客観的な絵と、主観的な絵があると思います。客観的な絵の代表は、写真です。主観的な絵というのは、主観度の幅もあると思いますが、各々が描いた絵だと思います。
客観的な絵は、あらゆる事象を均一に捉えています。写真は、目の前のこのタイミングの風景、場面を光の情報を拾ってそっくりそのまま描きます。
小学生あたりの風景画も、よく図工の授業で描かされたり、夏休みの宿題に出されたりしますが、できるだけ見たものをそのままに描こうとしたものが多いでしょう。そして、実物に近い絵を、“うまい絵”と評価することが多いと思います。
一方で主観的な絵は、その絵に何を書きたいのか、その絵で何を表したいのか、言いたいのかが込められていると思います。
風景を単に写生した絵は、比較的客観的な絵でしょう。そこに徐々に、作者の注意や感情などが入ってきて、同じ風景画でも主観的になってくるのでしょう。抽象画は、もっとも主観的な絵画なのかもしれません。
そういった絵を客観的な目でみてしまうと、「ぜんぜん実物と違うじゃないか」とか「何を描いているんだか分からない」といった意見も出てしまいます。
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”いい絵”とはどのようなものでしょうか。“いい”の意味はたくさんあると思いますが、ここではその一つとして“分かりやすい”を扱いましょう。まず、主観の“軸”が無いと“いい絵”はできないと思います。
写真が常に分かりやすいわけではなく、きれい(整理された)なわけでもなく、役に立つ情報を与えてくれるわけでもありません。これは風景の写真でも医療用のレントゲンやCT、MRIなどの画像でもそうです。
ある程度、“見る目“が必要だと思います。見る目といっても、多くの写真や絵、画像をみた経験から得られる能力としての見る目も必要ですが、”自分はこう見よう“というような意思というか、やはり主観的な”軸“や”立場“といったものです。客観的情報の山から、自分の主観にかなう情報を切り出し掘り出す、ナイフ、スコップ、足場です。
見た人の感情や境遇によっても、同じ絵でも違った見方ができます。本における「古典」と同様、そういった絵が“いい絵”なのだと思います。
見た人の主観的な評価にかなう内容を備えた絵が、“いい絵”だと思います。ただし、その主観を持ち合わせている人にとってのいい絵です。もちろん描いた人はいい絵だと感じるでしょう、その人の主観で描いたのですから。他の人も、その人が持つような主観を持っていれば、その絵をいい絵と感じるでしょう。その絵で何を見たいか。
客観的な絵は、あらゆる主観に対応した情報を備えていると考えられます。ただし、客観的な絵からは、主観を持った人は自分の主観にあう内容を見つけ出す必要があります。
そして、見た人の主観に堪える内容がその絵に含まれているかどうか。時間と場所はその備えの律速となります。タイミングや場面によって、自分の主観を満足させる見たい対象が現れているかどうかは、異なります。
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外科医における手術記録というのは、手術を終えたあとに記載する、手術の内容の記録です。日付や時間、メンバー、手術の手順、所見など客観的な内容が記載されます。でもここでも、ある程度術者の見た世界を描くことが大切だと思います。
写真と異なり絵を描くことにより、見えるはずのない対象(存在しないのではなく、影になって見えない血管など)を点線などで書き入れたり、腫瘍の色を悪そうに塗ったりすることができます。そういったある程度の主観性を添えたほうが、分かりやすい“いい絵”になると思います。
手術記録を、同じような症例が来た時に他の医者が手術の参考にすることがあります。その場合、ある程度客観的な記載は参考になるかもしれない一方で、主観的に見えた世界が、他の者にも見えるかどうかは、また別な話でしょう。
だから、まずは誰が見ても分かるような客観的な記載が必要なことは言うまでもありません。個人の記録ではなくカルテの内容という公文書であり、医局の財産であり、医学の記録ですから。
やはり客観的な記録は記録として残しておいて、コピーでもとって、自分が見た主観的な世界、印象、思いや反省を赤ででも書き込んで、自分用に保存しておくのが良いと思います。
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客観的な絵を、客観的にも主観的にも自在に観ることができるのが、良いと思います。
考えてみれば、我々の周りの世界は、ただただ客観的に存在しています。それを受けとる目や耳などの感覚器も、それらをただただ客観的に受け取ります。それらに主観性を与えるのは、自分の記憶や経験などを基に解釈を施す「脳」なのでしょう。
客観的なこの世界に対して、いかに自分の生き方に合った切り取り方をできるか。切り取るための道具であり足場である自分の主観性も、日常の仕事や人付き合いといった経験、勉強や読書などを通して磨いておきたいものです。