我慢して生きるほど人生は長くない 鈴木裕介 アスコム
最近、そう思います。平均的な一生の半ばに差し掛かったと思われる年齢になってきたこの頃。もう少し自分の「好き」や興味に基づいて生きることができればと感じています。
そんなときに訴えてきたこのタイトルのメッセージ。「そうだよね」と思いながら手にしました。
15×17cmという正方形に近いサイズからは、なんとなくチャラい本(失礼!)という初対面感でしたが、どうして内容は今の自分にしっくりくる話ばかりで、まるで著者に対面してカウンセリングしていただいているような気もしました。
著者は内科医・心療内科医であり、近親者の自死を経験したことからメンタルヘルスの道へと進まれたそうです。
内容も、著者の臨床経験からエッセンスを抽出したような濃密なお話ばかりであり、一読ではもったいなく、何度か読み返したいと感じました。
読めば、より深く大切に自分の人生を送ることができる。そんな感じの本でした。
(引用中の太字は、本文によります)
このような、他人の感情を優先する生き方から抜け出すきっかけの一つになるのが、誰にも遠慮をしない、自分だけの「好き」を見つけて追求することです。(P14)
前回、『水を縫う』の紹介記事でも言及しましたが、「好き」なこと、興味があることが、その人を最もよく表していると思います。
各人が自分の「好き」を発揮して、個性を発揮して生きていける社会が、「普通」の社会なのではないでしょうか。
しかし、仕事や家庭など自分以外の事情、他人の感情を優先するあまり、どうしても自分の「好き」を追究することを遠慮してしまいがちになります。
自分の「好き」は何か。そんなことを考える機会は少ないし、考えたこともなかったと思いますが、積極的に考えてみてもいいのではないでしょうか。
もしかして、普段意識はしなくても自分の「好き」は心の底に存在しているのかもしれません。子供のころから連綿と繋がっているものがあるかもしれません。
それを抑圧するように積もった「日常」や「普通」を掃き除いてみましょう。少し時間をとって、子供の頃に好きだったこと、趣味などを想い起してみるといいでしょう。
「人を嫌うこと、悪く言うことは『悪いこと』だ」という考えにとらわれていると、心は、違和感を覚えたこと自体をなかったことにしてしまうのです。(P71)
私はあまり人を嫌ったり、人の悪口を言ったりすることはない方だと思います。鈍いだけかもしれませんが。むしろ人にひどいことを言われたり怒られたりしても、おそらく自分の落ち度のためだろうと考えることが多いですね。
さらにここで述べられているように、「人を嫌うこと、悪く言うことは『悪いこと』だ」という考えが強く存在していると思います。
何か言われて怒ったり反論したりするよりは、そのまま聞き流すか、気にしないようにする方が、エネルギーも使わないし自分の心にも負担がかかることが少ないのではないか、と思っているのかもしれません。
周囲に怒りっぽい人が多くて、そういう人を嫌だなーと思っていたことも、関係しているかもしれません。
当時の上司が怒りっぽいので、読んでみた『怒らないこと』という本がありましたが、その影響もあるかと思います。怒ることは仏教でいう貪瞋痴という三毒の一つである、と。
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しかし、それはそれでストレスとして心の奥底に焦げ付いているのかもしれません。また、ここで述べられているように、自分の「違和感」を無視していることなのかもしれません。
「違和感」は尊重すべきだと思います。なんとなくおかしい気がする。これは無意識からのメッセージです。
こういった感覚が、言葉では表せないとしても危険を回避してくれたり、心身の訴えとして不調を教えてくれたりしているのだと思います。
私たちは、幼い頃から、家や学校で「みんなと仲良くしなければならない」と言われて育ってきたため、つい「嫌いだけど、仲良くしなければ」と思ってしまいがちですが、それは子どもの世界の常識にすぎません。(P73)
学校教育は、とくに義務教育は社会で必要とされる最低限の知識や技術を与えてくれると思います。
わずかに道徳という授業もあるにはありますが、学校での集団生活や家庭生活において約束や規則、しつけなどにより社会で必要とされる行動や考え方も伝授されると思います。
しかし、応用編である社会に出てからは、それだけで済むものでもありません。相手によって、場面や状況に応じて適切な行動や考え方をする必要もあります。
機転を利かせて先を読んだり、ときには阿(おもね)ったり我慢したりとネガティブな対応も必要かもしれません。
そういったことも加味されて、人間は学校教育や子供のときに習得した行動や考え方に、社会に出てからの修正や加工が添加されます。
さらには自己啓発書や古典など様々な本の読書や様々な人物との出会い、出来事の経験にも影響されて、その人なりの行動や考え方が結晶化してくるのだと思います。
まさに「守破離」ですね。学校教育で「守」としてのベーシックなところを学び、社会にでて「破」としての応用的なことを身につける、そうしながら自分なりに勉強するうちに、自ずとその人らしい「離」としての人間性がでてくるのです。
ただ、知識や経験が蓄積されている分、大人は子どもよりも、好ましい人間関係を作るための技術を身につけやすく、職場や働き方は自由に選ぶことができます。(P99)
うちの子供たちをみていると、子供のくせにしっかり考えてるなー、と感じる面がある一方で、そこまで硬く考えなくてもいいのになー、と感じることもあります。
たとえば、駅でホームに入ることができる「入場券」を買って、電車を見るためにホームに入ったときです。
停車中の列車に「ちょっと乗って見ようよ」と私が言うと、「入場券だから電車の中に入っちゃダメだよ!」と言います。もちろん、規則上ダメなんですけどね。
大人になると、多少緩んでいい加減になるのかもしれませんが、良く言えば考え方が柔軟になるのではないでしょうか。同時に、子供よりも、ときには演技的要素も使って人間関係を作ることもできます。
特に積極的には付き合いたいと思わなくても、仕事上の都合でニコニコ付き合わなければならない場合もあります。
それはさておき、大人の場合は思い切った行動に出やすいかもしれません。ある程度の年月は色々な知識や経験を蓄積して過ごしてきたので、臨機応変に出来事に対応できる自信も、子供よりはあるでしょう。情報を収集する能力もあるでしょう。
ただ、大人に足りないのは思い切りや勇気かもしれません。ぬるま湯の居心地の良さに慣れてしまっているかもしれません。
自分の「好き」を追求するためには、ときにはそういった環境から抜け出す勇気をもって、職場や働き方を自由に、つまり自らの考えのもとに選ぶことですね。
「罪悪感」という感情は、「我慢は美徳」といった価値観やルールと並び、あなたに不公平なトレードを強いる「内なる敵」の一つです。(P127)
「罪悪感」、感じますね。周囲に迷惑をかけるようなことをするとなると、感じます。もちろん、悪いことをして迷惑をかけるのは避けなければなりません。
しかし、自分の「好き」に従ったり、自分が「これが良い」と思う方向に行動したりすることにより、周囲の人の負担を増やすことになるのであれば、「罪悪感」を感じます。
ただ、そこで我慢して自分の「好き」を諦めることは、自分にとってはもちろん、周囲にとっても必ずしも良いこととは限りません。
各人が自分の「好き」を活かして生きていく。そうすれば「好き」のパワーが発揮され、良い仕事ができるでしょう。そういった各人の「好き」が活かされた活躍によって、社会が動かされていくのが、理想的ではないかと思うのです。
「罪悪感」という内なる敵。ちょっと感じたとしても、それはそれとして、自分の「好き」を追求してみませんか。
おかげで、どんどんサボり癖がついていますが、エンジニアの世界では「怠惰は美徳だ」と言われているらしく、その言葉を私も都合良く採用しています。(P144)
「怠惰は美徳」。へー、初めて聞きました。エンジニアの美徳として、「怠惰」「短期」「傲慢」があるそうです。なぜなのでしょうか。
まず、「怠惰」であるといかに時間を短縮して効率よく仕事をするかということを考えるから、だそうです。
そして「短期」は、何か問題が起きた時にどうすれば問題が起こらないで気持ちよく仕事ができるだろうかと、すぐに着手しようとするから、だそうです。
また、「傲慢」な人は、より高品質の仕事を求め、その努力をすることができるから、だそうです。できるだけ問題が起こらない仕事をしようと、最初から考えるわけですね。
そう言われてみるとそうなのかもしれません。ポジティブな面を拾うといずれも美徳となるわけですね。
どんなことも“良いことだけ”や“悪いことだけ”ということはないのでしょう。二面性といいますか、捉え方といいますか。
「謙虚」でも良い面もあれば「傲慢」のように自ら打って出ようとしないという面もあるでしょうし、「気長」も悠長で仕事が遅くみえるかもしれません。
自分のルールに基づいて生きることは、「自分は完全に正しい」と盲信し、自分の価値観によって他人を断罪し、他人に自分のルールを押しつけることではありません。
それは完全にラインオーバーであり、結局は自他の境界線も、自分が守るべき領域もわかっていないということになります。(P225)
著者は本書で、「ラインオーバー」に注意を喚起します。これはアドラーのいう「自分の課題」か「他者の課題」かというのに似ていると思います。
前者は自分が相手に影響を及ぼす場面において、自分の考えを無理に押しつけていないか、自分の価値観で他人を評価していないか、という姿勢かと思います。
後者は相手の行動や評価を考える場面において、それは本当に自分が責を負うべきことなのだろうか、それとも相手がなんとかすることであり、自分としてはそれを勇気づけたり見守ったりすることだろうか、という姿勢かと思います。
相手に対して何か働きかけるときは、ラインオーバーに注意する。そして相手の行動に自分が影響されるような状況で、それはどちらの課題かに注意する、といったところでしょうか。
そんな感じで、自他の境界線や領域を保っていけそうですね。
なお、人間関係に限らず、人生や生活のあらゆる面において、「快・不快」の感覚をきちんと把握することは、自分のルールに基づいて自分の物語を生きていくための土台となります。(P275)
「身体の声を聞く」という言葉がありますが、私たちは自らの身体が感じる快・不快を通して、安心できるかそうでないかを判断し、自分にとって良いもの、必要なものを知る力を持っているのです。(P277)
先ほどの「違和感」と同様に、「快・不快」も動物が生きていくために大切な感覚だと思います。
「快・不快」と司るとされるのは「扁桃体」という脳の一部。ここは感情や記憶の機能と密接に結びつき、対象について「快・不快」を判断する原始的な部分です。
理論や知識、経験に基づいて何事も判断しようとする我々、人間。それも大切ですが、本能的にピンとくる場面や、それこそ「身体の声」が聞こえてくるような場面には、それを大切にしたいですね。
その「快・不快」の感度を磨くためにも、日頃から自分はどう思うのか、それを直接行動に繋げるではないにしても、押し殺さずにそれはそれとして感じたいものです。
日記などで、出来事に対してどう感じたかなど書き記していくことも、そういった効果があるかもしれませんね。