列車の先頭で前面展望を見るのが好きだ。通学に利用していた田舎のローカル線では運転席が進行方向左側に寄っていた。だから、前面右の窓や中央にある貫通扉の近くに居ることができた。目の前にこれから進む線路が見える。列車はその通りに進んでいく。
途中、分岐器を通過することもある。分岐器が支持する通りに、列車は分岐された線路へ進む。人生の進行をレール上を走る列車に例えられることもある。たいしたことも考えずかろうじて高校に通う自らの姿を、列車に重ねていたのかもしれない。
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前面展望を見ていると、列車に乗った自分が進行方向に向かっていくのが実感される。たいていは通学している高校の駅へ、あるいはその帰途での自宅への行程だ。途中には信号もある。赤信号を無視して進もうとしても、列車は自動制御システムによって停止させられる。鉄道運転士たるもの平常時にはそんなことはしないだろうが。
もしかすると、人生にも信号があるのかもしれない。ときにはあの時が人生の信号だったと感じることもある。あの信号を守っていれば、あるいは無視したからこそ今がある、などと思いめぐらせることもある。
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そんな列車が駅などで停車すると、錯覚を体験することがある。列車が前に進行しているときには前面の景色は自分のほうへ向かって、つまり進行方向の後ろへ流れていく。それを見続けていると、列車が停止したときに止まっているはずの景色が今度は逆に前へ流れていくように見える。列車やそこに乗る自分が後退しているように見えるのだ。
おそらくは後ろへ流れていく景色を見続けた脳が生み出す錯覚なのだろう。列車の窓枠と、動いていればズレるはずである車外の電柱との位置関係などから、列車が実際に動いていないことは確認できる。でも、脳は走行中に後ろへ流れる景色を見続けた。その結果、景色を後ろに流すことに慣れて楽ができるように、ちょっと前の方へ視界を流すことでバランスをとっていたのかもしれない。
この現象は例えば、後面展望とはあまり聞かないながらも列車の後端に居て後方に流れる景色を見ていても感じる。その場合は列車が停止したときには景色が前に、つまり自分に向かってくるように見える。この錯覚についても何かしら人名などが付けられているのだろう。
つまり、前進を続けていると止まったときに景色が向うに去っていくように感じることがある。そして、後退を続けていると止まったときに景色が自分に向かってくるように感じることがある。
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これはもしかして、人生という列車にも当てはまるのかもしれない。順調に前進しているときには、ちょっと休むと自分が進み続けていた状態と比べて止まっているのみならず、後退しているように錯覚してしまうかもしれない。前進だけの人生が望ましいかもしれないが、それでは心身がもたないこともある。時には休憩も必要である。必要な休息の時間が後退と感じられては、十分な休息を取る時間を惜しみ、焦る気持ちも湧き出てくる。休息に対して後退を感じるのは“錯覚”と考えて、そこはしっかりと休むべきだろう。
そもそも人生の流れを感じるのは視覚ではないと思う。大局観とでも言うのだろうか。ただ怖いのは、後退を続けているときにふと立ち止まった場合は、もしかして前進しているように錯覚するのではないか、ということである。「現状維持は後退である」という言葉もある。ぬるま湯もいずれは凍える冷水になったり、ゆでガエルを作ったりする。
もちろん人生においては何が前進か何が後退かというのは難しい。後退と思われた出来事や経過が後になって有効に働くこともあるし、前進と思っていたら誤った方向に進んでいることもある。何事も経験であり、進んだ道が正解である。
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ともかく、前進しているように感じても、後退しているように感じても、現実の世界では自分も変化すると同時に周囲も変化を続けるものである。列車には時刻表があり、行き先となる終着駅がある。その通りに運行しないと乗客が困る。しかし人生の進行については、ちょっと違う。たとえ誤った分岐器を通っても、そこを進むことも戻ることもまた前進に過ぎない。直感という立派な自動制御システムを頼りにしよう。時刻表など随時改正すれば良い。
はるか彼方に終着駅のごとく、仮想的に動かない一点を目標と定める。そこを目指して前進やら後退やら分からないが、足を進める。そうすれば、目標やその近辺を通りつつ人生の大いなる終着駅にたどりつくのではないだろうか。