目の見えない人は世界をどう見ているのか 伊藤亜紗 光文社新書
「障害」あるいは「障害者」に対して、ちょっと見る目が変わるなあと思った一冊でした。
この本を読んで、目が見えないなど、障害のある人はどのように世界をとらえているのかということに、非常に興味を感じました。
たんに目の見えない人は耳や鼻、あるいは肌感覚など、他の機能が優れてうまくやっている、という話ではありません。
見える人とは違ったとらえ方を世界に対して行い、見える人とは違った、また豊かな世界に生きているようです。
はたまた目の見えない人は、「見える」ことによる様々な不都合や苦労がないのかもしれない、という話も、面白いと思いました。
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「障害者」という言葉については、「障がい者」や「障碍者」などとの記載も最近は行われています。「害」のネガティブな面を排除しようという考えでしょう。
しかし、それは一面的な見方による考えであって、必ずしも「害」はネガティブなだけではありません。
なにごとも、良いことだけ、悪いことだけということはないものです。この本は、眼が見えないこと、耳が聞こえないことについても、そう感じさせてくれます。
さらには、そこから拡がる我々の想像が難しい世界や世界観、はては脳機能に対するの新たな見方などにつなげてくれます。
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街中でも視覚障害者や聴覚障害者の方を目にすることがあります。また、脳卒中などの後遺症で手足に麻痺のある方や、言葉の受け止め、発語がうまくできない方もいらっしゃいます。
そういった人たちが、どのように世界をとらえ、あるいは障害の発生によりとらえ直しているのだろうか、と想像が拡がります。
逆に、目の見える人が「視覚」に頼りすぎているために取りこぼしていることも、多々あるんだろうなあと感じました。
そして、繰り返しますが、「障害」あるいは「障害者」に対して、ちょっと見る目が変わるなあと思った一冊でした。
美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。
(P25)
著者は美学、現代アートを専門とされています。美学についてのこの著者の記述は、芸術の解釈について非常に的を射ていると思います。
芸術については「正しい解釈」とか、「正解の説明」なんてものはないのであって、その人その人が自分のこれまでの記憶や経験、考え方から自由にとらえればいい物だと思います。
哲学は、言葉にしにくいもの、たとえば「生きるとはどういうことか」、「信じるとは」、「愛するとは」などを、できるだけ言葉で解明していこうという学問でしょう。
芸術も、言葉にしにくいものであり、美学は芸術について言葉で解明していく学問のようです。
最終的には、哲学においてもウィトゲンシュタインの言うように「言葉にしえないもの」がありますし、日常生活や仕事においてもポランニーの言うように「暗黙知」があります。
美学、芸術においても、「言葉にしえないもの」は残ると思います。いやまさに、「言葉にしえないもの」を表現することを目的としているのが、芸術なのです。
そういった中で、たとえば目の見えない人、耳の聞こえない人がどのように「言葉」をとらえるのか、という点は、この本の大きなトピックの一つだと思います。
たとえば腕をつかんでみると、腕の芯の部分にある骨を感じることができます。つかんだ手のひらとつかまれた骨のあいだには、皮膚、筋肉、血管、脂肪などがありますが、それを透過して、奥にある骨を感じることができるのです。
(P108)
視覚が対象との間にある空気やガラス窓を認識しないように、聴覚がカクテルパーティ効果を示すように、触覚にも触れてはいても、いわば無視してその他の対象をとらえる機能があります。
視覚のみならず、聴覚にも触覚にも、視覚の「透明」にあたるものがあるんですね。言われてみるとそうですが、その考え方は意外です。
これは、感覚というちょっと受動的なことだけでなく、我々が「道具」を使うという能動的なときにも当てはまるのではないかと感じました。
つまり、身近なところでは、箸を持つと箸の先端に自分の手指の感覚が宿ると感じます。箸で触った、あるいは持った食べ物の柔らかさ、重さが感じられます。
さらには、予測される食感や味覚でさえも、感じられるかもしれません。シャリシャリしていそうだとか、舌でも切れそうだとか。
こういった、道具の存在を無視して道具を自分の身体の一部に感じられるようになるのが、道具の一番理想的な使い方なのではないでしょうか。
我々も、手術で用いる道具(手術器械)は、こういった具合に体と一体になるように使いこなせればいいと考えています。
まあ一方で、実際の食べ物の熱さだとか、指で触った感触などは犠牲にしているのかもしれませんが。
つまり、「意味」とは、「情報」が具体的な文脈に置かれたときにうまれるものなのです。受け手によって、どのような状況に置かれるかによって、情報は全く異なる意味を生み出します。
(P32)
「客観的な情報」や「正しい解釈」だったら、見えない人だって本を読めば済むわけです。
(P164)
情報化の時代にわざわざ集まってみんなで鑑賞する面白さは、見えないもの、つまり「意味」の部分を共有することにあります。
(P165)
著者は本書で「情報」と「意味」の違いを強調しています。同時に、本書の大切なキーワード、キーコンセプトになっています。
「情報」とは、具体的なデータや事実。たとえば「この病気は手術をしても10%の人で再発する」ということです。
それに対して「意味」とは、受け手次第で変わってくるものです。上述の病気を手術で一旦治したとしても、10%の確率で再発するとしたら。
若い人であれば、また手術を受ければいいのかと思うかもしれません。でも高齢者であれば負担も大きいので、もう手術はいやだなあと思うかもしれません。
説明する方も、自分のこれまでの経験で、10%といえども結構再発した人を見てきた経験があれば、「決して油断はできません」と説明するかもしれませんし、あまり再発を経験していなければ、「10%なので、まず再発は心配しなくて大丈夫です」などと説明するかもしれません。
情報や他人の解釈は本を読んだり、解説を聞いたりすれば手に入れることができます。病気のことも調べればわかります。
でも、「自分にとってはどうだろう」と考えることが、その「情報」のもつ「意味」をとらえることだと思います。
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これをよく表しているのが、患者さんと医者の関係かもしれません。医者にとってはたくさんの患者さんを診察しており、個人差はあってもこの病気だからこうしようとか、この年齢だからこうしようとか、結構情報にたよって、客観的に診療を進めていると思います。
現在主流となっているエビデンス・ベイスド・メディスン(根拠に基づく医療:医師の個人的な経験や慣習などによる治療法選択ではなく、過去の事例や研究などにより科学的に検証された根拠に基づく医療)は、まさにその通りです。
それに対して、患者さんは、自分の身は一つだし病気も自分自身のことです。自分はどうなのか、そんな病気一般の話ではなく、自分の場合はどうなのか、を聞かせてほしいと言うこともあるのではないでしょうか。
さらに、いわゆるナラティブ・ベイスド・メディスン(物語に基づく医療)として、患者の生活歴や背景、性格や考え方なども考慮して、患者さんと相談しながら進める医療も、聞かれるようになってきています。
医療者側も、そういった側面に配慮することが、まさに患者さん個人個人に対応することを目指すテイラーメイド医療の根本ではないかと思います。
鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります。多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。
(P178)
どうしても、学校の勉強や受験勉強、各種試験の影響で、とかくこの世は「問い」があれば正しい「答え」が一つあると考えがちです。
そして、その正しい「答え」だけを答える必要があり、それを覚えなければいけないと思いがちです。
たしかにそういないと点数をつけて評価したり、合否を判定したりすることができませんので、方法論としてはあるべきものだとは思います。
しかし、その影響もあってか、「答えのないもの」に対しても正しい「答え」がきっとあり、それを見出さなければならない、と考えがちではないでしょうか。
でも、とくに芸術はそうではないと思います。見る人見る人によって、自分の記憶や経験、考え方などを織り交ぜて、その人の解釈ができるのです。それでいいのです。
確かに、ちょっとした解説は、自分の解釈を作るヒントになるかもしれません。違った見方を与えてくれるかもしれません。
しかし、それを正解、正しい解釈などとは思い込まないで、自分なりの解釈を作ることが、芸術をみる楽しみだと思います。
つまりここでは、見えないという障害が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深めたりする「触媒」になっているのです。
(P184)
たとえば集団の中に「目の見えない人」がいると、どうなるでしょうか。周りで気をつかって、その人が居心地いいように取り繕ってしまうかもしれません。
それもそうではあります。しかし、見方を変えて、目の見えない人は我々をどのように認識しているのだろうだとか、本書で書かれているように、見える人には思いも及ばないような世界認識をしているということに、思いを及ばしたりするのもいいのではないでしょうか。
私はかえって、「目の見えない人」や「耳の聞こえない人」が周囲に存在することによって、その人のことを考えるだけではなく、では我々「見えている人」はどうなのか、ということに思いめぐらせることができる、そういう考え方が活性化されるのではないかと感じました。
本書でも深く掘り下げていますが、「目の見えない人」のことを考えることによって、実際の我々の感覚機能の特徴であるとか、意外な点が浮き彫りにされてくると思います。
そういった意味で、「目の見えない人」が触媒となり、より深い人間相手のコミュニケーションができたり、人間関係を深めることができたりするのではないか、と思いました。
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障害というのは、健常人が可能なことを十全にできないことを呼ぶようです。ですから、視覚障害や歩行障害はあっても、逆立ち障害や長距離走障害などはありません。
この本を読んで知ったのは、障害があるということは、安直にその他の機能が優れて補っているということだけではなく、ちょっと人とは違った「見る目」を持っているのだということでした。
ちまたには「コミュニケーション障害」という言葉もあり、「コミュ障」などとも呼ばれ様々な対策本も出ております。コミュニケーションも健常人は可能なものということです。でも、程度はありますよね。
世の中に、自分はコミュニケーション障害者だと思っている人はたくさんいて、それで対策の本やセミナーも流行っているのでしょう。
でも、コミュ障であっても、上に述べたような、言い方もなんですがそれによって得られている「良い影響」「効果」はあるのではないでしょうか。
コミュニケーションが上手くないことが、生き方や考え方にどのような影響を与えているのか、とちょっと考えました。
表面的には負の面もあるのかもしれませんが、その一方で何か気が利いたり、要領が良かったりとなど、役立つ能力も得ているのかもしれません。
そして、健常人?とはまた違った、世界のとらえ方ができているのかも、しれません。