世の中、情熱にほだされず、理論的にものごとを進めるのが良いような風潮です。
しかし、情熱は思考や行動の推進力となり、理論を実践する推進力でもあります。
理論と情熱の関係について、先人の言葉を引用しながら、少し考えてみました。
情熱なき理論は理屈にすぎない
人間というものは情熱なくして偉大な仕事のできるものではありません。真に力のある生きた思想というものは、偉大なる情熱が、しだいに澄みゆくところに生まれるものであって、情熱を伴わない理性というようなものは、真の理性ではなくて、単にこざかしい理屈にすぎないのです。
(森信三 『修身教授録』 P511)
製塩に喩えてみます。「情熱」は海水を煮詰める炎、あるいは照り付ける天日のようなものでしょうか。しだいに(良い意味で)煮詰まってくると、塩の結晶が現れてきます。この結晶が「理論」です。
製法にもよるかもしれませんが、NaClのいわゆる「塩」以外にも、様々なミネラルが含まれ、味わい深く料理を引き立てる「天然塩」が生まれます。
あとから観察してみると、塩の成分はしっかりあり、他にもマグネシウムやカリウムなどがある程度の割合で含まれることが分かります。
こうやって作られた天然塩が、「真に力のある生きた思想」というものでしょう。
その内容がどのようなものか、つまり「理論」は、多少あとづけでもいいわけです。
一方、工業的精製により製造された精製塩は、イオン交換膜透析法などで生成された高純度のNaClであり、出どころと製造法、成分は明らかです。
しかし、それを実践に用いると、ちょっときつく塩辛すぎたり、深い味わいを生み出すのが難しかったりということもあります。
もちろん、精製塩が使えないわけではありません。しかし、うまく使わないと様々な個性を組み合わせた料理である実世界になじまないこともあります。
「単にこざかしい理屈」と感じられることもあるでしょう。
理論は情熱の切り口の一つ
見方を変えれば、「理論」は「情熱」という「得体のしれないもの」の一面を切り取った切り口なのかもしれません。
情熱をどのように現実化していくかというときに、その一部を理論として表すことで、実世界に応用可能になるのだと思います。
実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は無謀である
(ピーター・ドラッカー)
さて、その理論を推し進めていくにあたり、バックにある情熱の力をかりたほうが、背中を押してもらっているようで、スムーズでしょう。
実践には情熱のエネルギーが必要です。「知識」も情熱という人間性のもとで、実践可能な「知恵」となります。
理論は切り出してみたが、実践しないのでは、世のためになりません。せっかく自分の情熱からうまく切り出したと思われる理論ですから、情熱の後押しのもと、実践したいものです。
また、情熱の、切り出されていない「得体のしれない面」をもって、ぐいぐい押し付けても困ります。
反応はあるでしょうが、なぜその反応が出たのか分からず、フィードバックして改善することが難しいです。つまり、無謀です。
「理論」の裏打ちがあっての「情熱」
簡単に図示すると、右図のような関係ではないでしょうか。
つまり、秘めたる情熱を、実世界で適用するために理解されやすく結晶化したものが、理論だと思います。
そして、情熱の裏打ちがなければ理論は不安定であり、情熱のとらえどころのない面で実世界に向き合っても、なかなかうまくいかないのです。
情熱の”秘め具合”は、人によると思います。
情熱には、理論の上をいく可能性がある
論理は結局、情熱にかなわない
(東大卒プロゲーマー ときど)
理論というのは、「分かっている範囲」の知識を持ち寄ってしか組み立てられません。
分からないことを要素にすることや、「こうしてみたらどうだろう」ということをしようとは考えません。そこに限定が生じてしまうでしょう。
最初のうちは、理論に基づいて勉強、修練していくことが大事です。
しかし、いつかは理論の滑走路を飛び立ち、情熱のジェットエンジン全開でさらなる高みを目指すのです。