物語のなかとそと 江國香織 朝日文庫
私はあまり小説を読まないほうでした。“でした”と過去形にしているのは、最近わりと読むようになったつもりだからです。
それまで読んでいた本は哲学、宗教、思想、歴史などの人文科学、生物学など自然科学、医学などの本、実用書や自己啓発書がほとんどでした。
実用書や自己啓発書などは、気持ち次第ですぐ実践し、人生に影響を与えることができるでしょう。哲学や宗教も、悩みや考え方でつまずいたときの、助けになるでしょう、
読書により自分の知識を増やし、思考を鍛え、悩みを解消し、人生をより良く生きていければ、などと考えていたのかもしれません。
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そういった本に比べると小説に対しては、“多少は人間心理について知見を深めることができるかもしれないが、どうせ架空のお話の文章であり、読んでも役に立たないもの“などという不届きな考えを持っていたわけです。
「事実は小説よりも奇なり」と誰かが言っていたし、どうせ現実であくせくするのだから、加えて小説の世界にのめり込まなくてもいいんじゃないか、と。
そんなことを考えていた私でしたが、最近は小説に対する見方が変わってきています。
この本は、小説家である著者がこれまで書いてきた文章を集めた散文集であり、”書くこと”と”読むこと”を大きなくくりとしてまとめられています。
小説も少しずつ読んでみようかなと思い始めた今日この頃に、とっておきの一冊でした。
でも、小説を読むとき、人はそこにある言葉以外のものの影響を、知らないうちにうけている。そこにある言葉以外のもの、というのはたとえば一般論や常識や、自分の意見や経験、といったものたちです。(P53)
ちょうど最近、同じようなことを考えていました。
小説を読み、自分の人生では経験できない何通り、何時間もの生き方、考え方を傍観的に経験することは、もちろん人間として生きていくために重要な「人間心理の洞察」を深めることができます。
しかしそれだけではなく、小説とは自分の知識や経験、教養の程度?を現実の世界以外で試すことができる場なのではないか、と思うようになりました。
つまり、日々の経験やそこから学んだことだけでなく、様々な本を読んで得た知識や思考法、解釈力は、小説を読み進めることに無意識に応用されるのではないかと考えました。
「今の自分はこの小説をどう“読める”のか」という考え方が良いのではないでしょうか。これまでの人生経験や読書経験によって小説の“読め方”が違うと思います。
よく、本は時間が経ってから読み直すと、以前とまったく違うと感じることがあります。そこには、こういったことが絡んでいるのでしょう。
また、たとえば同じ小説を読んだ人と意見や感想を交換することは、間違いなく異なる意見、感想、解釈が出てくるので、面白いでしょう。
だって、手紙は物体である。紙でありインクであり、のりであり切手であり、書いた人の気配でもある。匂いがあり手ざわりがあるということ。それが運ばれてくるということ。(P58)
簡素化、簡略化は環境的にも経済的にも仕事をする人にも便利になります。でもこの「便利」という言葉は、現代の用心すべき言葉の一つです。
便利はその裏にひそむ様々な“こめんどうくさい”ことたちを切り捨てています。そしてその“こめんどうくさい”ことたちこそが、人が“気持ちを込めることができる”ところだと思います。
電子メールなら、タイミングや文体、誤字などに気を付ければ大きな問題はないでしょう。メッセージを相手に伝えるという役割を、こなしてくれます。
しかし、手紙は違います。はがきや便箋を選ぶ、ペンやインクを選ぶ、切手を選ぶ、ましてや文字入力と異なり間違えたら書き直しとなる緊張感、心が伝わるように、丁寧にという気持ち、さまざまな“こめんどうくさい”ことが並びます。
電子メールを受け取った相手は、ときどき文体の違和感や誤字に気づくかもしれませんが、必要なメッセージは確実に受けとることができます。しかし、ただそれだけです。
一方で手紙は、ポストを開けたときの驚きと喜び、紙質やよれ具合、筆跡やインクのにじみ具合、切手の選択やのりの貼り付け具合などなど、相手が心を込めて順番に行ってきた作業が感じられます。
郵便屋さんにとっても、こういった“心のこもった物体”を運ぶというところに、仕事のやりがいを感じることもあると思います。
手紙の良さについては、「手と紙による対話」の記事もご参照ください。
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話はちょっと違うかもしれませんが、給与明細。これも最近では電子化が推奨されています。もっとも、もらうお金のほうもだいぶ昔から振り込み制になっており、銀行口座の数字が増えるだけです。
私の職場でも給与明細の電子通知化が進められていますが、私はできるだけ紙の給与明細をいただければと思っています。
給料日、家計に充てる分を銀行から引き出して、給与明細とともに妻に渡す。「これで、よろしくお願いします」と。
お金を渡すだけよりも、「おかげ様でこんな具合に働くことができました」といった感じを伝えることができれば、と思っています。直接言えよ、って感じですがね。
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ついでながら、本も同じだと思います。
電子書籍も普及してきており、紙の本か電子書籍かという議論があります。好みでしょうが、読書とは書を読むことです。
書、つまり本やそこに配された文字列は物体であり、紙、印刷、出版などや重さ、やぶれる、積み重なるなどの“こめんどうくさい”ことがこもっています。
もちろん、電子書籍もそういったプロセスを経た作品が電子化されているのでしょうが、私はペラペラとページを繰り、本を感じながら読むほうが好きですね。
こういった本を読んでいるあいだは、どこにいても、何をしていても、魂の半分がその世界のなかに置き去りにされてしまいます。だから本の続きをひらくとき、「でかける」感じではなく「帰る」感じになる。それが好きです。(P103)
読書法については、様々な人が言っていますし、本もあります。このブログでも私なりの考え方を少し書かせていただいております。
ただ、読書もスポーツや運動のような要素があるのではないかと思います。つまり、ランナーズハイのような状態、あるいはいわゆる“ゾーンに入る”ということがあると思います。
運動は20分くらい続けていると、それまでの苦痛などがあまり感じられなくなり、エネルギー消費も良い状態になるようです。
さらに運動を続けていると、エンドルフィンやら何やらが関わっているようですが、“運動を継続する喜び、恍惚感”が得られる状態となります
読書も同様。読みはじめはなかなか集中できない気もしますが、やはり20分くらい読み続けていると、だんだんノッてきます。その本の世界に入るような感じです。
引用で述べられているように“魂の半分”を本に預けるような感じです。
人にもよるのでしょうが、読書をやめたときに預けた魂を完全に戻せるかどうか。これはやはり、人にもよるのでしょう。
読んでいる途中の本があると日常生活でも気になるとか、考えてしまうという人は、“魂の半分”を本に置いてきているのかもしれません。
そしてその本を再び読みはじめるとき、“魂の半分”が待っていてくれた処へ“帰る”ような気分なのでしょう。
同時に10冊読んでいると、魂はその10冊に分割されているのかもしれません。よほど魂を濃くしておく必要がありそうです。
読むことはよく旅にたとえられる。その比喩もわからなくはないのだければ、私はむしろ、ここに居続けること、の方に似ていると思う。(P108)
魂の居場所としての本の力が強いと、現実世界よりも本の方に半分と言わず多分な魂を注ぎ込んでしまうのでしょう。
その魂は本の中の世界を旅し、物語を見てまわるのですが、もはや現実世界には本を手に持ち、言葉を目で追う身体のみであり、意識は本の世界に入り込んで居続けるような感じになるのでしょう。
まさに、読書に熱中し、“ゾーンに入る”という状態だと思います。このような状態で、どっぷりと本の世界を味わいたいものです。
言葉は、時間を超えてつきささるからこわいです。(P115)
「ペンは剣よりも強し」といい、腕力、武力でねじ伏せようとしても文章にはかないません。ですがペンがペンに勝つには、その内容によります。つまり「言葉」です。
言葉はときに強大な力を発揮します。人を傷つけることもあります。どん底から一気に救い上げることもあり、逆に叩き落すこともあります。
また、言葉は強いだけでいいものでもありません。誤解、誤読の可能性があります。SNSなどでしばしば問題になる”炎上”は、ほとんどは言葉を発した本人の意にしない解釈から起こるものと思います。
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古典と呼ばれる文章には、時代を超えて残った“強い”言葉が記されています。多少の研究を挟めばどんなに時間と空間の離れた言葉でも今に通じる。これも言葉の良い点だと思います。
古典に記された言葉は、時代や境遇の異なる自分にも、内容によってはしっかりとつきささり、心を動かしてくれます。
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さて、小説だけに限らずとも、これまで読んできた他の本も、知識や経験も、あるいは一つの「言葉」でさえも、今現在の自分の知識、経験、解釈の仕方により捉え方は異なります。
年をとれば肉体的には衰える方向かもしれませんが、この知識、経験は時間とともに増える一方でしょうし、それらを使った知恵や解釈も豊かなものになっていくでしょう。
いつか読んだ本、当時はつらかった経験、あのときは何のことか分からなかった言葉。自分の変化とともに分かるようになったり、解釈が変化したりするのです。
人生の折り返しはいつのことだか分かりませんが、おそらくその辺りをうろうろしている私自身は、それらを支える心身を保ちつつ、読書を重ねていきたいと感じました。