「答えの無い問題」を相手にするには

2020年3月10日

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 帚木蓬生 朝日選書

今回ご紹介します本の題名「ネガティブ・ケイパビリティ」というのは、本文中の説明を引用いたしますと、

つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。(P58)

とされています。

対義語としては“ポジティブ・ケイパビリティ”があります。これも本文中から引用しますと、

できるだけ早く患者さんの問題を見出し、できるだけ早く、その解決を図ることが至上命令になります。あまり迷いがあってはいけません。症状から、いくつもの鑑別診断を思い浮かべ、性急に検討して、快刀乱麻、解決法を見つけるのです。

これは言うなれば、ネガティブ・ケイパビリティとは反対の、ポジティブ・ケイパビリティの育成です。(P79)

ということです。

しかし、我々の教育は後者のほうが多いような気がします。というより、ほとんど後者ではないでしょうか。まず、教育というのは、とくに学校教育というのは、明らかに「これはこうだ」ということを教えますし、そういうことを考える訓練をします。

つまり、「問い」に対して明確な一つの「答え」を提示する、見つけることを要求します。そして、その「問い→答え」をいうパターンを解くことが、学校教育の命題のようになっています。

それもいたしかたないことです。学校というのは、これまで人間が積み上げてきた数々の「知識」を伝授する場だからです。

「知識」は結晶化しており、「こういうものだ!」と輝いています。教育する側はその輝きの特徴をとらえ、かつ部下や生徒など教育される側に伝授していくのです。

たとえば生物学であれば、「(仮説ではあるが)生物はこのように進化してきたのだ」であるとか、数学であれば、「こういった経緯でこの公式が発見されました。覚えましょう」などという具合に。

しかし、たとえば、「では、生物はこれからどのように進化していくのか」であるとか、「いわゆる“複雑系“のようなものは数学で整理できるのか」などといった問題にあたったとき、どうしたらいいか分からなくなります。

上に述べた問題は、私が今、テキトーに考えただけであり、実際は分かるのかもしれませんが、世の中には持前の「知識」さえあれば簡単に解ける問題もあれば、必ずしも「知識」を駆使しただけでは解けない問題もあります。本文から引用しますと、

今の時代は、「こうすれば、苦労なしで、簡単に、お手軽に解決しますよー」のほうが受けるのです。でも、お手軽な解決ばかり求めてしまうと、何かが欠落しますし、結局は行き詰ってしまいます。なぜならば、「世の中には、すぐには解決できない問題のほうが多い」からです。(P200)

ということです。

そうです。世の中にはすぐには解決できない、これまで勉強してきた「問い→答え」のパターンが使用できない問題のほうが、多いのです。

これは、様々な職業が相手にしています。社会学者の相手にする「社会」、経済学者が扱う「経済」、政治家が扱う「政治」、あるいは医療関係者が扱う「患者さん」「病気」、はたまた哲学者が扱う「哲学」や、宗教家が扱う「宗教」もそうでしょう。

もっと根源的に言えば、人それぞれが生きているうえで、「どのようにしたら良く生きられるのだろう」といった「生き方」であるとか「人生の意味」などといったことも、「問い→答え」のパターンなどあるすべもないものでしょう。

扱うというよりも「格闘する」といったほうがいいように、世の中はこういった「問い→答え」を駆使するだけでは解決できないことがあります。

内田樹氏のいう「歩哨の資質」ともつながる面があるでしょうか。こういう「なんだか得体のしれない相手」を相手にする場面では、「問い→答え」の能力とは別の能力が必要だと思います。

こういった問題に対して、どのように対峙していたったらよいか。一つの提案として「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方を与えてくれるのが本書です。

それにしても、とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには、簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は、それを抱く人の体温によって成長、成熟し、さらに豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては、一段と深みを増した謎は、底の浅い答えよりも遥かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。(P77)

もちろん、「問い→答え」のパターンが決まっている問題はそれにのっとって解けばいいですし、たんに自分の「知識」が足りなくて解けないだけというのも困りますので、勉強したり人に聞いたりしてみることは重要です。

そうでなければ、性急に答えを求めず、問題を内に抱いておくわけです。そうしているうちに、おそらく潜在意識なんかも力を貸してくれるのでしょうか。一定もしくはある程度の解答に近いものが得られることもあります。

また、その謎から派生して、考え方が拡がったり、新たなテーマが思い浮かんだりといった複利もあるかもしれません。

解答も、一つとは限りませんし、国や気候や時間などの場合、さらには当事者である人間によっても解答が違うということもあります。

たとえば、医療の場においては、末期がんなどで緩和的医療を行う場合があります。そういった患者さんの過ごし方にガイドラインもなにもあったもんじゃありません。患者さんや家族の考えも聞いて、こちらとしてもベストと思われる提案をして、その人なりの道を決めていくわけです。

こういった経験は、表立って点数化できるものではありませんが、かなり勉強になると感じます。経験知、暗黙知が鍛えられるような気がします。

生身の人間を相手にする職業、もちろん銀行員でもコンビニ店員でも政治家でもそうですが、とくに身体的・精神的に人間に接することの多い医療関係者には、必要な考えと思います。

芸術家の認知様式

創造行為をする芸術家の認知様式に注目した論文もあります。その特徴的な能力とは、対立するあいまいな情報を統合する力、言い換えると、二つ以上の正反対の思想や概念、表象を同時に近くして使う能力です。

別の研究では、創造性の源になる認知の形式を六つの次元に分けて考察しています。それは、①知性、②知識、③能力をどこに集中させるかという知的様式、④性格、⑤動機づけ、⑥環境、の六つです。

このうち④の性格特徴として指摘されているのが、いみじくも「曖昧な状況に耐え」、「切れ切れのものが均衡をとり一体となるのを待ち受ける能力」です。(P144)

芸術というのは、「曖昧な状況に耐え」、「切れ切れのものが均衡をとり一体となるのを待ち受ける能力」を鍛えるのに良いのかもしれません。さらに言えば、芸術とはそのようにして付き合うものかもしれません。

芸術をいうもの自体が、もともと理論的に「問い→答え」といった具合に解説されるようなものではないと思います。芸術は代表的な「解決できない問題」だと言えます。

たとえば、絵画であれば、ある程度どこの誰が何年に描いた絵で、こういったことを描いていて、こういった境遇だったからこういった気持ちが込めれているのではないか、などと読むことはできると思います。

しかし、絵画は読む、解説する、あるいは解説を聞くものではなく、まずはじっくりと見るわけです。

けれども、「曖昧な状況」でよく分からないかもしれない。「切れ切れの情報」が描かれていてよく分からないかもしれない。

しかし、その不安感にじっとたえて、見ていると、いつしか自分の記憶だとか、経験だとか、あるいは潜在意識だとかと結びついて、その人なりの一つの「解釈」が生まれるのではないでしょうか。

音楽も同様です。音楽も解説書などありますが、まずはじっくりと聴いてみるわけです。なにを表しているのか「曖昧なメロディー」かもしれない。次々と入れ替わる「切れ切れなフレーズ」についていけないかもしれない。

しかし、ある時、音楽を聴いていて自分のこれまでの思い出が蘇ることがあったり、ふと失恋や喪失、あるいは歓喜などあった場合に聞いてみると、見事に自分の今の心情と肩を組んでくれたりすることもあるかもしれません。

「聴く」は、たんに音を拾う「聞く」ではなく、「聞く」に自分の「徳」つまり人間性を織り交ぜることだと思います(漢字の構造的にも)。

孔子の言行を収録した『論語』は、およそ三分の一が芸術論になっているそうです。論じられているのは、絵画、詩、演劇、音楽で、真の人間になるためには、芸術を学ばねばならないと強調されていると言います。(P193)

芸術はそういった意味で、人生に次々と立ちはだかる「解決できない問題」を相手にする能力を鍛える一旦を担っていると思われます。

『論語』において、孔子も芸術については多く述べているようです。孔子といえば礼儀や道徳につながる儒教で有名ですが、そういった、言葉で説明できることは、それこそ『論』じたり『語』ったりすればいいのですが、そうではなくて、そういった方法では解決できない問題も数多くあることを感じていたのではないでしょうか。

それで、自分の言行でも、芸術について多く語り、弟子たちに伝えようとしたのではないでしょうか。

そういえば君子の六芸(礼・楽・射・御・書・数)では「楽」は第2位に順されており、音楽のもつ時間意識の涵養とともに、これまで述べてきたような「解決できない問題」を扱うために、重要視されてきたのではないでしょうか。

現在の小中高の教育にも、かろうじて「音楽」があるのは、喜ばしいことです。

*****

自分自身としても、知識や経験を蓄積して問題解決能力としてポジティブ・ケイパビリティを磨いていきたいとは思います。

一方で、「どうしても解決できないときにも、性急に解答を求めず、持ちこたえて温めていくことができる能力、ネガティブ・ケイパビリティ」も意識しながら、「解決できない問題」の相手をしていきたいです。

また、部下や後輩にも、とくに優秀な人ほど、問題が起るとすぐさま「あらゆる方向から考察して何かしなくては!」と解決策の実行を求める者が多いこのごろですから、こういう考え方もあるんだよ、と教えられればと思います(もちろん、あらゆる方向から考察して何かしたほうがいい場面はそうするべきです)。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。