死は存在しない 田坂広志 光文社新書
人は死ぬからこそ、死なないように健康でいようとがんばるし、死ぬまでは楽しく生きられるようにします。趣味や娯楽を楽しみ、より良い生活を求め、仕事をして生きがいを目指します。
では、「死」とは一体なんなのでしょうか。というのは古来多くの人が考えてきました。
これは、見る側面によって様々です。生物学的な死、宗教的な死、社会的な死、気分的な死、明日から生まれ変わるぞ!的な死。
科学的・生物学的に考えたとしても、ハッキリしない「死」の定義。そのため臓器移植に際しては「死」の定義を人為的に規定しています。
色々な方面からかするように周囲をウロウロしていると、接線で形作られいつの間にか輪郭が見えてくるのが、「死」というものかもしれません。
これはなにも「死」だけに限らず、世の中のいわゆる“得体の知れないもの”、例えば病気、経済、人間、教育といったものもそうだと思います。
様々な側面から見ていき、それらを総合することによって、ボンヤリとカタチが見えてくる。まさに現象学の世界でしょうか。
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そのような中で、この本は「死」を量子論の目で捉えようという内容の本です。あやしい話ではないかと訝る方もいらっしゃるかもしれませんが、著者の田坂氏は原子力工学を専門とする科学者であります。
氏の著書は科学のみならず、人間の知とはなにか、直感、潜在意識、そしてそういった不思議な理論の集約点としての「量子論」まで、幅広くかつ集約的に展開されています。
このブログでも氏の著書をご紹介するのは、これで6冊目です。多くの著書を読ませていただき、かなり影響を受けました。
この本は、得体の知れない「死」というものに対して量子論の視点から、「死」だけでなく潜在意識や人間とはなにかまで語ってくださいます。
最近、分からないことは分からないでいいのでは、と思ってもいますが、「死」に対して新たな見方を授けてくれる一冊です。
(量子論については、『「量子論」を楽しむ本』、『量子力学で生命の謎を解く』の紹介記事もご参照ください)
それゆえ、本書を読まれた科学者や宗教家、心理学者や哲学者の方々には、ぜひ、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」を検討し、この理論をさらに発展させていただきたい。
なぜなら、筆者の願いは、ただ一つだからである。
「科学」と「宗教」の間にある深い谷間に、「新たな橋」を架けること。(P37)
そもそも、死を「こういうことだ!」とビシッと言うことはできないでしょう。といいますか、あらゆる事柄は「これはこういうことだ」と言えないものです。見る側面によって見え方も様々に変化することがあります。見る人の知識や経験、あるいは体調や心境などによっても、見え方は異なります。
そんな中で、唯一「これはこういうことだ」と言えるのは「数学」かもしれません。完結された数学という体系世界の中でではありますが。
著者も、自分の論理や考えを押しつけているのではありません。検討してほしい、と言っているだけです。とくに科学者と宗教者に対して。
思うに科学と宗教は、アプローチの違いであって、目指すところは一所だと思います。つまり、「人間とはどういうものか」というところです。
観察、計測、分析などから構成され、実証という神のもとで行うのが「科学」というアプローチ。物語、経験、信仰などから構成され、それぞれの神のもとで行うのが「宗教」です。
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さて、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」については、氏の著書『運気を磨く』から引用いたします。次のようなものです。(『運気を磨く』の紹介記事もご参照ください)
第一 この宇宙のすべての場所には、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるエネルギー場が偏在している。
第二 そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」には、我々の生きるこの宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されている。
第三 従って、我々の心が、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に何らかの形で繋がったとき、我々は、過去、現在の出来事はもとより、未来に起こる出来事をも、予感、予見することができる。(『運気を磨く』P88)
瞑想やマインドフルネス、祈り、さらに仕事などでフローに入った状態というのは、このゼロ・ポイント・フィールドに足を突っ込んでいる、入りかけている、あるいは入っている状態なのかもしれません。
古来、潜在意識、普遍的無意識、仏教の阿頼耶識などと呼ばれていたものも、こういったもののことなのでしょう。
言葉を換えれば、「天才」と呼ばれる人々が発揮する直観力や創造力、発想力や想像力といったものは、実は、彼らの「脳」が生み出すものではなく、彼らの「脳」が「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がることによって与えられるものであると考えらえられる。(P179)
とは言っても、天才は努力なくアイデアやひらめきを手にしているわけではありません。幸運にも「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がることで成果を得ているわけではありません。
「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がるためには、それこそ99%は努力なのでしょう。他力ではなく、脳みそを思いっきり働かせて、あるいは鎮めて、という自力の努力で、ときに触れることができるのが「ゼロ・ポイント・フィールド」なのです。
また、アイデアの生成には“孵化時間”や“発酵”とも呼ぶべき、ある程度の時間経過が必要とも言われています。(『アイデアの作り方』の紹介記事もご参照ください)
そういった時間の間、アイデアの種となる資料や知識は、「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がったり、さらされたりして、アイデアに孵化、醸成されるのかもしれません。
そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」は誰に対しても開かれています。天才でないと触れることができないわけではありません。
ただし、繋がるための努力は必要であり、そして繋がりやすい頭を鍛えることは必要でしょう。
繋がる努力としては、頭をフル活動させるような思考、あるいは運動、瞑想、そして読書を。繋がりやすい頭の状態としては、おだやかで、謙虚な姿勢を、といったところでしょうか。
本書を、ここまで読まれて、あなたは、気がついたのではないだろうか。
その通り、
その「神」や「仏」や「天」とは、
「ゼロ・ポイント・フィールド」
に他ならない。(P189)
科学は種々の体系から量子論を経て、宗教は様々な経験を経て、「神」や「仏」などと呼ばれていたものに、たどり着こうとしているのかもしれません。
科学では理論物理学や化学、生物、気象あるいは数学の難問などについて深く沈思黙考すること、ときにひらめきを得ること。そして宗教では祈りや瞑想に没頭すること、人を思うこと。
そういったことは、いずれも「神」や「仏」と呼んでいた「ゼロ・ポイント・フィールド」に近づき、その繋がりを得るための方法だったのですね。
やはり、科学と宗教、登る登山道は違っても、目指す頂上は同じだったのです。
・・・この宇宙の「ゼロ・ポイント・フィールド」は、すなわち「宇宙意識」は、この八十億の人生のすべての出来事、八十億の人々すべての意識を「記憶」しているのであり、さらには、この地球上に生を享け、生き、去っていった、すべての人々、一千億を超える人びとの人生のすべての出来事と意識を「記憶」しているのである(P291)
なかなかアクセスの難しそうな「ゼロ・ポイント・フィールド」ですが、本という物はその一部を結晶化したものといえるでしょう。
文字という、声を異なりすぐには失散しない記号を発明し、人間が古来つづけてきた行動と思考の結果を残してくれているものが、本なのです。
もちろん、本を読んだだけでは「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がることはできません。
でも一部の本にはその著者が深い思索や瞑想のうえで「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がることによって得られた知識や経験も書かれています。
小説においては、村上春樹氏の作品をはじめ、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に関わっているような物語も数多く見られます。
我々は幸せにもそういった知識や経験を読書によって得ることができます。教育も同じです。先人が苦労して手に入れて知識や経験、ときには「ゼロ・ポイント・フィールド」に頭を突っ込んで得たもの。
そういったものを、教科書や本はなんということなく記しています。それを体系的に勉強することによって、常に時代の最先端に立つことができる人間を形成する。それが教育です。
その哲学者の名前は、ゲオルク・ヘーゲル。
ドイツ観念論哲学の泰斗であり、人類史上、最大の哲学者の一人と評される彼は、その著者『歴史哲学講義』の中で、次の言葉を語っている。
「世界の歴史とは、世界精神が、本来の自己を、次第に知っていく過程である」
・・・平易な言葉に訳せば、
「世界の歴史とは、世界精神が、『自分とは何か』を、問い続ける過程である」
・・・すなわち、この言葉は、筆者には、次のように読める。
「宇宙の歴史とは、量子真空が、『自分とは何か』を、問い続ける過程である」
(P304-306)
「ゼロ・ポイント・フィールド」は宇宙全体の意識ということです。すべての人間の、すべての生物の意識が集まってできています。
私は、人間という生物も全体で一つの生物のようなものではないかと思うことがあります。たとえばイワシの群れなんかを水族館なりで見ると、あれはもう数百匹という魚群が一つの生命体のようにふるまっています。
人間も、個人主義や個性なんていう意識があるからこそ一人一人大事に生きていますが、自我などというものを考えなければ、一つの生物集団として生きていけるかどうか、という生物だと思います。最近は、いや昔から戦争なんか起こしたりして、あやしいですが。
そして、個々の人間を潜在的に繋いでいるのが、「ゼロ・ポイント・フィールド」であり、世界の歴史は人間という生物がより良く生きていけるための文明や文化の発達とともに、その個体群の意識の相対である世界精神、つまり量子真空が、『自分とは何か』を次第に明らかに、分かっていく過程なのかもしれません。
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すべての人間が、個性はともかく自我を抑えて、マインドフルに「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がる技術を身につけ、生きていくことが、理想的な人間像なのかもしれません。
そして、それが科学や宗教の目指すところではないでしょうか。
また、なかなか捉えにくい量子真空としての「ゼロ・ポイント・フィールド」ではなくても、成田悠輔氏の提唱する無意識民主主義のように、AIやデータエンジニアリングを用いた人工的な「ゼロ・ポイント・フィールド」の立ち上げも、可能なのかもしれません。(『22世紀の民主主義』の紹介記事もご参照ください)