弓と禅 オイゲン・ヘリゲル 角川ソフィア文庫
もともとスポーツは好きではなく、とくに激しく動く系はキライでした。また、チームプレーも苦手です。
私は大学に入ってから弓道を始めました。高校のときから、少し興味はあったのですが、そのときは音楽(吹奏楽)の道を選びました。
そんなときに目に入ったのが弓道というスポーツでした。まあ弓道を“スポーツ”などとは今となっては言えなくなってしまったかもしれません。
印象としては、「あまり動かなくて良い」「個人でもできる」といった、私にとって魅力の多いものでした。
今考えてみますと、いろいろと考えが浅はかな、そのころでした。
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今回ご紹介する『弓と禅』は、ドイツ人哲学者の著者が、来日して東北大学(現)で哲学講師を務めるかたわら稽古を行った、「弓道」について述べた本です。
著者は、禅を理解することを目指して弓道の稽古をしました。その稽古、修業の経過を詳細に記載したものです。
弓道を単なる“スポーツ”ではなく、“精神的”なものとして捉え、その根底に流れる思想や文化から理解しようとした記録であり、一人の弓道修行記なのです。
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そこにはやはり、鈴木大拙の述べた仏教、とくに「禅」が日本文化に及ぼす影響が感じられます。
弓道の修業記録としても面白いですし、『禅と日本文化』の一つの実践版としても読むことができます。
また、師匠と弟子の関係、とくに教え方や弟子の態度などについても垣間見ることができます。
弓道をする人はもちろん、日本文化の特色に興味がある人、日本文化っていいなあと思う人、あるいは仕事での師匠と弟子の関係みたいなことで悩んでいる人も、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
日本のすべての道は、その内面的な形式からすれば一つの共通の根、すなわち仏教に遡るということは、我々ヨーロッパ人にとってもしばらく前から秘密ではなくなっています。
(P14)
仏教はすでに述べたように、日本人の民族の文化と生活の諸形式を広範囲に規定し、刻印しています。
(P47)
よく日本は無宗教と言われますが、日本人の生き方や文化には仏教や神道の影響がしみ込んでいることは否定できません。
仏教もお葬式でお世話になったり、お盆にお墓参りをしたりといったことだけではありません。
食べ物を大切にする気持ちや先祖を大事にする気持ちなど、日本人の行動や考え方に色濃く影響していると思います。
そして、生活の所作や、とくに「~道」という日本の様々な武術や芸術の道、多くのことに影響していると説いたのが鈴木大拙の『禅と日本文化』です。
たとえば武士道であったり、より実際的には剣道や柔道、弓道、茶道、華道、あるいは経営者道などであったりと。
こういった日本の文化は仏教や「禅」で実践される考え方や稽古・修行の行い方に根差しているところが大きいということです。
詳しくは『禅と日本文化』のご紹介の記事もご参照ください。
弓道の稽古において、そして日本において、あるいは恐らく他の極東の諸国において学ばれているあらゆる道の稽古において、我々が気づく最も重大な特色の一つは、それらが実用的な目的だけや純粋なアスレティックな楽しみのために行われているのではなく、心の修練を意味し、実際に心を究極のリアリティに接触するようにもたらすことを意味するのである。
(P179)
「弓道における禅」という位置づけによって『弓と禅』は、鈴木大拙の『禅と日本文化』を具体的な実例で示す貴重な例として、欧米社会で受け入れられていくことになる。
(P222)
スポーツには様々な意義があると思います。身体を鍛えること、精神を鍛えること、チームワークを鍛えること、さらに人間性の成長もあるでしょう。
とくにチームプレーが必要なスポーツ、たとえばサッカーであったり、野球であったりは、練習のときから仲間との人間関係や勝負など、人間性豊かな内容があり、マンガやドラマになることもしばしばです。
そういったなかで、日本の「~道」と呼ばれるものは、身体性の向上もさながら、人間性や精神性の向上も目指すもの、いやむしろそういったものが向上しないと、実践面でも意味がなくなってしまうものではないでしょうか。
そこが、弓道(あるいは剣道、柔道なども)が「スポーツ」と言ってしまってよいのかと引っかかる点です。
なにかその競技、スポーツを通して人間としての向上や精神の向上を目指すものだと感じます。
この本では「弓道」を、その技術向上の道のりをもとに、どのように自分の人間性、精神性を向上させていくかを、一人の人間を通して描いているような気がします。
そして、そういった人間性、精神性の向上を目指すのは、仏教という宗教であり、それを実現するための手段、方法論の一つが「禅」なのではないかと思います。
実際、このように無条件に形に習熟するように教育するのが、日本の稽古法である。稽古し、繰り返し反復し、さらに何度も繰り返すことによって、先へと進んで、長い道のりを越えていくのがその特徴である。
(P108)
さて、その「禅」の考えに基づく修行、稽古ですが、これはマニュアルやテキストなど「言葉」で伝えるものではありません。
「禅」そのものからして「只管打坐」であったり「公案」であったり、「頭で考えて理論的にやろうとするのではなく、まずはやってみなさい」というものである感じです。
言葉や文章から理解して、それをやってみようというのではなく、まずは実践してみて、どこがうまくいかないのかなど自分の身体で感じること。
ただひたすらに巻き藁の前で弓を引いていると、あるときちょっとした背中の筋肉の感覚であるとか、腕の感覚であるとか、なにか気づくこともあります。
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また、ときには師匠のことをよく見て、やはり実践してみる(まねてみる)ことも重要です。
その際も、安直に師匠に助言を求めるのではなく、何度も繰り返し実践しているうちに気が付いたり、知らぬ間にできるようになっていたりという経験が大事なのでしょう。
ポイントは、「よく見る」「まねる」「繰り返す」といったところでしょうか。
これは、我々の仕事にも当てはまると思います。診療や手術の技術的なことやちょっとした技、力加減など、なんでも「言葉」で教え伝えられるものでもありません。
背中を見てくれていただくしかないこともあります。いわゆる「暗黙知」のようなものもあります。
禅は「最も妥当な率直な方法」だが、道がはっきり分かった師家の指導がなくては達成しがたい。対して弓道は、肉体的にも精神的にも必死を尽し、心の微かな動揺も射に現われるので、「自己心底に妥協なき自問自答ができ得、その長短是非等も自知し匡正することができるので」、修業を重ねる内に、自己の生まれながらの真心をつきとめていくことが出来る(「わかり易き弓道の意味」)と言うのである。
(P214)
このことをしっかり分かった師匠につくことも大事です。
なんでもかんでもペラペラ説明して教えてくれる師も、分かりやすくてありがたいものです。
しかし、大事なのはその人その人が自分の道を見つけて、いずれは師匠から離れて進んでいく力をつけてやることです。
魚を与えるだけではいけません。魚を釣る方法を教える必要があります。
この意識的に何かをしない態度が本能的にうまく行くためには、心は内的な手掛かりが必要であるが、それは呼吸に集中することによって得られる。
(P101)
・・・この状態が、まったくの無心、無私であり、師が、本来的に「精神的」と言われていたものである。この状態は精神的な目覚めによって担われており、それ故「正しい精神現在」とも名付けられるものである。
(P104)
骨格筋は随意、心筋は不随意、「呼吸」は随意、不随意の両方を兼ね備える生理機能です。このコントロールできる「呼吸」を整えることにより、心の平静を得るわけです。
仏教の瞑想をはじめ、様々な瞑想がありますが、多くの場合呼吸が重要視されています。
また、ここで言われている「正しい精神現在」とは、まさに現代の一大潮流である「マインドフルネス」ではないかと思います。
自分の精神が、自分がおかれている「今・ここ」に在り、しょうがなく雑念は湧き出てもそれに惑わされずに常に「今・ここ」に集中できる状態、それが「マインドフルネス」です。
そういった状態になると、うっそうとした顕在意識や雑念に埋もれていた潜在意識や無意識(ユングの言う普遍的無意識、集合的無意識など、あるいは仏教の唯識論でいう阿頼耶識などもそうでしょうか)から、すばらしいものが湧き出てくるのでしょう。
弓道においても、「今・ここ」の「射」に集中するのです。弓道で最も難しい局面である「会」の充実から「離れ」のタイミングにかけては、まさに無意識のお力を頼るしかありません。
西洋においては、神秘的な巨匠(Meister)が現われても、「流れ星の如く、短く輝いては消えてしまう。彼が遺したものは、しばらくの間は読まれ、賛美される」が、「長い間には、各々が自分に相応しいもののみを取り出す」ようになり、「結局は、その言葉の解釈に陥って、仲間は四分五裂する」
(P228)
言葉より重要であるのは、真の体験をもたらす「道」があることである。もし本当に深くまで徹底せんとする意志があれば、その「道」を修行し、幾つもの小悟・大悟を経て真理に触れ得る可能性がある。
(P229)
西洋哲学は、まず「言葉」での説明に徹していたのではないかと思います。聖書にも「はじめに言葉ありき」と記されています。
ソクラテス、プラトンによる弁論であったり、言葉による分類、記述を基礎とする科学の発展であったり、西洋文明は「言葉」を元に進んできたと言っても過言ではありません。
最近になって、そこにクギを刺したのがウィトゲンシュタインではないかと思います。
彼は言いました。「我々は“言葉にて語り得るもの“を語り尽くしたとき、”言葉にて語り得ぬもの“を知ることがあるだろう」と。
この“言葉にて語り得ぬもの”を語る(言葉で語るのではありませんが)のが、実践を主とする東洋思想であり、とくに仏教や「禅」なのではないかと思います。
その当時、私が慣れ親しんできた方面から、どうにかして助けられることを見つけ出そうと、師は日本の哲学入門書を読んでみたが、しかし、結局、このような事柄を職業としている人間に、弓道を会得することが極めて困難に違いない訳がよく分かったと言って、その本を傍らへ置いた、という話を、後で小町谷氏が私に教えてくれた。
(P120)
師匠の苦労が垣間見える、ちょっといい話だと思います。
師匠もいろいろ工夫したり、苦労したりしているのです。
私も(師匠というほどの身ではないですが)後輩のことを理解しよう、うまく伝えられるようにしようと色々腐心することもあります。
共通の趣味や考え方などあるといいのですが、なかなかそういうやつもいないものです。
まあ、相手に変に迎合してこちらの筋を曲げるのもいけません。まずはこちらの考え方、道を教えることが大事でしょう。
「もしあなたがこのことを理解したら、あなたはもはや私を必要とはしません。そしてもしこの独自な経験をあなたから省いて、その痕跡を追うのを手助けしようものなら、私はあらゆる弓道師範の中で最悪の者になり、〔この世界から〕追い出されるに値することになるでしょう。ですから、もうその話は止めて、稽古しましょう」
(P125)
手取り足取り、言葉を尽して教えるような教え方は、「道」を教える姿勢ではないのです。
師の背中を見て、よく見て、追っていく。師の後ろに師が歩くにつれて作られる道を歩きながら、追っていく。
そしていつか、自分の後ろにも自分の作った道が見えてくるようになる。いつしか、師と少し離れた斜め後ろあたりを歩くようになる。
そして、いつしか師と並んで歩くようになり、いつしか師を後ろにして歩くようになる。
場合によっては、師が歩いている道とはかなり方向の違う道を作りながら、歩いていくかもしれない。
そういう進み方が、「道」を教える姿勢なのではないかと思います。
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まさに、一人の人物が「弓道」という道を歩みながら『禅と日本文化』の一例を踏み進めていく様子を、見せていただくことができる一冊だと思います。
最近機会があって、しばらく手を休めていた弓道も、ちょっと再開してみたところです(とりあえずゴム弓(練習用の器具)を購入して引いています)。
昨今のオリンピックの話などを聞いていると、スポーツの商業化、大衆興行化を感じます。
そういった中で、とくに日本の文化を代表するような「~道」というスポーツは、そういったしがらみにとらわれず、選手にしても、それを見る我々にしても、もともとの「道」の意味を見失うことなく、付き合っていければと思います。
(『弓道の周辺』、『職業・役割を「道」に高めることが大切』の記事もご参照ください)