忘れられた巨人 カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫
少し前だが、忘年会のシーズンになると、「忘れる」とはどういうことかと考えることがあった。
イヤな出来事、恐怖、怒り、悲しみなど忘れた方がいいものもある。良い出来事、感謝、安心感、あるいは初心など忘れない方がいいものもある。
良いことや、イヤなことがあるけれど、余計なことは忘れて、そこから何かエッセンスというか、教訓を身につけて、次に生かすことができるというのが、人間の「忘れる」「忘却」という能力かもしれない。
このような芸当は、決してキカイやAIにはできないと思う。
忘年会では今年のことは忘れる。しかし、「去年今年貫く棒のごときもの」と高浜虚子の句にもあるように、年をまたいでも貫かなければならないものもある。
「忘れる」ことについて、ふと考えさせられる一冊を紹介したい。
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物語の舞台は、アーサー王伝説の時代の後のよう。アーサー王ゆかりの人物や竜も登場する。
主人公アクセルとその妻ベアトリスは夫婦として生きており、離れて暮らしている息子もいるようだ。
しかし、その設定は作中の記述からもハッキリしないくらい「ぼやけて」いる。二人の過去についても、いろいろエピソードはあったようだが、いまいちハッキリしない。
他の登場人物も、なんとなく目的がありそうである一方、その「目的」も不安定なものに感じられる。
作中の登場人物の記憶は「竜」の吐く霧によって「忘却」させられ、あいまいになっている。「竜」の息が人々の記憶に厚い霧となって覆いかぶさっている。
読んでみると、なかなかストーリーがしっくり入ってこない気がするが、これはもしかして、我々の物語性作成能力を試すため、あるいは任せていただいているために、ある程度穴埋め的なストーリーにしているのではないかと思ったりもする(そんなことないでしょうけどね)。
多少、キツネにつままれたような不思議かつ不安定な余韻とともに、「忘れる」ということはどういうことかについて、ふと考えさせてくれる物語である。
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これを読んで、自分の人生で(または多くの人それぞれの人生で)、どういったことが記憶に残り、どういったことが「忘却」されるのかを、ふと考えてみた。
そもそも、我々もそんなにハッキリと昔のことを覚えているか? 覚えていることは思い出に残ることだけで、かなり楽しかったり、印象的だったりしたことではないか。
つらい思い出も覚えてはいるけれど、たいていは「あのときはつらかったけど今になって思えば良かったよね」ということではないか。
おそらく、大部分の出来事は、主に嫌な記憶やつらい記憶は忘れられてこそ、今とこれからを生きようとできるのだろう。
「竜」の吐く霧ではないが、コンピュータのように半永久的に記憶を保持するのではなく、モヤモヤと次第に忘れることは、人間のメリットだと思う。
能動的に「忘れる」こともできる。そして、ときには必要である。私も高校卒業後に引っ越したさいには、それまでの生活は、忘れて、ともすればなかったことにして新しい生活に入りたいとさえ思った。
これは、それまでの人間関係から離れて、新たな人間関係に自分を落とし込むことによって、自分が変わることができるのではないかという、淡い期待もある。
しかし、環境が変わることによって、コンピュータのプログラム交換のようにスッカリと人間が変わっては、「あなたは誰なの?」となってしまう。
ある程度の「棒のごとき」もの、たとえば考え方だとか好みだとかは一定のものが必要だろう。性格なんかも、そうコロコロと変わるものではない。
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うまく、「忘れる」ことを使って、環境を変えて生きるのも一つの手だろう。
否定的な意見もあるだろうが、それでいいのだと思う。
いろんなところで言っているが、人生は選んだ道が正解である。選ばなかった道の全部や、もと来た道の一部は忘れてよいのだと思う。
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「忘れる」ことバンザイ、みたいになってしまったが、決して忘れてはいけないこともある。
それでも個人では忘れてしまうので、言い伝えていかなければならないことがある。