直観を磨く

2020年3月1日

直観を磨く 田坂広志 講談社現代新書

著者の田坂広志氏は2020年1月6日にも紹介させていただいたが、仕事論を中心に多彩な著作を著している。今回は、『直観を磨く』という本を紹介したい。

「あなたは自分の中に『天才』がいることに気がついているか」と副題されたこの本には、自分の中にいる「賢明なもう一人の自分」の意見を引き出し、「直観」を得ることで最高の思考力につなげるための技法が記されている。

氏のこれまでの著作にみる仕事論について、技法的な面で深く掘り下げ、さらにそれらを統括するような「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」を紹介している。

AIに負けずに、人間という生身からしか生み出せない思考力を得て、仕事をしていきたいと考えている方には、ぜひ読んでいただきたい一冊だ。

我々は、いつも、問題解決の鍵を、「最先端の技術」や「革新的な制度」に求める傾向があるが、しばしば、その解決のための本当の鍵は、「人間心理の機微」にあるということである。(P61)

著者の言う「人間心理の機微」は、これまで様々な場面で、人間の生き方の重要な要素として述べられていると思う。

「他人の善:self-realizationを考えること」(西田幾多郎)、「人間心理の洞察」(森信三)、他者貢献」(アルフレッド・アドラー)、「利他」(仏教)、「愛」(キリスト教)、「他者への創造力」、「人を思う心」(『本を守ろうとする猫の話』より)。

これらはいずれも人間が生きていくために必要なことであり、「知識」を「知恵」に昇華させる要素である。

知識偏重の考え方では、ある問題が生じたときにどのように解決するかについて、過去の記録や報告を調べたり、著者のいうように「最先端の技術」や「革新的な制度」によって、なんとかならないかと考えたりする。

しかし、著者は解決のための本当の鍵は「人間心理の機微」にあるという。

データや現象を相手にして、それをどう変えようというのが、知識偏重の問題解決手法だろう。それに対して、知識に上に列挙した要素を組み入れ、「知恵」として用い、問題を解決の方向に向かわせようというのも、一つの解決策である。

たとえば、がんの末期で身体的、精神的苦痛にある人に対して、症状やデータの変化に応じて投薬や処置を行うのも必要であるが、「この患者さんはどういう気持ちでいるのか、今なにかしたいことはないか」などといったことを考え、それを叶えるようにするのも、必要である。

では、どのようにすれば、我々は「経験」から「体験知」を学ぶことができるのか。

そのためには、何よりも「反省」の技法を身につけることである。そして、その技法によって、貴重な「経験」を明確な「体験」へと深めることである。

では「反省」の技法とは、いかなる技法か。

第一 「経験の追体験」、第二 「体験知の振り返り」、第三 「体験知の言語化」 (P88)

そもそも「体験知」は、言葉で表せないものである。

しかし、その「体験知」を言葉で表そうと努力するとき、言葉を超えて、我々の身体感覚が、その「体験知」を摑むのである。(P93)

著者は「直感を磨く」ための要素として「体験知性」による思考を提案する。本で読んだ知識ではなく、体験から掴んだ知恵で考えるということである。

本を読んで得られる「文献知」に対して、自身の経験や体験を通じて得られた「体験知」があり、後者は言葉では表せない知識とも言える。

ポランニーの言う「暗黙知」も同じものであり、他人にマニュアルや指導で教えることのできる知識に対する、言葉では伝えにくい「知恵」も同様だろう。

その「体験知」を学ぶ技法について、著者は「反省」の技法を重要視する。ここで述べられているように、経験を追体験し、得られた体験知を振り返り、言語化しようとする行動が、「反省」の技法である。

たとえば、われわれも患者さんに対して手術や病状の説明をすることがある。厳しい話になることもある。

説明が終わったときに、「あのことを伝えた時の患者さんの反応、家族の反応はどうだったか」、「あれを伝えるのであれば、もう少し説明をしてから伝えた方が良かったか」、あるいは「画像の説明が多くて、患者さんや家族のほうをあまり見ず、反応を拾うことができなかったのではないか」などと考えることだろう。

言語化するには、上記のようにたどたどしくても文章に書いてみて、さらに「なぜそうなったか」や「なぜそう感じたか」などその場の感想や、あるいは同席者の意見も聞くといいた思う。

「しかし、経験そのものが浅い若手の人材や、経験を積む機会に恵まれない人材は、どうすれば良いのか」

それは、「疑似的な経験」を大切にすることである。

「この場面、この人物は、どのような思いなのだろうか?」

「この場面、この人物は、どのような考えなのだろうか?」

「この場面、この人物は、どうしてこの行動を取ったのか?」

といったことを想像する事であり、さらに、

「この場面、自分がこの人物の立場なら・・・」(P96)

患者さんに対する説明のときには、同席者として看護師や研修医・経験の浅い医師もつくことが多い。看護師は患者さんの反応などを観察、記録し看護につなげることが仕事であるが、研修医などの役割はなにか。

もちろん、上級医の話し方や話の進め方、目線などを見て、自分が説明する場になったときのために勉強するという意味も大きい。

しかし、初学者の目から見て、「こうしたほうがいいのではないか」、「これは言わないほうがよかったのではないか」、あるいは「こう言ったらよかったのではないか」などと思うこともあると思う。

そういったことも含めて、後で「反省」の場を設け、「反省」することが、お互いの勉強になると思う。

文章に表すだけで「賢明なもう一人の自分」が囁き出す

第一ステップ(列挙)、第二ステップ(整理)、第三ステップ(執筆)

・・・しかし、筆者にとって、文章を書く方法は、少し違う。

第三ステップ(対話・執筆)

そして、その考えを、論理的に、分かりやすく文章にしていこうとすると、自分の中の「賢明なもう一人の自分」が囁き出す。(P131)

「自己対話」第一の技法 まず、一度、自分の考えを「文章」に書き出してみる

「自己対話」第二の技法 心の奥の「賢明なもう一人の自分」に「問い」を投げかける

それは、「賢明なもう一人の自分」は、実は、心の奥深く出こうした「自問自答」に静かに耳を傾けているからである。そして、しばしば、その「問い」に刺激を受け、動き出し、ふとした形で、その「答え」を教えてくれるのである。(P192)

人類の歴史の中で、永く、多くの人々に語り継がれてきた格言や名言というものは、自分自身の「体験」に照らして、それを読むときのみ、その叡智を摑むことができる。すなわち、「体験知性」によって読むときのみ、心の奥深くの「賢明なもう一人の自分」が動き出し、その格言を触媒として、我々に深い叡智を教えてくれるのである。(P225)

これまでの文章術などの本を読んでいると、だいたい最初に述べられているように、話の主題を決めてネタを集め、整理して項目を考え、そして執筆するという流れが多いと思うし、実際に私もそのような流れで文章を作ることが多い。

しかし、後半で著者の言う自己との「対話」が、「賢明なもう一人の自分」からの意見を引き出す重要ポイントだということだ。

「賢明なもう一人の自分」とは、いわゆる潜在的無意識、普遍的無意識のような顕在意識下に眠っている情報や、家族や仕事場、地方といった集団、あるいは広く人類一般に眠る無意識からの声かと思う。

潜在意識の使い方としても、様々な場で言われていることであるが、「問い」続けるというのが一つのポイントである。

自分で始終ウンウン考え続けるのもいいが、無意識下で「どうなんだろう」という「問い」を常に通奏低音のように鳴らし続けることによって、あるときフト一つの「答え」を浮かび上がらせてくれるのが、潜在意識の特徴である。

このように問いかけ、声を引き出し、囁きに耳を傾けることで、「賢明なもう一人の自分」が自分の考えを単なる「知識」ではなく「知恵」にあふれた考え、文章としてくれるのだろう。

そしきて、古くから伝わるいわゆる「格言・名言」は、昔の人々が考え苦悩したうえで「賢明なもう一人の自分」と対話を重ねて紡ぎ出した言葉なのだと思う。

だから、状況によって自分の問題を解決してくれる「知恵」となるのである。

「フィールド」には、すべての情報が記録されている

ひと言で言えば、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事が記録されているという仮説である。(P164)

著者は原子力工学を専門とする科学者である。そのような著者も上記のような考えは、いわゆるオカルト的(「オカルト」という言葉自体もともと「潜在」という意味であり、面白いが)とも感じられと言っている。

科学はオカルト的な要素を排除し、人類の無知を啓蒙すべく発展してきた。しかし現在に至っては科学の最先端は、これまでいわれた「科学的」とは違った様相を呈してきている。

相対性理論と量子論である。

「空間がゆがむ」「観測者によって結果は変わる」という要素はこれら二つの理論の特徴の一つであり、これまでのニュートン力学を中心とした物理理論では歯が立たなくなってきている。

著者のいう「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」もこれまでの科学から考えると、にわかに信じがたいものであったが、最近の量子論などを考えると、まったく信じられないというものでもない。

だいたい、テレビドラマをお茶の間に伝える電波にしても、ごく一瞬の電磁波の波がテレビ画面に映るドラマの風景や色、登場人物の姿から声まで全て含包しているのである(そこに登場人物の心情も、といったら言い過ぎかもしれない。それは受け取る視聴者側のアンテナによるだろう)。

*****

古来から伝わる禅や祈り、瞑想、あるいは最近はやりのマインドフルネスなどは、こうした情報を汲み出す方法論なのかもしれない。

ときどき、そういった方法で「賢明なもう一人の自分」との「対話」を行い、すでに構築された理論やエビデンスも使いながらも、「直観」豊かな思考力を磨いていきたいと思う。

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