「読む」って、どんなこと? 高橋源一郎 NHK出版
この本は、「読む」ことを真剣に考える人の頭に、”風”を吹き込んでくれます。
まあ、”風”といっても、追い風もあれば逆風もあり、台風もありますが。ともかく、我々が日ごろ行っている「読む」という行為について見直させてくれる一冊です。
国語の教科書の見直しの本として、ある程度年齢がいったら読んでみるのもいいのかもしれません。
内容では最初の方に、小学生国語の教科書から引用した記載があります。今から読み直してみると、まったく実用的なことが書かれていました。
▶「せつめいの 文しょうを よむ
せつめいの 文しょうを よむ ときには、 どんな ことを せつめいして いるのかを かんがえながら、 正しく よみましょう。」(一年・下)
(P17)
ああ、そんなことを小学校の国語授業は、国語の教科書は丁寧に教えてくれていたのか、と感服しました。
今こうやって読み直してみると、いつも我々が苦労してしていることが体系的に具体的に国語の教科書に書かれていたことに驚きます。
▶「文章に対する自分の考えを持つ
・・・そのうえで、書かれていることがらについて、自分の知識や経験などと結びつけながら、自分はその意見についてどう考えるかということを意識して読むようにしましょう。」(六年)
(P23)
“書かれている内容を自分の知識や経験などと結びつける。”
これなんて、私が最近「本を読むことや他人との対話とはどういうことか」について、なんとかかんとかやっとのことで自分なりにたどり着いた理解です。
こんなことを、小学校のうちから教えてくれていたのですね。すごかったのです。小学校の教科書は。
あわてて、うちの子どもの持っている小学校の国語教科書を借り、見直してみたのでした。
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小学校の国語教育では、「文章から自分のなかに内容を取り入れるための方法」が教えられていることが感じられます。
いかに取り入れるか、ときには作者の意図以上に取り入れるか。そのためにはどういうところに目を付けたらよいか。
取り入れた内容を、いかにふくらませるか。取り入れた内容を、自分の中身(知識や経験)と混ぜ合わせるか。
そして、意見を言ったり発表したりするか。
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くり返しますが、「読む」(あるいは対話における「聞く」)ことは、書かれてある内容を取り入れ、自分の中身(知識、経験)と混ぜ合わせることだと思います。
取り入れ方と、その後の自分なりの処理(理解、解釈)にも個人差があります。知識や経験は個人によって異なりますから。
アウトプットとして出すまでもなくすぐに、なんらかの反応が頭の中で起きます。印象や感想といったものでしょうか。そういった印象や感想が人それぞれなので、価値があるのです。
他の人の印象や感想を聞いてみることで、自分の考えが変えられたり、強められたり、弱められたり、深くなったりします。
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他人に自分の印象、感想を伝えるための手段が、アウトプット(発言、文章化)でしょう。上記のような効果があるから、アウトプットは有用でもあります。
さらにアウトプットは、自分の頭の中の印象や感想といったモヤモヤした不定形なものを、ビシッと目に見える形にしてくれます。
残すこともできます。発言は少し頼りないですが、文章は書類やデータとして残ります。時間や空間を超えて多くの人に伝えることができます。
まあ、アウトプットして耳に聞こえる形、目に見える形にする際に、多少ニュアンスなどの犠牲はあるかもしれません。
人とのアウトプット交換によるメタな視点から元の作品、自分の中の反応を考え直すことが、“ヒト”という動物が他人との間を大切にして“人間”として生きることができ、文明的にも思想的にも発展してきた所以だと思います。
以下の記事もご参照ください。
絶対的に「悪い」ものがあるわけではありません。あるものが「善」にもなり、「悪」にもなる。いや、「善」でかつ「悪」だったりもする。だからこそ、わたしたちは、用心しなきゃなりません。そうではありませんか。。
そのための武器こそ、「読む」ことなんだと思うのですけれど。(P112)
我々は「読む」ことを通して、外部のことがらを自分の知識や経験と混ぜ合わせて吸収していく作業を繰り返して生きてきました。
そのため、そういった作業の繰り返しによって形成された、相当な地盤(考え方の枠組み、みたいなもの)を自分の中に作り上げてしまっていることに気づきます。
性格、考え方といった個人的なことから、職業性、地域性、国民性、(いろいろな)人間性といった大きなことまで。
そういった地盤は、これまた人それぞれ、その人の人生において、環境や人間関係において、読書において創り上げられてきたものです。
そうであることを、よく分かっておくことが、「読む」ことの大切な要素だと思います。自分もそういう自分の地盤に立って読んでいるんだ、と。
例えば、登場人物、書かれていることの背景それぞれの持つ地盤をも考える、ということも、「読む」ことの大事な要素です。そうすることにより、自分よがりの勝手な解釈にならずに済みます。
そしてこれは、「読む」だけではない人と人の間のキャッチボール、たとえば「対話」などにも関わってくることだと思います。
『対話とナラティブ』の記事もご参照ください。
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また、この本を読んで、自分が「読む」ことによる自分の変化(長期的・短期的)に無自覚だったのではないかと感じさせられました。
『人生を変える?』の記事でも書いたかもしれませんが、自分自身の長期的変化は、感じることは難しいです。なぜなら、変化後に感じている主体もまた変化した自分だからです。
長いこと会っていなかった家族や知人なら、その変化を感じるかもしれません。
短期的変化としては、例えば読書などにのめり込んでいること、周囲の音や変化に気づかなくなっていること、あるいは敏感になっていることがあると思います。
音楽を聴くとちょっと気分が高揚するように、読書により「気持ち、感情、気分」が変化することもあります。
こういった、「読む」ことによる自分の変化に、なんとなく無自覚に読んできたなあ、と感じました。
もう少し、読んでいる自分をメタな見地から見たような読み方ができれば、「読む」ことのクオリティが上がるかもしれません。
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当ブログのタイトルも、「読書を通して考える」なんて言ってますが、本当にここまで「読む」ことを考えずに、“流れ作業のように読んでは考えていた”気がします。
考えることも大切ですが、その考えのもとになることを本から得るための「読む」ことについても、少し見直してみようと、この本を読んで思いました。