「教える」ということ 日本を救う、[尖った人]を増やすには 出口治明 角川書店
「教える」ということは、難しいと思います。一言に「難しい」と言ってすませてしまいがちですが、何が難しいのでしょうか。
「知識」を教えることは、ある程度「言葉」で伝えることができますので、相手もその「言葉」を理解できれば、「分かる」となると思います。
しかし、とくに「技術」を伝える場合は、「言葉」だけでは難しいのかもしれません。
様々な職業により、こういった「技術」はあると思います。営業での話し方であるとか、製造業での機械の扱い方など。スポーツや芸術も、まさに「技術」の修得が大切でしょう。
医療の世界であれば様々な処置や手術手技、あるいは患者さんの診察法や対話の技法などがあります。
こちらは伝えたつもりなのに、いざやらせてみると、できないということもあります。教わった側としても、頭では分かっているのに、いざやってみるとできない、ということもあります。
「教える」とはどういうことなのか、どのようにすれば、相手に伝わり、相手が「できる」ようになるのか。今回はそこを勉強しましょう。
*****
ご紹介する本は、出口治明氏による「教える」ことについての本です。氏は「教える」ということは相手に「腹落ちさせる」ことだと言います。
「教える」とは、相手にわかってもらうことです。相手に腹落ちしてもらうことです。「教える」とは、どんな人に対しても、真意を伝えることです。
(P6)
「腹落ち」つまり、教わったことの真意をよく理解して、自分でもその知識や技術を使えるようになることです。
出口氏は『貞観政要の話』でも著書をご紹介させていただきました。歴史や宗教・哲学、文化、古典への造詣も深く、働き方などについてもたくさんの著作を出しておられます。
以前ご紹介した、『教わる側の姿勢』も大切ですが、いずれ人は「教える」側になっていくものです。そういった意味で、親や教育者、上司・先輩の立場の方のみならず、いずれの方にも読んでみてほしい一冊です。
教える立場に立つのなら、相手のレベルに応じて、相手に伝わるように、相手が理解できるように、わかりやすく話す(書く)ことが、絶対的な条件なのです。
(P7)
「相手のレベルに応じて」というのも、重要でありながら難しいところです。自分が慣れているからといって、自分ができる技術を初学者・初心者に求めてはいけません。
お釈迦様も、「対機説法」といって、相手のレベルに応じて、分かりやすい喩えを使いながら教えを説かれていました。
また、技術についても相手のレベルに合わせて、その相手ならどのようにさせるのがいいのいかを考える必要があります。
例えば工事などで、高度な機械や技術を使いこなすことができるのであれば、それが求められますが、そうでなければ使用可能な道具の範囲でどのように安全に対応させるかというところです。
「教えてもらえない→知らない→不安になる→行動しない」という負のスパイラルをつくってはいけません。
(P46)
これは、教える立場にある者の創造力不足にもよるかと思います。どうしても、「きっとしっているだろう」と考えてしまうことがあります。
かえって、「口うるさく言うと、うるさい先輩だと感じられないかな」などと気にすることもあるかもしれません。
でも、相手がある程度「知っている」「できる」にしても、その細部の機微や微妙な力加減など、経験をつんだ者が教えられることは、あるのではないでしょうか。
日頃から教える立場の者がよく教えるようなスタンスをとっていないと、いざ知らないことに出くわしたときも、聞きにくいということもあるかもしれません。
そうすると、自分の行動に自信が持てず、ますます委縮してしまう悪循環におちいってしまいます。
むしろ、教える立場の人間は、聞かれなくても、おそらく知っているかもしれなくても、「教えようとする」くらいの意気込みでいいのです。
人間は言語によって考える生き物ですから、子どもたちに、自分の状況を言語化させることが教育の第一歩ですね。言語化させないと、「自分には能力がない」「自分には向いていない」と子どもたちは勝手に思い込んでしまいます。だからこそ、彼らの声を聞いて、言語化させて、考える習慣をつけさせることが大切なのですね。
(P213)
「言葉にする」というのは、大切なことだと思います。
たとえ「暗黙知」「経験知」と言われる、言葉にできないことがあるとしても、「このあたりはなかなか言葉にできないから、実際のところを見てほしい」などと、言葉にして注意を促すことはできます。
「言葉」にすれば、相手に伝えることができますし、相手もその言葉を覚えたり、メモにとったりすることもできます。また、文章として残すことができ、まとめれば「マニュアル」のような形にできるでしょう。
後輩や子どもの指導についても、「何が分からないのか」「何ができなかったのか」を、「言葉にしてもらう」ということが大事だと思います。
「言葉」として、こちら伝えてくれれば、ある程度こちらの教える側も、相手がどのような点でつまずいているのか、どのようなことが難しいのかが分かります。
これも、なかなか言葉にすることが難しく、実際にやっているところを見せてもらうしかないかもしれませんが、そう言われたら機会をみて観察すればいいのです。
日記というのも、生き方について考えるにあたって、日々の出来事を「言葉」にすることで、保存し、見返し、反省することができるようにすることなのかもしれません。
「なんとなくこんな一日だった」ですまさないで、「言葉」にするわけです。もちろん、「言葉にできない」ニュアンスもあると思いますが、それでもなにかしら「言葉」にしたほうが、残すことができます。
「なんとなく」な記憶は消え去りますが、「言葉」として書き残されれば、後から振り返ることができ、何か思うことがあるかもしれません。
マニュアル化といっても、人間を画一的に縛るものではありません。仕事のマニュアル化とは、人間の個性や多様性を認めながら、仕事のやり方や進め方を共有し、平均化を行うためのものです。
(P222)
マニュアルというと、「マニュアル人間」だとか、「マニュアルに書いてあることしかできない」などと、ちょっと否定的な表現も目立ちます。マニュアルに書かれた画一的なことしかできないという意味でしょう。
しかし、マニュアルというものは決して人間を画一的に縛るものではなく、必要最低限できなくてはならない土台のようなものだと思います。
その土台をしっかりさせれば、さらに仕事の高みを目指すことができます。自分の得意や興味を使って、多様性を生み出すことができます。
そしてまた、そのように拡がって高まっていったときに、ふと立ち返り戻るのがまた、マニュアルなのだと思います。
出口氏は良いマニュアルの条件として、①仕事の「目的」が書いてある、②その目的が、経営理念、経営計画とどのように結びついているのかがわかる、と述べています。
職場で行っている様々な作業、仕事は、結局のところどんな「目的」のために、行っているのか。あまり仕事内容が細分化されると、見失いがちになりますが、立ち返るためにも、マニュアルが大切なのです。
*****
今はなんでもネットで調べられる時代であり、手術手技でさえ動画で確認することも、一部可能なようです。
逆に、教科書やネットなどで調べて知っておかないと、できるようになっておかないと、いけないのではないか、と初心者・初学者など教わる立場の人は思ってしまうかもしれません。
それも必要でしょうが、やはり人間同士が働いている職場なのですから、「言葉」をやりとりしてお互い刺激し合うのがいいと思います。
あるいは、いわゆる“背中を見る”といったことにより、「暗黙知」「経験知」を得ることも必要でしょう。
また、「教える」立場と思っている人の注意点としては、自分も必ず「教わる」立場であるということです。
神様じゃないんですから、どんなことからも「教わる」ことは必要であり、そういう姿勢が人生を豊かにすると思います。
なんでも吸収しようと思いっていれば、先輩や上司に限らず、同僚や後輩、あるいは家族や子どもでさえ、学ぶところに気づくものです。