自分の「縫い針」に輝きを灯し

水を縫う 寺地はるな 集英社文庫

言葉の一般的な意味は、辞書に書いてあるかもしれません。しかし、そこに書いてあることだけがその言葉の意味や働きではないと思います。

言葉は、様々な状況や人間によって使われることで、そのシチュエーションに応じた働きをします。

小説は、そういった意味で言葉を思う存分に働かせた作品だと思います。また、小説の場面におけるよく知った言葉の、意外な一面や働きを感じることで、より言葉への愛着や使い勝手が増すと感じます。

小説を綴る作者も、それを読む読者も、そこに散りばめられた言葉の意味をそれぞれに受け取ることで、無限の味わいが広がります。

さて、「水を縫う」とはどういうことでしょうか。単純に考えて「水を糸で縫えるわけないじゃん」と思うのも一興でしょうし、何かのたとえなのかとも思うでしょう。

物語の額面通りの意味をとらえると、裁縫が得意な主人公が水の模様を刺繍として縫い付けることと捉えることができます。

水は、好きな方に流れてしまいます。もちろん、周囲の環境や重力に従って動きます。ときには熱せられ、冷まされ、滴り、凍ったり蒸発したりすることもあります。

老子は「上善は水の如し」と述べました。理想の生き方は自分を主張せず周囲に沿って形を変え、争わずに周囲を潤す、ということです。

しかし人間、必ずしも“上善”だけではありません。不完全なところがあるのが神と異なる人間という生き物です。

そんなわけで、自分を主張しますし、争います。周囲に合わずに悩むこともあり、無理に合わせて自分を痛めることもあります。

家族や職場などという関係が、そういった「水」たちを結び付ける繋がりの一つではありますが、これも時にもろいものになります。

そういう時に能動的に繋がりを回復させるのは単なる「水」には無い人間の性質です。つまり、「好き」なことをすることです。

「好き」の力は無限大であり、周囲の環境や引力に関係なく、行動を促してくれます。

周囲に迎合して自分の「好き」を見失うと、人間は単なる「水」のように周囲に合わせて生きようとするしかありません。

たしかに、人生のときどきにおいて自分の「好き」を見失うこともあります。自分は何をしたいのか、どう生きたいのか。自分が価値を見出すものは何なのか。

人間は単なる「水」とは異なります。自分の「好き」に従って重力に抗い、周囲の環境をさえ変え、自己を主張します。

それでもバラバラにならないのは、やはり自分の「好き」が誰かのためになったり社会のためになったりする強力な力として発揮されることがあるからです。

主人公は自分の「好き」である裁縫を通して、まさに家族とその周辺の多種多様な登場人物の「水」たちを「縫う」、つまり結び付けているのだ、という解釈もできるかもしれません。

教科書を忘れた時に気軽に借りる相手がいないのは、心もとない。ひとりでぽつんと弁当を食べるのは、わびしい。でもさびしさをごまかすために、自分の好きなことを好きではないふりをするのは、好きではないことを好きなふりをするのは、もっともっとさびしい。(P44)

「好き」とは周囲に影響されず、自分がそう思うかどうかだと思います。周囲に迎合して自分が好きと感じることを曲げる必要はありません。

しかし、往々にしてこれがなかなか難しい。とくに学校生活や会社などの社会生活は、規則や周囲の目、評価などにしばられ、なかなか自分の「好き」を発揮することが困難です。

私も一人でいるほうが好きなのですが、どうしても集団行動が“普通”という気配がただよっていますね。学校も社会も。

また、好きなことをすることが、自分勝手や周囲を考えない行動ととらえられがちな気配もあるように感じます。それで好きでもないことを好きなように振る舞ったりする場合もあります。

もちろん、考え過ぎのこともあるでしょうが、自分の「好き」を大切にすることが難しい社会な気がしますね。

きらめくもの。揺らめくもの。目に見えていても、かたちのないものには触れられない。すくいとって保管することはできない。太陽が翳ればたちまち消え失せる。だからこそ美しいのだとわかっていても、願う。布の上で、あれを再現できたらいい。(P45)

芸術とは、かたちのないものを、何かしらのかたちにすることだと思います。かたちのないものとは美しさ、感情などです。

かたちにするとは、絵や造形、音楽や舞踏、文字や文章などで表現することです。この作品のモチーフである裁縫や縫製も、その一つでしょう。

裁縫や縫製は布の上にこういったかたちのないものを模様や色彩、あるいは素材の組み合わせと造形、機能性で表現します。

つまり、かたちにするとは五感で感じ取ることができるものにすることですね。

または、ここで述べられているように、五感で感じることができてもすぐに消えてしまうもの、過ぎ去ってしまうものをとどめておくことでもあります。

太陽の光、水の輝きや感触、そういったものを保管し、だれもが感じ取ることができるように表現することです。

「好き」が加わった技術には、こういった芸術つまり「アート」の要素が加わると思います。なぜなら「好き」のもとで行う行動には、どこまでも「より良くしよう」という工夫や創意が注がれるからです。

医療もアートの要素があると言われますが、患者さんのために「最善を尽くそう」という気持ちが、その技術や努力に表れるとき、そうなのかもしれません。

「かわいいって、おばあちゃんにとってはどういうこと?」

そうやねえ。祖母は頬に手を当てて、しばらく考えていた。

「自分を元気にするもの。元気にしてくれるもの。……水青がかわいいのは嫌って思うことは、べつに悪くない。誰もが同じ『かわいい』を目指す必要はないからね」(P79)

「かわいい」とは何か。硬く考えるとなかなか難しいことですが、ひとつは「好き」と思えるということだと思います。

そして、その対象を見ると、考えると自分が元気になるもの。元気にしてくれるものです。

心が動かされるもの、とも言えるかもしれません。どんなに身体が疲れていても、ふと目にした一輪の花が元気づけてくれて、また一歩を踏み出させてくれることもあります。

そんなとき、心が動いています。つまり「感動」です。身体を動かすことが運動であるのに対して、「感動」とは心が動くことと、とらえることもできるのではないでしょうか。

それならもちろん、「かわいい」に一般論も典型的もなく、見た人が心を動かされるかどうかということが問題です。

自分の好み、つまり「好き」に導かれ、自分なりの「かわいい」を目指し、求めればいいのだと思います。

「あのさ、好きなことを仕事にするとかって言うやん。でも『好きなこと』がお金に結びつかへん場合もあるやろ。私みたいにさ。でも好きは好きで、仕事に関係なく持っときたいなと思うねん、これからも。好きなことと仕事が結びついてないことは人生の失敗でもなんでもないよな、きっとな」(P240)

できれば「好きなこと」をして、生活のためのお金も得られれば最高です。しかし世の中の仕事は必ずしも自分の「好き」を満たしてくれるものがあるわけではなく、あったとしてもその職業に就けるとも限りません。

仕事は仕事で、ある程度自分の希望に沿うかたちで就くにはしても、その傍らで「好き」を持ち続け、少しずつでも育てることがいいでしょう。

「好き」という気持ちや、物事を「かわいい」「面白そう」と感じる心、そして「興味」や「好奇心」。これらは、心を動かす感動を導き、我々を身体や本能だけで生きている多くの生物や、知能だけの存在のAIとは全く異なる、人間という素敵な生き物にしてくれるのです。

そして「好き」の力は、この物語の主人公のように、自分の「好き」を失いがちだった人々に「好き」の火を灯し、全てを寛容に受け容れる「水」のように、縫い合わせてくれるのでしょう。

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