聞く技術 聞いてもらう技術 東畑開人 ちくま新書
人は他人とコミュニケーションすることで人間としての生活を営むことができます。コミュニケーションの手段としては、言葉以外にもジェスチャーや表情、演技などありますが、多くの割合を言葉によるものが占めており、とくに「話」が主要なコミュニケーションとなっています。
これまでも「話」については様々な考察がされ、書が著されてきました。総じて言えることは、話は「話す」ことよりも「聞く」ことが大切だということです。
むしろ、話すこと自体が、話者自身も自分の言葉をフィードバック的に聞くことで、相手へ伝えると同時に自分でも確認し、修正し、自分の思考に影響を与えていると思われます。
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今回ご紹介する本は、その「聞く」に焦点をしぼった内容です。「聞く技術」というと、多くの著書がすでに存在すると思います。そのような中でこの本は、とくに「聞く」と「聴く」の違いについて、パラダイムシフトを与えてくれる本です。
著者は臨床心理学・精神分析・医療人類学を専門とされ、これまでも『心はどこへ消えた?』『なんでも見つかる夜にこころだけが見つからない』といった“こころ”をどこかに置き去りにした現代人には必読の著書を出しておられます。
話す方が下手な私もこの本を読んで、「聞く」ことはもっと磨いていける! と決意を新たにしたのでした。
(太字は本文によります)
「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい。
心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えられていることをそのまま受けとるほうがずっと難しい。(P11)
いや、ちがうでしょ、「聴く」のほうが難しいんじゃないのですか、と思いました。
「聞く」はあまり意識しないで耳に入る感じで、「聴く」は注意して積極的に相手の訴えを聞き、解釈・理解しようとすることではないのですか。だから人と話すときは「傾聴」が尊重されるのではないのですか。
一般的にはそう思われているかもしれません。しかし著者は「聴く」よりも「聞く」のほうが難しいといいます。
「聴く」ことにより相手の心の奥底に迫り、相手が訴えようとしている内容、背景、感情などをしっかり受け止めよう、理解しようという行動よりも、相手が訴えていることをそのまま受けとるほうがずっと難しい、と。
たしかに、相手の言うことを自然体で受けとることは、難しいのかもしれません。我々は相手の話を積極的に聴くとき、そこにはバイアスが重ねられます。相手はこんな人だ、年齢や性別、職業などなどが、相手の発する話を理解する際に加味され、それによって解釈が変わることもあります。
そういったことも、もちろん大事ではあります。しかし、ときにはバイアスを排除して純粋に相手の訴えを自分の心に直通させることも大切なのですね。
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考えてみると、我々医者も同様のことをしているかもしれません。たとえば患者さんを初めて診察するときに問診をとります。患者さんの訴えや自身のことを順々に聴いていくわけです。
これは大抵、順番が決まっていまして、最初にどこが調子悪いのか、腹が痛いとか足が痛いとかいう、いわゆる「主訴」ですね。次にそれがいつからどんな経過や程度、様子であったのか、「現病歴」といいます。
さらに、患者さんの背景としてこれまで何か病気を患ったことはあるかという「既往歴」、飲酒や喫煙などの「生活歴」、あるいは「家族歴」なども聴取します。
最近では、患者さんの考えや思い、希望なども聴き、個人に沿った治療を行う「ナラティブ・ベイスド・メディスン」という考えもありますが、そういったことも聴き取ります。
この流れは医学部の学生教育でも教えられ、学生同士や模擬患者さんなどとみっちり練習して、そういった実技の試験も設定されています。
さて、思うにこれの流れは我々が相手の患者さんをよく理解するためではありますが、かなり我々にバイアスというか色メガネを付けさせる行為かとも感じます。
患者さんの話し方、考え方、既往歴などが、我々に相手の人物像を形成します。私なんかはタバコ嫌いですから、喫煙している、していたというだけで「エッ」と感じるかもしれません。
もちろん、相手のことを良く知り、その上で相手することも大切ですが、そこに隠れてしまっている、相手の訴えを純粋に聞き取るという能力と行為。これを考え直す必要もあるのでは、と感じました。
気持ちを語っていたら事実を尋ねる。事実を語っていたら気持ちを尋ねる。これが質問のための小手先。(P37)
著者は「小手先」と称して聞く技術、聞いてもらう技術を教えてくださいます。時間と場所、眉毛にしゃべらせる、小手先の王様:沈黙などなど。
ここでは、その一つである「気持ちと事実をセットに」を紹介します。
思うに人と人とのすれ違いは、気持ちと事実の両方を確認あるいは理解していないことから起きるのではないでしょうか。
それを防ぐためにも、事実と気持ちの二重の確認が大切かと思います。「これこれこういうことがあった」という事実の話を聞いた時には、「どんな気持ちだった?」と尋ねてみる。あるいは「最近気分が落ち込んでいる」という気持ちの話を聞いた時には、「何かあったの?」と聞いてみる。双方を補完するように。
そうすると、単に事実のみの確認ではなく、ましてこちらのバイアスや解釈による相手の心情慮りだけが施されるわけでもなく、相手の気持ちを受けとり、共感する、あるいは共感しなくて自分はこう思う、といった実のある対話が成り立つのではないでしょうか。
またある時は、相手が落ち込んでいるようなときに、その原因になるような出来事があったのか聞いてみる。こちらは普段もよく行われているかもしれません。
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我々も患者さんの話を聞くとき、とくに「現病歴」といった時間軸のある話を聞くとき、患者さんや家族がどう思ったか、どう思って受診したか、など物語性を持った話になるようにします。
そのほうが、こちらも理解しやすいし(ときに理解しにくいこともありますが)、患者さんや家族の考え方も分かり、その後の診療に良い影響を与えます。
あるいは、例えば職場で後輩の仕事について相談を受けるときや様子を聞くときも、そうあるべきかもしれません。結果が思わしくなかったことに対して相手はどう思っているか。敢えて聞くことにより、自分も相手の気持ちが分かり、どういったアドバイスをすればいいのかの指針になるかもしれませんし、相手も言葉にすることで自分の気持ちや意気込み具合などを自覚することができるかもしれません。
心は人々の間を回遊しているのが自然で、個人に閉じ込められると病気になる。それが人間の本質なのでしょう。そういう意味では、個人主義が徹底される現代は心にとって不自然な状態だと言えます。(P97)
サル山にたくさんのサルがいますが、個々のサルの顔は判別がつきません。飼育員など常日頃見ている方は分かるのかもしれません。あるいは名前をつけて覚えることも、個々のサルを認識する助けとなっているかもしれません。
人間も同様で、おそらく生物としてのヒトには、それほど個体差はないと思われます。顔なんかは、人それぞれ違うように感じますが、生物としては大差ないのでしょう。サルと同様に。
ヒトは集団で生活することで、生物として弱いながらも凶暴な外的から身を守り、大きな獲物を倒して生きてきました。言葉をはじめとするコミュニケーションはさらに集団としての働きを高めたかもしれません。
しかし現代は個人主義が徹底され、個性が尊重され、能力差、個人差が目立つ、いかに目立たせるかが重要視されるようになってきました。
ファッション、化粧や髪型など、本来の意義や目的を超えた様々な工夫が取り入れられています。
さて、人の個別化が進むにつれて、心の疎外も進んでいるのではないでしょうか。いや、もともと心は皆で分かり合ったものであったのが、外見に個別化を目指すあまり、心も個別のものなのだ、という考えが出現してきたのではないかと思います。
心や気持ちの動きは、ほとんどが相手あっての反応だと思います。相手に合わせてこちらも心や気持ちを合わせていく。それが人間という集団を生存させてきたのです。そういうところが、最近ちょっと失われてきたかな、と感じます。
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平野啓一郎氏がその著書『私とは何か』において提唱した「分人」という概念があります。人間は相手に応じて自分にその相手用の役割のような人物像(分人)を用意し、職場での上司、家庭での父親などと使い分けているという考え方です。
「分人」は主に心の働きだと思います。“分心”と呼んでもいいかもしれません。相手によって臨機応変に“分心”を作り、対応する。
ただ、それである程度は対応できるかもしれませんが、それも一つのバイアスであり、この相手に対してはこういう心持ちで、となりがちです。
さらに、相手も生物(なまもの)であり変わるのです。とくに心は時々刻々と変わるものです。
だから、相手に対していつも同じ持ち前の“分心”で対応するのではなく、相手に起こっている事実を聞き、気持ちを聞いてそのつど“分心”をアップデートしていく。
そうすることで、心が固定した“分心”として自分の中だけに閉じ込められず、共有され、変化する相手に対応していけるのではないでしょうか。