冒険の書 孫泰蔵 日経BP
また、いい本を見つけましたよ。
表紙の絵もいいけれど、挿絵がとても良い。挿絵はあけたらしろめさんという方が描いていらっしゃるそうです。
そういえば小説ではほとんど挿絵がないことが多いので、登場人物の姿や風景などは多分に読者の想像力に任せられます。そういった中で小説における表紙の絵の影響は大きいですね。
表紙の絵に惹かれて本を購入することもあると思います。それも表紙に描かれた主人公が頭の中で動き回るのですから、絵を気に入っているとそのぶん面白く感じるのかもしれません。
さて、この本では主に教育に関わった様々な歴史上の人物とその著書が次々に登場します。それら人物や、その背景となった時代を、あけたらしろめさんはこちらの想像力をかきたてるような、味のある挿絵で描いてくれています。
文章ももちろんですが、挿絵も魅力的な本ですね。そしてこの本はまさに、人工知能が人間としのぎを削るような今後の時代において、人間の進む道を照らしてくれる「冒険の書」です。
「子どもたちに学習させる前につけさせるべきものはなにか。それは習慣です。興味や好奇心を刺激することで、学習へと向かう姿勢や良い習慣を身につけさせることが大事なのです。二度と思い出さないようなクズを子どもたちの頭に詰めこむことなんかに、なんの意味がありましょうか」(P120)
老子も“魚を与えるより魚の釣り方を教えよ”とおっしゃっていました。安易に答を与えるのではなく、答の求め方を身に付けてもらうということです。その方が、応用が効きます。
また、答を探求する原動力としては、興味や好奇心が大切でしょう。興味や好奇心を持ってもらうように色々なことに触れてもらうようにしむけることも、教育者の役割だと思います。興味や好奇心を手掛りにして、どんどん探求していいんだよ、と伝えるのです。
そのためには、自分たち大人もそういう姿勢を見せることが必要ではないでしょうか。たとえば読書にしても、子供に読書を勧めておいて親の自分はテレビに惚けていては、示しがつきません。自らも読書して、その姿勢を見せましょう。
おそらく、歩くのも話すのも、大人のそういった行動を見て見習っているところがあると思います。大人がつまらなそうな生き方をしていて、子どもにだけ「興味を!」「好奇心を!」と言っても、説得力がないでしょうし、真似しようもありません。
そうか! 物事をリフレーミングして新しい意味を見いだせるのは、動物でも人工知能でもなく、人間だけだ。それこそが人間の役割だ。つまり、これからの時代の僕たちの仕事は、「社会にいかにムダや余白を組みこむか」を考え、いつでもリフレーミングができるようにすることなんじゃないか⁉ (P227)
人工知能が人間にとって代わるときが来ることが心配されています。でも、この本を読めば人工知能はとても人間にはかなわないことが分かります。そのカギがこの「リフレーミング」と後に述べる「アンラーニング」です。
そこで大切なのはムダと余白。こういったものは効率にはつながらないものとされ、人工知能は積極的に扱うことができないでしょう。というか、何がムダで何が余白かもなかなか難しいものです。
そして余白がなければ、持ち前の能力を振り回して発揮することも難しいのではないかと思います。まるで車がカーブを曲がるためにはある程度のスペースが必要なように。思考が動きまわる余白、スペースがあってこそ、思考の振れも広がり、思わぬ発想に至るでしょう。
人工知能的には、余白は無情報なスペースとしか捉えることができないでしょう。あるいは面積○○のヨハクとか。ところがコップは空いた空間があるからこそ用をなし、たとえば水墨画は余白もまた人の心に訴えます。
個人的には、思考においてそういったムダや余白を生み出す効果のあるものの一つにアルコールもあるのではないかと思います。人にもよりますが、飲み会では突拍子もない発想が生まれます。
もちろん瞑想や運動、読書も無意識を耕し掘り返し、汲み出してくれます。でも適度のアルコールも良い燃料になる気がしますよ。もちろん、健康を損なわない程度に。
アンラーニングとは、自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びにとりくみ、すべてを組み替えるという「学びほぐし」の態度をいいます。(P277)
これまでの教育機関は「学ぶために通うところ」でしたが、僕はそれを真逆の意味に変えたいのです。正直なところ、ラーニングは一人でもどこででもできます。しかし、アンラーニングは自分だけではなかなかうまくいきません。アンラーンしようとしている人と交わる中で、対話を通じて初めてできるものです。ですから、わざわざ集まる意味はアンラーニングのため以外にないと思うのです。(P321)
そういえば、楽器の演奏やスポーツなど頭だけではなく身体を多分に使って行うものは、教科書や教本だけでの勉強では、上手く身に付かないと言われています。
こういったものは習い事として先生に付いたり、先輩やコーチに指導を受けて練習し勉強したりすることにより、上達するものです。
そこにはもしかして、このアンラーニングの要素が入っているのかもしれません。知識が技術を詰め込むだけでは、余裕がなくなって上手く活用することができない。
そこを、筋肉のコリや運動のぎこちなさを取り除き、余裕をもった運動になるように指導できるのが、先生やコーチなのでしょう。
きちんとした先生や師匠に付きましょうというのは、このアンラーニングの要素も大切だからかもしれないと思いました。
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対話で重要なことの一つは、こちら側に相手の入り込む余地を確保することです。簡単にいえば受け入れる姿勢というか。ただ、それは容易なことではありません。相手のことを考え、姿勢を整える必要があります。
これは教科書や動画だけで学ぶことができるものではなく、実際に他人と接することによって身に付いていくものでしょう。だから、技術の習得に先生や師匠と触れあうことが大切であり、勉強にしても学校や大学に出向くことが大切になってくるのです。
そうして相手のことを考え、自分の持ち前の知識や技術を練り直すことにより、リフレーミングやアンラーニングがなされ、適度な余白・余裕も備えられます。そして知識や技術を善い方向に発揮することができるようになるのです。
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この本では、最後に文中で取り上げられた数々の書籍、まさに「冒険の書」が紹介されています。読書好きにはうれしい限りです。
どんな仕事でもキカイにできる仕事と人間にしたできない仕事が分けられてくると思います。そういった中、自分は人間として何ができるのか、この本を読んで考えていきたいですね。