては、良薬となってくれる一冊です。
自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。(P6)
・・・すなわち読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形と印をおされる蠟のそれに似ているのである。(P6-7)
最近感じます。本をたくさん読んでいると、本から得たことが頭の中のスペースやフレームを占拠するようになってきて、自分で考える、思索するということが少なくなっています。
そのため、自分の中から生まれる「自分の考え」というものも少なくなってきている気がします。あるいは自分の思考の形が、まさに印形で整形されるような気もします。
もちろん知識を充実させること、他人の考えで自分の考え方に修正や改良を加えることも必要だと思います。とくに、子どものころや初学者は必要な知識の“詰込み“も必要でしょう。
ただ、読書によってのみ知識を増やすだけでは、自分の頭の中は他人の考えのみで形作られるばかりです。そこからもう一歩自分の思索による前進がなければ、単なる“モノ知り”に終わります。
・・・すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押しつけず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。(P7)
かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。というのは真に物事をながめるならば読書の場合とは比較にならぬほど、思索する多くの機会に恵まれ、自分で考えようという気分になるからである。(P16)
本の世界にとわられているだけではいけないよ。現実の世界を観て、自分と現実世界との関わりからも学びなさい、ということでしょう。
森信三先生も「真実は現実のただ中にあり」とおっしゃっております。「読書」は森信三先生も生涯にわたって実践され、また薦められた大切なことです。(『人生論としての読書論』の紹介もご参照ください)
「知識」は蓄えるだけではなく、それを良く使いこなす「智恵」とすることが大事です。そのためには、現実世界における生活や仕事、下座行において学び、思索し、「知識」を「智恵」として磨き上げることです。
空海もこうおっしゃっています。「秘蔵(密教)の奥旨は文の得るとことを貴しとせず、唯心を以って心に伝ふるに在り。文はこれ糟粕(カス)なり。文はこれ瓦礫なり」。
同時期に活躍して天台宗の開祖最澄は、書物の勉強により密教の奥義を勉強しようとする姿勢であったようです。
そこに、空海がクギをさしたわけです。「(経典など)書物の勉強から知識を得るだけではなく、現実世界の事柄から自分なりに思索を重ねて考えることも大切ですよ」と。
我々医療関係者が、教科書による勉強もしますが、「疾患」について「症例から学ぶ」ことや「人間」について「患者から学ぶ」ことも、似ているかもしれません。
教科書に必要な知識は込められており、勉強することによって身に着くかもしれません。あるいは先輩などから教えられる知識もあります。
しかし、患者さんを診ていて、「教科書に書いてあったことはこういうことだったのか」とか、「あのとき先輩が言っていたのはこういうことだったのか」と“腹に落ちる”ことがあります。
教科書に書いていないこと、誰も教えてくれなかったことも体験することがあります。そういう時こそ、現実から学ぶということが起こっているのだと思います。
したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。(P133)
読書をしない人が、読書のきっかけや足がかりとして、ベストセラーや読みやすいハウツー本、要約本を読むのはかまわないと思います。
しかし、いつまでもそういった本を読んで多読を重ねるのも、まあ人によるかもしれませんが、ちょっと考え物かと思います。
ある程度読書に慣れてきたら、読みやすい本、分かりやすい本だけを読むのではなく、いわゆる「古典」と呼ばれるような、古くからその時代その時代の人々、世情に合わせて読まれてきた本を読むのがよいでしょう。
つぎつぎと発刊される、自分の知識傾向や考え方に合った本を追っかけるのではなく、自分の思考・思索を磨いてくれる砥石のような本を読むことができればと思います。
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ユングでもフロイトでもアドラーでもいい。ヘーゲルでもカントでもハイデガーでもいい。二宮尊徳でも西田幾多郎でも森信三でもいい。キリストでも釈迦でも孔子でもいい。
本を読むなり人に聞くなりして、そういった先人の思想を我々はいったん自分の中に受け入れます。
そこで止まってしまうことも多いでしょう。しかし、我々はその思想を土台あるいは材料として、自分自身の考え、思想を創り出すこともできます。
そうすることによって、これまでの人々が作り上げてきた思想から、一歩前・上に出た思想を産み出さなければならないのです。
これは例えば手術などの技術でも同じだと思います。まずは教科書などで知識を学び、手術の上手な上司を目指し、ゴッドハンドと呼ばれる医師に憧れるかもしれません。
そういった人の技術を目指し、そのレベルに達して満足しているようではいけません。そこからさらに、自分なりの考え方、戦略、道具の使い方を産み出さなければなりません。
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人間は古来、そうやって文化や文明、あるいは思想を進歩させてきました。進化の一つのかたちといってもいかもしれません。
人間の生きる意味は、ここにあると思います。生物としては人間のみが持つ、他の生物の進化とはちょっと違った面かもしれません。
人間以外の多くの生物は、脳を含めた肉体的な部分を環境に適応させることが、進化の要素だったかもしれません。しかし、人間においては、脳に特化して使い方を進化させているのかもしれません。
あるいは、脳が作り上げた人間社会が、人間という生物の進化を脳の進化にしぼってきているのかもしれません。(『唯脳論』の紹介もご参照ください)
・・・「そんなことが言いたいのではないッ」とショウペンハウエルに叱られそうです。このくらいにしておきます。
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読書について、ではどうすればよいか。ベストセラーや古典の解説、ハウツー本などを追うのではなく、「古典」を読むことが重要と述べています。
自分の思想を一歩踏み出す土台、材料として、しっかりした古典がふさわしいのだと思います。 そろそろ自分も、読了した冊数を追うのではなく、じっくりと古典を読むほうに向かいたいと思いました。(以前もどこかで同じようなことを書いた気がしますが・・・)