「禅」で”心力”を鍛える

2022年7月15日

禅脳思考 辻秀一 フォレスト出版

「禅」は、瞑想やマインドフルネスと同様に人間の心を整えるメソッドとして、古くから仏教の禅僧を中心に行われてきました。

また、禅の心は様々な日本文化に根差しています。(『禅と日本文化』の記事もご参照ください。)

慌ただしい現代では心を整えることが重視され、禅も見直されています。寺院での座禅体験や、ていねいに書写することにより心を整える写経などが行われています。

座禅や瞑想のようにただ黙して座り、集中すること以外にも、書字、歩行、食事といった日常の動作に集中するという考え方が、マインドフルネスによってもたらされました。

もともと禅における考えの一つにも、“日常生活も禅として過ごす”というものがあります。つまり、行住坐臥、食事や掃除なども禅修行の一環として意識して行うわけです。

これは、我々の日常、家庭生活や仕事、交友関係でも応用することができます。

考えてみれば、人間のあらゆる行動は、その集中のかけ具合により禅や瞑想、マインドフルネスに近い行動にもなれば、マインドレスな行動にもなります。心を亡くす、つまり”忙”です。

そして、時間や多忙、不安や緊張に追われることの多い現代では、後者がより多くなってしまいがちです。

今回ご紹介するのは、そんな禅の考え方を日常の仕事や生活に応用しましょうという内容の本です。

著者はスポーツドクターであり、氏の提唱する「辻メソッド」と呼ばれるメンタルトレーニングは、スポーツや教育、芸術分野などから幅広い支持を得ています。

日々の活動に“禅”の考えを取り込む入り口として、良い本です。

私は、「意味付けをやめましょう」と言っているわけではありません。その意味付けで、自分の心にゆらぎやとらわれが起こっていることに気づきましょう、とお伝えしているのです。(P37)

私の人生は、「いろいろなことが起こるという事実」「そこに私が意味付けをして、さまざまな感情を起こしている」という、この2つでできているだけなのです。(P59)

人間は、五感を通して世界を把握し、さらに自分の知識、経験などと混ぜ合わせて解釈することにより、物事を見ています。

こういった流れを、カントは「感性、悟性、理性」と表現し、ニーチェは「権力の意志」と表現したのかもしれません。

それによって、世界を各自個性的に切り取り、把握することができているとも言えます。一方では、色メガネを付けて、片寄った認識で把握しているとも言えます。

その色メガネを外し、世界をできるだけありのままに見ることも、禅が教えてくれるポイントだと思います。

そして、我々はそういった色メガネ、つまり「意味付け」をして世界を受け取っているということを、わきまえましょう。

他人と自分では、ある出来事の捉え方が違うかもしれない、自分はこう感じたが、あの人は違うかもしれない。

その意味付けにより、各人に起こる感情も異なります。感情の不一致や性格の不一致というものは、そんなところから出てきているかもしれません。

自分の心にゆらぎやとらわれが生まれることはもちろん、相手も同様であり、またそういった組織や家庭など人間集団は成り立っているということを、知っておきましょう。

外界に向いて行動をつくり出すための脳と、自分という内側を向いて心を整えるためのライフスキル脳。この2つをしっかり働かせて生きていくことが、自分らしいQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の高い生き方といえます。(P69)

外世界を五感で取り入れ、それに応じた行動を行う脳。これまでの知識や経験から自分の中に作り上げてきた内世界、心。

この2つをしっかり、バランスよく働かせることが、自分らしく人生の出来事に対応して生きていく秘訣でしょう。

外世界を取り込むためには、五感を磨き、アンテナを立て、適度な色メガネ、認知バイアスを通して、自分に合った捉え方をします。

また、内世界の情報を取り出すには、心のさざなみを整え、透見度を上げておく必要があります。

そのためにも、禅をはじめとするメソッドが、役立つのです。

「今に生きるには、どうすればいいんですか?」という質問をよく受けますが、禅脳思考とは、ただ思考し、その思考のエネルギーで心に変化をつくることなので、ただ考えるだけでいいのです。

深く考えるというよりも、「今に生きる」と唱えるイメージです。認知脳は、目的語がある思考ですが、禅脳思考はジャストシンキングです。(P110)

今を生きる。・・・今を大切に生きる。・・・今、ここで起こっていることを大切に生きる。

とは言っても、今現在のこと全てに集中して大切にすることも困難です。ここは、なにか一つのことに集中するのが得策のようです。

マルチタスクが必要な場面もありますが、どのタスクをも完璧にこなすことは難しいでしょう。

シングルタスクの集合と考え、一つ一つこなしていくのがいいこともあります。今日はこれ、明日はこれ、と。

禅や瞑想、マインドフルネスでは呼吸に集中します。呼吸は絶対に止めてしまうことができない行動ですし、心拍と異なり自分である程度コントロールすることもできます。

なので、呼吸に集中することが、瞑想中の集中対象としてふさわしいのでしょう。

祈りの言葉やお経、真言など、ひたすら唱えることにより集中することもあります。真言密教の真言は、繰り返し繰り返し真言を唱えることにより、その言葉だけに集中し、今を生きることに集中するのだと思います。

無心に集中!と言っても、何も考えない、とがんばるのは難しいものです。何か一つだけを考え集中するようにするとよいのです。

しかし、人間は、人に与えることが自分自身の恵みでもあることを経験的に知っています。文明が進むに従って、外から手に入れ、獲得するものが幸せで恵みとなると暴走してしまったのです。(P117)

おそらく、人間は個人主義の台頭で個人が大事になってしまっています。でも、アリやハチ、あるいは魚や鳥、哺乳類の集団をみていると、生物というのは全体としてうまくいっていればいいのでは、と感じることもあります。

もちろん各人の個性や生活、命をおろそかにしてもいいというわけではありません。

それで、これはとくに贈与関係で大切なのではないでしょうか。誰か同じ人間に心を込めて何かを贈るということは、同じ人間に益することであり、人間ぜんたいとしては幸せ度(?)がアップするのではないでしょうか。贈った方も、自発的に心を込めて贈れば。

そして、“人間ぜんたい“の幸せが個人の幸せにもつながってくるのだと思います。

宮沢賢治も言っていました。

“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”

個人を大切に、という考えももちろん大切ですが、個人が大切にされる人間社会を作るためにも、“人間ぜんたい”の幸福とはどのように得られるのか、と考えるのもいいかもしれません。

「自分の心の状態は、自分で整える」という意識のある人は、自分の表情や呼吸、姿勢を大事にしています。自分の表情次第呼吸次第姿勢次第で、心の状態に変化をもたらすことができるからです。(P172)

心を整えるには、まず身体から整えるのです。心という得体の知れないものをコントロールすることは難しいです。

自分でいくぶんコントロール可能な身体をコントロールすることにより、次第に心も整ってくるのです。

その点、ウォーキングやジョギングなどは、身体を動かすことにより心の不整をやや抑えてくれるのかもしれません。

ところで、「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」と聞いたことがあります。

行動として表現することにより、フィードバックもあるのかと思いますが、感情が強化されるのでしょう。

また、「“悲しみ”という言葉を知ることにより、より悲しみが強まる」ということも聞きます。

“悲しみ”という感情は、自然に場面によって生じると思いますが、それを自然に感じている分には、ちょっと“ウッ”となるくらいの感情の発露で済むかもしれません。

もちろん、悲しむべき場面では、自然と悲しいかもしれませんが、表情や衣装を悲しみの表現とすることで、より自らの感情を表し、感情に心を委ねることができるでしょう。

それが、その感情が悲しみというものであると自覚したとき、過去の同様の感情やテレビや本で感じた同様の感情なども、“悲しみ”という言葉によって繋ぎ手繰られ、より重なった感情になるのではないでしょうか。

礼服、喪服、各種儀式の様々なしつらえ、礼儀や動作も、そういった意味もあるのでしょう。

それでは、と逆を張って行動を変えてみるのも一案です。気分を晴らしたいときには笑顔を作ったり、少し運動してみたりすることで、気分も良くなるでしょう。

行動、表現が、感情を強化するのです。

「その日その日を傑作にするつもりで生きていれば、天使にだってできないようなことができるようになる」(P213)

たしかに、一日は作品ですよね。人生こそ、その人の作品なのだから、その人生を紡ぎあげている一日一日も大事なパーツであるわけです。

パーツが良くないと、全体も良い出来にはなりません。パーツである一日ですら“傑作”と言えるような作品に仕上げることで、人生も“傑作”になるのです。

後回しできることは後回しにするにしても、なんとかその日の仕事を一つでも仕上げましょう。

キリスト教の「天使」はなんとなくですが、仏教の「菩薩」に似ている気がします。立場的に。

どちらも、人間のレベルよりもより高いところに至っており、悟りを開いていると思います。でも、神や仏にはならずに人間界にちょくちょく顔を出して、人間を手助けしてくれる。

あるいは、天使や菩薩はもう少し修業中の身なのかもしれません。人間界はいろいろなことが起こり、修業にうってつけなのでしょう。

けして「神」ではない不完全な存在だからこそ、「天使」も「人間」も上を目指そうという気持ちも持つことができるわけです。

「神」なんて完全でいらっしゃるから、することなすこと上手くいって、ヒマでしょうね。

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禅や瞑想、マインドフルネスは、あなたの「心」を研ぎ澄まし、万全の状態にするトレーニングです。

筋トレと同様、最初は大変ですが、次第に「筋力」が付いてくるとペースがつかめてくるように、次第に“心力”がついてくると継続できるようになるでしょう。

かくいう私も、こういったメソッドを実行できているわけではありませんが、これからもう少し生きるだろう人生、よりよい作品にするために、取り入れていきたいと思いました。

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