明日の僕に風が吹く 乾ルカ 角川文庫
出張にしても異動にしても、出先でかかりつけの書店を確保することは急務であります。
今回の異動先でも、確保することができました。書籍配置や特徴も、毎日通ってみると次第に頭の中に入ってくるものです。「毎日かい!」とツッコマないでください。
以前ご紹介した『心臓の王国』を読んでから、「青春」の魅力にちょっと傾いている最近です。それで書店でも、「青春」っぽい本はないかと探してしまいます。
なにも華やかないわゆる「青春」でなくてもいいんですが、なんというか人間の成長というか。そんな目で書棚をくまなく眺めていた時に目にしたのが、この本でした。
タイトルからは想像もできませんでしたが、物語には医療関係の話も多く、かつ人間の考え方生き方について考えさせてくれる本でした。
簡単に言ってしまえば、とある事件をきっかけに“引きこもり”になった東京の中学生が、叔父と一緒に住むため“奈落の底”のような北海道の離島にある高校に入学し、・・・と。
そこで出会った人間との関係から、過去の出来事を見直し、未来の自分を助けるような考え方にたどりつく感じです。
よくある物語かもしれません。でも、よくある物語は現実でも人生に一度ならずある話なのです。何回聞いてもいいし、何回読んでもいい。
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読んでみると思いがけず医療に関わる物語ではありました。しかし単なる離島もの、単なる地域・僻地・過疎地医療ものにあらず。
医療関係の話は主人公の物語にとってはサイドストーリーのようなものですが、それでいて物語全体を下支えするように考えさせてくれるものとなっています。
ということで、この本は医者をはじめ医療関係者の方にもぜひ読んでほしいと思います。少なくとも、曲がりなりにも医者である私は読んで良かったと思いました。
医者としての命(いのち、めい)が少し救われたような気がします。物語の内容を汲んで言えば、きっと10年後くらいに「あの時この本を読んでおいて良かったな」と感じるでしょう。
「自分はなぜ医者をしているのか」「医者ってなんだろう」という素朴な考えに立ち戻らせてくれる気がします。
大人の事情など、いろいろウニャウニャ考えて煮詰まっている時に、清涼な果汁100%ジュースを一口いただいたような。
それでいて飲んだあとには心に熱い火が灯るような。そんな爽やかで力強い風を、読者の頭にも吹かせてくれる一冊でした。
「誰でもない。行動、考え方、生き方に対してそう受け取ったってこと」
―生き方の問題なんだ。
(P194)
物語や映画の登場人物に魅力を感じるのは、容姿や言動がかっこいいからということもあるかもしれませんが、その生き方、考え方に惹かれるからというのもあると思います。
医者だからかっこいいとか、警察官だからかっこいいとか、スーパーヒーローだからかっこいいというわけではありません。
医者は医療を通して人を助け、人の役に立つからかっこいいのであり、警察官は正義を広め悪を取り締まるからかっこいいのであり、スーパーヒーローは悪をやっつけるからかっこいいのです。
つまり、その職業や属性というよりは、その行動や考え方生き方がかっこいいというものでしょう。
“職人”のように多少生き方に職業が滲み出ることはあります。そういうことはありますが、職業が生き方を決めるわけではありません。
「こういう生き方をしたい」という考えがあり、それを実現するにはどういう職業で可能そうなのか。そういう感じでいいと思います。
「なにかを決めるとき、岐路に立ったとき、俺は未来の自分を想像してみるんだ。十年後の自分なんかをね。十年後の自分を想像して今を振り返ってみる。今、これをしたら、あるいはしなかったら、この道を選んだら、選ばなかったら、未来の自分はどう思うだろうかってね。そうして、一番悔いがないだろう選択をすることにしている。・・・
(P292)
これは、未来の自分を助ける考え方ですね。未来の自分を助けるために今の自分がどうできるか、ということを考えるわけです。
前もって後悔するかどうかを考えるということです。後悔は先に立ちませんが、後悔を予測して善処することはできます。
後悔が生じるかどうか。それを見極めるにはある程度の知識や経験を積むことも必要でしょう。はじめは何も分からず、失敗して後悔する経験もあります。
様々な話を聞いたり、本を読んだりしてこういう時にはこう考えると良い、こうすればよいということを学ぶことができます。
ときには後悔することもありながら、そういう経験も踏まえて少しずつ自分の考え方生き方を研いでいくのだと思います。
「でも、過去をどう思うかってのは変えられるよな、今の自分で」(P309)
こちらは、過去の自分を助ける態度ですね。「過去は変えられないが、過去に対する解釈は変えられる」とアルフレッド・アドラーも言っていました。
過去に起こった事実はタイムマシンでもなければ変えることができません。しかし、その事実に対する解釈はいつでも、いかようにも変えられます。
かといって、何でもかんでもポジティブな解釈にしてしまおう、という態度もどうかと思います。温故知新と言うまでもなく、人は過去から学び次に活かす反省を重ねて進歩します。
ただ、主人公のようにどうしても引っかかっていて、今後の未来にもずっと影響しそうな過去の解釈であれば、変えることによってその後は随分救われるでしょう。
過去の解釈を変えられるかどうか。ここには人間的な成長や様々な新たな人間との出会いも関わってくると思います。
自分一人だけで過去を解釈していても、なかなか進展や変化はありません。相手を選んででしょうが、思い切って話してみて、相手の解釈を聞くのもいいでしょう。
また、話して言葉に出してしまえば、意外と自分でも客観的に出来事を観ることができます。そこから自分なりの新たな解釈も生まれるかもしれません。
この感覚はなんだろうと胸に手を当てて、しっくりくる答えを一つ導き出す。これは、寂しさだ。離れるのは寂しい。別れを前に話ができないのも寂しい。こんな気持ちは知らなかった。東京で引きこもったとき、クラスメイトに会えなくなっても、なんとも思わなかった。(P318)
感情は、人と人とを結びつける接着剤のようなものだと思います。良い人間関係が生まれるかどうかは、感情を共有できているか、したことがあるか、が関わっているのではないでしょうか。
お祭りや打ち上げ、はたまた日常的な飲み会なども、感情を発露させて人間関係をよりくっつける役目があったのかもしれません。
そして、日常では見えない感情が見えるのは、こういった別れのときや人間関係に影響するような出来事があったときだと思います。
お祭りや飲み会のような喜しいとき、楽しい時はもちろん、別れやケンカなど哀しいとき寂しいとき、怒ったときに、人と人とをくっつけていた接着剤があふれ出したり剥がされて糸を引いたりするように、感情が見えてきます。
逆に、そういった場面で感情が見えるということは、深くて豊かな人間関係を形成することができているということなのです。
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“空間的な人間関係”を築いていくとともに“時間的な人間関係”も築いていく物語だと感じました。
自分と同じ時間や空間を生きる他者との付き合い、一般的な日常や物語での人間関係については“空間的な人間関係”と捉えることができます。
これに対して“時間的な人間関係”とは、時間的に異なる自分や他者との付き合いのことです。過去の自分に対してどう思うか、どう考えるか。あるいは未来の自分に対してどうか。
さらに、過去の他者との人間関係を改めていくこと、さらに他者の知らない面を知っていくことといったニュアンスです。
「自分の過去は変えられる」「未来の自分を助けることはできる」という二つの言葉が、この作品のメッセージかと感じました。
さらに言えば、時間的空間的に異なる他者との人間関係の構築としては、読書も当てはまるでしょう。
現実に存在する自分や他者との空間的・時間的関係を整えつつ、読書によって史実あるいは想像上の物語を知ることは、豊かな人生を送る秘訣かと思います。