魂に火をつけよう

2020年4月5日

魂の燃焼へ 執行草舟 清水克衛 イースト・プレス

執行氏は生命の燃焼を軸とした生き方を実践・提唱している実業家、著述家であり、歌人でもあります。

たいてい、あまり存じ上げないためにこういった著者略歴から引っ張ってきたような紹介を書いてしまいますが、正直これまで存じ上げていませんでした。恥ずかしながら。

しかし、『生くる』や『友よ』など読ませていただいて、まさに「魂を震わせる」ような大変読み応えのある作品だなあと感じました。

清水氏は「本のソムリエ」として知られ、書店「読書のすすめ」を営んでおられます。流行にとらわれず、人間の生き方にビシッと柱を打ち込むような本たちを紹介してくださっています。

一度は「読書のすすめ」のリアル書店にも伺いたいと思っているのですが、なかなか機会がなく、ネットでいくつかの良い本を購入させていただきました。

内容は、お二人の軽妙かつものすごく濃い対話で進められております。

あたかも読んでいる自分がお二人の前に座らせていただいて、ただただ「うんうん」とうなずくしかできませんが、世紀の対話の場に同席しているような感じを受けます。

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あなたの魂に熱はありますか。

いま時分、身体に発熱があると心配ですが、魂には少し熱を持たせましょう。さらに魂を燃焼しながら、生きていければと思います。

この本は、魂に火をつけてくれる本です。

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それが読書の本質に違いない。答えなんかじゃなくて、「問い」を見つけることが大切なんだ。自己に対する問題提起、疑問、それから人生でどんなことに体当たりすればいいのか、何を考えればいいのか、それの材料を過去の偉大な人たちからもらうのが読書だってことに尽きるんですよ。

つまり人生って、問いなんですよ。(P35)

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学校教育というものは、問いと答えのパターンがある程度決まっている知識を教えてくれるといえるでしょう。

または、過去の人は、様々な事柄に対して、このように問いを立てて、そしてそれに対する答えをこうやって作ったんだよと教えてくれる。そういった教育なのだと思います。

そういうこれまで分かっている問いと答え、問いの立て方の一助になるような知識を、義務教育や高等教育で勉強する。さらに高等教育後半の大学では、自ら「問い」を立てて、その答えを模索するような勉強を触ってみるわけです。

そして、読書は「問い」を立てるための勉強になると思います。過去の人々がどのように考え、どのように解決していったかを知ることにより、それを応用するなりなんなりして、自分の目の前の出来事に「問い」を立てていくわけです。

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何度もしつこく言うようですが、みんなが本を「難しい」って言ってるのは、読書の最中に答えを出そうとしているからなんだ。現代人は、みんな学校教育を受けちゃってるから。学校教育というのは、答えを出させるのが目的ですからね。(P44)

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本当の学問とは、「問い」を探求し、追求するもの。

「哭くために読みなさい」というイスラムの神学者の言葉も紹介されています。イスラムでは『コーラン』を読むのは「哭くため」であって、知識とするためではないということです。

知識として蓄積しただけではなく哭いた、つまり感動したり、魂が震えたりすると、読んだ価値があるということです。

たんに知識や情報を得るために読書をするわけではないということだと思います。もちろん、読書の目的には知識を増やすこともあります。

実際のところ日常の読書においては、知識や情報を得るといったことが大部分なのかもしれません。

しかし、ときには「ハッとする」一文に出会えたり、「魂を揺さぶる」言葉に出会えたりすることがあります。

そのとき、知識を得られる以上のものが、自分の心や魂に与えられたのではないかと思います。

「本は心の栄養」と言われますが、読書から得られる「知識」というのは心が通常生活を送るのに必要な最低限の栄養であり、読書から得られる「感動」は、とびきりの「ごちそう」になるのかと思います。

一口の料理やお酒が、その後の料理やお酒の概念に大きく影響することがあります。読書における「感動」も、そういった意味合いを持つのだと思います。

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人間の根源は「精神的量子」にあり

そもそも、自分の存在の根源は、人間の情感が引きつける「魂」であり、人間の悲哀をともなう「生命エネルギー」なんです。そしてそれは目に見えない。(P110)

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「魂」や「生命エネルギー」など、「霊」でも「気」でもなんでもいいですが、そういった言葉でしか表せないモノがあると思います。現時点では科学的に定性性・定量性をもって扱うことができないモノで、科学の範疇には入れません。

もっとも、この世の中で科学の範疇という囲いも、ずいぶん狭くなってきていると思いますが。とくに量子論などは「科学の囲い」からはずいぶんと足を出していると思います。

科学の、とりあえず最小単位として「量子」という概念があるように、精神にも「精神的量子」があり、これらの挙動が「魂」や「生命エネルギー」というわけでしょう。

ここで出てきた「精神的量子」という言葉を提唱したのが、『現象としての人間』で思想界、科学界に影響を与えたテイヤール・ド・シャルダンです。

量子的な挙動で我々の心や精神に働きかけるという点では、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」にもつながると思います。

「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」は、以前にもご紹介しました。

ひと言で言えば、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事が記録されているという仮説である。(『「直観」を磨く』 田坂広志 P164)

このゼロ・ポイント・フィールドから、ときどき太陽風のように我々に対して噴き出してくるひと吹きが、我々の中に「直観」であるとか「感動」をもたらすのかもしれません。

中村天風も、人間とは宇宙エネルギーを現実世界に注ぎ込む媒体であるというようなことをおっしゃっていた気がします。

禅や瞑想、マインドフルネスなどといった方法論は、このゼロ・ポイント・フィールドから情報を取り出すものかもしれません。

そして、「読書」もまた、その方法の一つなのだと思います。

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突き抜けたいなら自分の縦をつくらなければいけない。横がどんなに広がっても、何も突き抜けられない。横っていうのは、たとえば情報だよ。(P146)

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我々はどうしても、自分の生き方や仕事の能力を上げようとするときに、情報を得ようとしてしまいます。多くの本を読んだり、教科書やビジネス書を読んだりと。

もちろん、知識や情報を得ることが必要です。基本的な知識や仕事上のノウハウは知っておく必要があります。

しかし、ある程度のところから、自分を延ばしていくためには、そういった「横方向の拡がり」を進めていくと同時に、「縦方向の高さ、深さ」も得ていくことが大事だと思います。

以前もどこかで描きましたが、縦方向の高さを盤石に得るには、ある程度裾野の拡がりも必要です。やはり基本的な知識やノウハウは、読書や実践を通して増やしておくことです。

そして、縦の力を得るには自己を掘り込むこと。知識や情報を集めると同時に、自分で考え、自分なりの思想軸を持つことだと思います。

そして、人間関係としては、ただっぴろいような横の関係を拡げるだけではなく、他とは比較できないような関係を持つことだということです。

人間関係の要素としては、あの人はこれを教えてくれる、あの人は自分とこういった関係の人だ、という自分との関係性、はたまた利害関係でとらえてしまいがちです。そういった関係は自分の「横幅」を拡げてはくれるかもしれませんが、「縦」の高さ、深さにはあまり影響しないと思います。

しかし、中にはそういった関係ではなく、存在するだけで自分が励まされるであるとか、安心するであるとか、なにかあったらあの人に相談すれば大丈夫であるといった人があります。それが、自分の「縦」の高さ深さを伸ばしてくれる人です。

そういった関係の人が、一人あるいは数人いればいいのではないでしょうか。両親や家族なんかは、典型例なのではないかと思います。

だから、「お父さんとお母さんと、どっちが好き?」と聞かれても、「三人兄弟の中でだれが一番好き?」などと聞かれても、答えられないのではないかと思います。

そして、新たな人間関係でも、そういった人が自分の配偶者になってくれたり、友人や後輩、上司や師匠になったりしたら、素晴らしいと思います。

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